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走り出したら  作者: 肉団子
5章
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お茶するだけだから

 進路指導室にでも寄ろうかと考えていると、廊下の向こうから千佳が歩いて来るのが見えて、俺は思わず身構える。

 彼女はほとんど何の反応も示さずに、十分に近づいてから、

「まだいたんだ」

 と、いつも通りの調子で声をかけてくる。

 歩道橋での会話以来、俺は千佳に会うたびにどきりとするが、あちらはまったく普段と変わらない。

「おまえこそ」

「ん……まあね。もう後何回来るかわからないから、ちょっと探検をね」

 日数にすれば十数日である。それだけで俺たちは、この場所を去ることになる。ちょっと考えればわかることだが、やはりどうにも実感が湧かない。

「知ってた? 正門の近くに松が植えてあるの。今日知ったわ」

 嬉しそうに語る千佳の表情には、爽やかな別れを決意したふうがある。すでに卒業していくことを受け止めている。進路が決まっているかいないかの違いだけではないだろう。

「ま、暇で暇でしょうがない私と違って、修ちゃんは受験生なんだから。さっさと帰って勉強なさい」

「誠はいいのかよ」

「あっちも受験生だからね。ちょっとは遠慮してるのよ」

 幸せを振りまきながら、千佳は去って行った。

 幸せになりたくないんじゃないの、と彼女は言った。そのことに家庭環境が関係しているのではないか、とも。

 しかし俺は……いや、子供の姿をした俺は幸せになりたくない生き物はいない、と言うのだ。

 だとすれば、不幸を望むように見える俺はいったいなんだ?

 迷路に迷い込んだように、同じ景色ばかりが続く。いちいち道を違えていないか立ち止まり、行く末を不安に思って足が竦み、恐怖にかられて振り返る。それだけ慎重にしていても、思考は堂々巡りをする。

 幸福ってなに。俺の幸福はどこにある。俺はどこから来て、どこへ行く。

 結局のところ、俺は俺を知らない。

 けれども始点だけははっきりとしている。確かにあったはずの幸福を、自分の手で壊したあの日である。

 家に帰りたくない。わけもなくそう思う。

 こんなときに部屋の中にいたら、おかしくなりそうで俺はあれこれと理由をつけて学校に居残り、また学校を出てからもあちこちと寄り道をする。

 ペットショップに行って育ちすぎて半値で売られる犬に同情し、本屋で立ち読みをし、公園で子供たちの姿を眺める。

 ふいに幼少期の記憶が甦る。

 どうしてその日、一人だったのかは定かではない。補助輪つきの自転車を漕いで、俺は団地の外へ出た。子供ながらに団地の前の道路なら、外へ出たことにならないのだと屁理屈を考えていた。ちょうど部屋の前に植木や室外機を置くのと同じ認識だった。

 思いがけず長いその一周をする間に、どんどんと雲行きが怪しくなった。真っ黒で、不吉な雲だった。にわかに肌寒くなって、俺は恐怖していた。

 それでも引き返そうという気持ちは一切なかった。一周したいのだ。それが全てだった。

 怒られることや帰れなくなることを、考えなかったわけではない。それよりも大切なことがあったのだ。

 あれほど強烈に、何かをしたいと思わなくなったのはいつからだろう。まさか年のせいではあるまい。俺はまだ、それほど老け込んではない。

 それこそが家庭環境の悪影響なのか?

 何かに気付きそうな気がして立ち止まる。しかし頭が回るより先に、鮮やかな金髪が視界にちらついた。

 いまどきあんな金髪、めったに見ない。世界で唯一とは言わないが、しかし我が校の制服を着ているとなれば、ギャル美たった一人きりである。

 細道の先に横たわる商店街を、つかつかと歩いていく。声は届かないが荒げているのが表情と仕草から伝わってくる。相手は近くの工業高校のブレザー姿の二人組みである。

 まさかそんなベタなこと……。

 半笑いに小走りで追いかける。やがて喧騒の中で、知った声が縫うように届く。

「だから、興味ないって」

「ちょっとだけ、ね? お茶するだけだから」

 そのまさかだった。その事実に、一度気後れする。ちょっと面白い。見ていたい気もする。

「しつこいなっ!」

 怒鳴りつけるギャル美は、言葉ほど苛立ってはいない。去勢をはっているような、怯えもない。ただ心底困り果てている。ナンパ男たちを睨んではいるが、少々垂れた眉からはどうしたものかという困惑がうかがえた。

 近付いていきながら、何がもっとも手っ取り早いか考える。

「よお、留美!」

 可能な限り親しげに呼びかける。ギャル美はぎょっとした表情で振り返った。少し遅れて男たちも俺に視線をくれる。

「こんなとこでなにしてるの? えっと、二人は友達?」

 彼らの間に割り込むように入って、睨みをきかせる。状況がベタなせいで、対応までベタになった。内心ものすごく小っ恥ずかしい。

「ううん、知らない。行こう」

 ガンを飛ばしあう俺たちを引き離すように、ギャル美が腕を引いた。よろめきながら「じゃあな」と軽く手をあげて別れを告げる。

 早足でいくらか進んだところで、ギャル美はちらりと背後を確認すると並足に戻る。

 つられて背後を見るが、ブレザー姿はない。放課後の時刻に商店街を歩いているのは、ほとんどが中年の男女だった。

「……助かった。ありがとう」

「まあ、俺としては面白かったから、もっと見てたかったけど」

「面白かないっての。あれ、絶対初めてよ。ちょっと照れた感じだったし、決まりきったことしか言わないし。だから優しく断ってたのに、引き際悪くて嫌になる」

「こういうこと、良くあるのか?」

「ま、たまにね。ほら私、目立つし」

「ずいぶんと自分の顔に自信がおありで」

「じゃなくって髪の毛!」

 ぱしんと腕を叩かれる。不満を表す強さだが、決して痛くはない。

 ギャル美はうつむき加減になりながら、サイドにまとめた金髪を白い指で梳る。同じぐらいに感じていた身長は、いくらか彼女のほうが小さいことに気がついた。

「あのさ、さっき、私の名前……」

「え? ああ悪い。ギャル美って言うのも、なんか格好つかないだろ」

「そうじゃなくて、知ってたんだって」

 やけに気弱な、女の子みたいな声だった。いや間違いなく女の子ではあるのだが、どうにも女性という印象が強い。

「そりゃ同級生だもの。俺もちょっと前、鈴やんに下の名前で呼ばれて、ドキッとしたよな。あれ、女だったら惚れてる」

「なにそれ」

 思わず漏らした失笑を、ギャル美は握った人差し指で押さえるような仕草をする。少し潰れた唇が色っぽい。

 商店街を抜けると、色づいた陽光が辺りをぬくめていた。寒い日が続くほど、太陽のありがたさを実感する。

 手庇を掲げて太陽を見遣ったギャル美の金髪がより耀いて見える。ふわりと髪をたなびかせて振り返る。

「黒沢さ、今って時間ある?」

「時間のない奴は、こんなところうろつかないよ」

「そりゃそうだね。じゃあ、どっか寄らない? 助けてくれたお礼に、おごってあげよう」

「お? マジで? 俺行ってみたかった場所あるんだよ」

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