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走り出したら  作者: 肉団子
5章
106/124

幸福の具体

 扉の向こうは、やはり四歳ごろまでを過ごしたかつての住まいだった。

 狭くて薄暗い玄関。左手の靴箱に鍵入れと虫除けスプレーが置いてある。壁とのわずかな隙間に虫捕り網。俺は名人だった。姉の同年代の子供に混じったって、誰よりも多くのトンボを捕まえられた。

 覚えていないはずなのに、はっきりとここが我が家だとわかる。

 胸が詰まって、わけもなく涙が出る。袖で拭って中に入った。正面のドアはトイレ。T字の廊下を右に行くと、寝室として使っていた和室。窓の外には公園がある。

 そして反対側。こちらは本来ダイニングキッチンと一部屋だったものを、襖をはずしてリビングとして使っていた。

 磨り硝子のドアを開けると、少年がいた。

「ああ……」

 見たことが無い、少年の後ろ姿。けれどもそれが、俺なのだということは、疑う余地は無い。

 三歳か、四歳か……俺は一人で積み木遊びをしていた。

「一人か?」

 声を、かけた。少年は驚きもせずに振り返る。

「わかるでしょ」

 その声は見た目相応に舌足らずなくせに、怖いくらいにふわふわしていない。

「ずっと?」

「うん。おとうさんが、いなくなったから」

「なんで、子供なの」

「ぼくがわすれてたからでしょ。それか、みつごのたましいひゃくまで、だから」

「難しい言葉知ってるな」

「しょうがっこうで、よんだから」

 そういえば小学校に読書の時間があって、図書室で適当に選んだことわざの本で、その言葉を覚えたのだと思い出す。つまり彼は俺なのだ。子供の頃の自分ではなく、今の自分自身と変わらない。

「どうしてこんなとこに、一人でいるんだよ」

 俺の問いかけに、彼は悲しそうに目を伏せた。しゅんとした様子は、捨て犬みたいだ。

 気まずくてベランダに出る。草むらがひろがっている。そう、虫捕りをしていて、ベランダから見下ろす親に手を振ったこともあった。

 しかしその外側は、見えない。たった一度、補助輪つきの自転車で団地の外周を回った以外では、母と買い物に行ったことしかないからだろう。俺の記憶からは団地の外がすっかり欠落していた。

「なあ――」

 振り返って、乱雑にかため置かれたパイプの山を見た。

「ああ、そうか……」

「おもいだした?」

 彼は子供っぽい無邪気な声で言った。「ううん、わすれてたわけじゃないよね」

 たぶんこれが、俺の原風景。

 灰色の絨毯を敷いたリビング。大きなブラウン管テレビがあって、絵本やビデオテープの棚が並んでいる。ぬいぐるみを詰めた箱。敷居を挟んでダイニング。茶色い床と、同じ色をしたテーブル。白が焼けて黄色っぽくなった台所。

 父と母と姉と、そして自分を含めた家族四人で過ごす空間だった。子供にはわからない問題を孕んでいたとしても、当たり前の幸福を感じていた世界。

 そこにたった一人、俺は取り残されていた。

「俺の最初の記憶なんだな」

「そうだね。ほんとうはおかあさんと、おねえちゃんがいたんだけど……」

 やっぱり寂しいのか、伏し目がちになる。

「なんで忘れてたんだろ」

「じぶんでいうことじゃないけど」

 と、彼は前置きをする。「ぼくはそんなにバカじゃないよ。おとうさんにサヨナラをいわれたとき、ちゃんとわかってたんだ。こどもなりに、だよ。おかあさんをたすけなくちゃって、めいわくかけちゃダメだって、それはちゃんと、わかってた」

「……覚えてない」

「ぼくは『きにしぃ』だから。よけいなことをかんがえないようにしたんだよ」

「うん、たぶん、そうだろうな」

 パイプの山のそばに、赤い滑り台が転がっている。かつてあれは、ジャングルジムだったのだ。あれを壊したのは俺自身。

 人生の起点があるのだとすれば、俺の場合はここになる。父親が家を出て、祖父母宅へと引っ越す間際に、生まれたときからそこにあったジャングルジムを、処分のために解体した。遊びながらだったから、遅々として進まない作業だった。

 まったく無邪気に、そこにあった幸福の具体を、自分の手で壊した。

「なあ、一つ訊いていいか」

「なに?」

 もうなにを言われるのかがわかっているみたいに、彼の目は潤んでいた。

「おまえは……俺はさ、幸せになりたいのか?」

 彼はぐっと涙を堪えるが、しかしぽろぽろと目から零れた。もちもちしていそうな肌をすべり落ちて、灰色の絨毯を黒くする。

「ふこうになりたい、いきものはいないよ」

 世界が暗転する。切れ目を入れるようにして、暗い天井が見える。

 目が覚めてから長い間、ベッドの上に座ってぼんやりした。泣いていたらしく、目元は濡れていた。攪拌された記憶の海原を、舵も櫂もない小船でずっと漂っているようだった。

 忘れていたわけではあるまい。記憶に蓋をしていた。奥底で俺を蝕み続けていた物が、ついに蓋を食い破ってきたのだ。

 暗かった部屋を、やわらかな朝の光が満たしていくが、水平線上には暁光は射さず、朝靄の暗闇に揺れている。

「あんたぁ、もう起きんと――あら、起きてた」

 母が怒鳴り込み損なって、不満げに引き下がる足音を聞きながら、ようやく学校のことを思い出した。



 体育教官室は相変わらず散らかっている。どうして服を脱ぎ散らかすのだろう。椅子にかけるくらいの努力、すれば良いのに。

「……で、何しに来たんだ」

 武内先生はコーヒーカップを持って来て、席に座ると呆れたように言った。

「可愛い生徒が話しをしに来て、そんな反応はないでしょうに」

「可愛い生徒はなあ、そんな無理やり居座らない」

 放課後、自動販売機でコーヒーを買って体育教官室に押しかけた。ほとんど断る暇も与えずに、手近な椅子に座ると、先生も諦めたのか自分のコーヒーを用意した。

「いちおう、おまえら試験前なんだから、あんまり長居されるのも困るんだよ」

「でも、悪くたって卒業できるんですよね?」

「誰がそんなこと言ったんだ? 普通に今までの成績と、出席日数と、その他諸々で決まるぞ」

「げ……全然やってない」

「今まではやってたのか?」

 鋭い指摘に、俺は黙ってコーヒーをすする。もうずいぶんとぬるくなっていた。こんなことなら、アイスにすれば良かった。

 ダムダムとボールをつく音と、空調の鼾が室内を満たしていた。

「用事がないなら、先生は部活に行きたいんだがなあ……」

「それがですねえ……」

 用事がないわけではなかったが、果たしてどういう言い方をしたものか。考えあぐねて、結局は一番無難な言葉を選んだ。

「武内先生って、なんで先生になったんですか?」

 我が耳を疑うかのように、顔を斜めにして耳をこちらに突き出して、「え?」と漏らす。

「え? ああ、俺が先生になった理由か? そうだなあ……かっこつけたほうがいい?」

「そういうのいいんで」

「あっそう……。まあ……ずっと陸上をやってたからな。大学に行って、教職課程もあるのに気がついたとき、それもありかなと思った、ってだけだ。俺の時代はまだ先生が威張り散らしてたから、そういう人生も悪くはないな、ってな」

「うわ、適当だなあ」

「なんだと? 言っておくが、世の中のほとんどの人間はこんなもんだぞ。俺だって高校ぐらいの頃には潔癖っていうのか、もっと立派に生きてみたいと……ははあ、なるほど。黒沢、将来について悩んでるのか」

「まあ、そんなところです」

 未来についての悩みなのか、過去についての悩みなのかは、俺の中でもはっきりとしない。どちらを見ても、道があるのかさえ危ぶまれる暗闇だった。

「若い頃ってのはそんなもんだ。しかしまあ、先生の経験から言わせると、だいたいの悩み事はな、悩むほどのことじゃない。そんなことに意味がないとは言わないがな、解決せんから悩むんだ。いつか解決すると決めて、どんと構えることも大切だな」

 武内先生はどんと大きく胸をそらしてコーヒーを呷る。

「熱っ!」

 と、口元を押さえ、背中を丸くして咳き込んだ。いまいち様にならない男である。

「先生はこう、悩みがなさそうで良いですねえ」

「ほう?」

 相変わらず苦しそうにしながら、袖で口を拭って俺を睨み上げる。「先生に悩みがないと? あるぞ、いっぱい。生徒の進路とか生徒の進路とか、黒沢の進路とか」

「……あの、それはほんと、すみません」

「まあ、謝ることじゃないがな。そういえば、私立入試があったんだろ、どうだった?」

 一月の後半になると、私立の前期入試が始まった。センターが悲惨な結果に終わった俺は、ともかく試験を受けるしかない。

 様々な制服が詰まった電車で三〇分、制服姿しかないバスに揺られてさらに二〇分。山の中腹を拓いたキャンパスに着いたころにはすっかり酔っていた。期待や緊張を貼り付けた連中と、高校では想像もつかない講義室に詰め込まれた。試験中に遠くで女の子が吐いたらしいというざわめきが聞こえてきたが、一歩間違えれば俺がそうなっていたと思うとぞっとした。

 帰りも満載になるのが嫌で、二本ほどバスをずらして雲を追っていると、付属高校か中学らしき少年少女が下校していく。彼らのいかにも坊ちゃん嬢ちゃんという満ち足りた笑顔を見て、まだ見ない絶望的な結果にも落ち込まずにいられるだろうと考えた。

「しかしなあ」

 渋い顔をして、武内先生が俺を見る。「おまえがこんなに苦戦するとはなあ。なんだかんだと言いながら、あっさり決めるもんだと思ってたんだが」

「俺もそう思ってました」

「ま、あんまり生徒にこういう言い方をするのもなんだが、気楽にやれ。受験のこともだが、その後もな」

 部活に出るからと先生に追い返されて、俺は寒空に放り出される。

 見下ろした校庭に、内田を見かけないことが増えた。こんな時期まで走っているのがおかしいのだが、それでも一抹の寂しさがある。たぶん、なんのかんのと言いながら、俺は常に横目で陸上部を眺めていたのだ。その中にいつもいた少女がいなくなることは、無関係なはずなのに、胸に穴が開いたような気がするのは何故だろう。

 三年生の分だけ確実に細くなった部活動の合唱を聞きながら校舎を歩く。

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