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走り出したら  作者: 肉団子
5章
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幸せになりたいと思わなくちゃ

「私さ、修ちゃんのこと、嫌いだった」

「なんて告白だよ……」

 俺は欄干に背中を預けた。金属の冷たさが沁みてくる。

「親の仲が良いからって一緒にされてさ、ほんとイイ迷惑。何考えてるか全然わからないし」

「……俺も自分が何考えてるかはわからないなあ」

 千佳はまっすぐに俺を見る。ふいと道路に視線を逃がす。街灯と窓明かりが、消失点へと伸びている。

「聞いたよ、麻衣に。デートしたんだって?」

「まあ……デートと言えなくもない、のかな」

「なんでそんなにあやふやなのよ」

 苦笑しながら言う。

 大きなトラックが足元を抜けていき、歩道橋が揺れた。ちょっと不安になるくらいだったけれど、千佳はどこにも依らずに立っていた。

「修ちゃん、ビビリだもんね」

「飛べっていうなら、バンジーでもなんで飛んでみせるぞ」

「そういう話じゃないよ。そんな……」

 夜風に呑まれるように、千佳の言葉が途切れた。どこかに暴走族でもいるのか、空をわたってエンジンを噴かす重奏が聞こえてくる。

 千佳は自分の足元を見つめて、つま先を上げ下げする。

「誠に聞かれた、あれは何の病気だって」

「何が?」

「修ちゃんさ、将来どうなりたいとか、今なにしたいとか、ないんだってね」

「ああ、それか……」

「私、あんたのこと嫌いだった」

「それはさっき聞いた」

「修ちゃんが何考えてるかなんて手にとるようにわかるのに、肝心なことはなにもわかrないし。危ないこととか平気でするし。そのくせ優しかったりするし。でも、何も考えてなかったんだって思うと、納得した」

「何も考えてないってわけじゃ、ないと思うがなあ」

「ねえ」

 彼女の声が突然に、真剣みを帯びた。話の流れで本題を切り出そうというつもりが、うっかり「ねえ」なんて前置きをして、自分で緊張しているのだ。付き合いの長さの分だけ、俺も中原千佳のことなど、手にとるようにわかってしまう。

「幸せになりたい? 不幸せになりたい?」

「そりゃ幸せに決まってる」

「どうして?」

「どうしてって……不幸せになりたい奴がいるか?」

「そうだよね。じゃあ、修ちゃんにとっての幸せって、なに?」

「幸せ……」

 急に世界から隔絶されたような感覚に陥る。脳で走っていた電気信号が、切れかけた蛍光灯みたいに間をおいての点滅に切り替わった。全身を包む冷たさだけがはっきりと感じる。いや、おそらくそれは、自分の奥底からの隙間風だ。

「知ってる? 私、修ちゃんのこと好きだったんだよ」

「……あ? さっき嫌いだったって」

「怪我した私に付き合って、ずっと手を握っててくれた優しい修ちゃんが好き。せっかく勝てそうなのに相手に気を遣ってわざと負ける優しい修ちゃんが嫌い。これって、矛盾してる?」

 基準の問題、という話だろうか。

「わざと負けてたわけじゃ……」

「そう見えてたわよ。すくなくとも私にはね。無意識なんじゃないの」

 千佳は瞼を震わせた。街灯りが彼女の瞳に揺れている。

 天を仰いで声が混じりそうな息を漏らす。何秒かそうして固まった後、ゆっくりと俺に向き直った。

「誠から話を聞いて、なんか腑に落ちたのよ。あんたのわけわかんない理由。全然違ったらバカなこと言ってんなって、無視してくれていいから。でも……もしそうだったら、修ちゃん、そのうちダメになるかもしれないから。今のうちに言う」

 千佳は一歩、前に出る。欄干にもたれる俺には、最初から退がる余地はない。

 警戒するように、千佳を見据えてようやく声を絞り出す。

「……なに?」

「あなたは、幸せになりたくないんじゃないの?」

 返事は声にならなかった。一度開けた口は閉じきることなく、細い息を吐いた。

「幸せになりたいって思うのが当たり前だから、幸せになりたいと思ってる。それだけじゃなくて、いろんなことがそうなんじゃないの? 高校に行くのが当たり前だから進学して、大学に行くのが当たり前だからそうしようとしてる」

 言いながら何かに気付いたように目を瞠った。いささか言葉を探るふうに続ける。

「修ちゃんの家のこと、よくわからないけど、その……それって関係してるんじゃないの? 気にしてないみたいな感じだったけど、それって、目を逸らしてただけでしょ」

「それは……」

 わからなかった。言い当てられたような気もするけれど、そんなはずはないとも思う。

「ああ、もう。何言ってんだろ……。とにかくね、修ちゃん」

 唐突に、優しい声になる。

「なんだよ」

「先生も親もさ、現実見ろってうるさいでしょ。でも修ちゃんは逆だよ。夢の一つも見ないでさ、生きていけるの?」

「……夢が無くたって、死にはしない」

「修ちゃん――黒沢修一。幸せになりたいと思わなくちゃ、幸せになんてなれないよ」

 もう一歩、千佳が踏み込んでくる。腕がすっと俺の後ろに回って抱き寄せられた。頬同士がこすれる感触が心地良い。

「幸せになんなさい」

 頬擦りをするような距離。震える声で囁いた。彼女の温もりが、頬を濡らした。

 千佳はゆっくりと離れると、さっさと歩き出した。その背中を俺は立ち尽くしながら眺めることしかできなかった。

 階段の前で、くるりと振り返る。

「ま――」

 と言いかけて、泣き出すのを堪えるように黙った「悲しませたら許さないから」

 その声はやっぱり震えていた。

 返事も別れの挨拶も、何も口にすることができず、帰っていく千佳を、ただ黙って見送った。吹く風が、横面に妙な冷たさを与える。指先で撫でると、水気を感じた。

 幼馴染がなにを言ったのか、どういう気持ちだったのか、どうしてそんなことをしたのか、俺自身の気持ちも、あらゆることが頭の中をぐるぐると巡って、足は根を生やしたように動かなかった。

 ずいぶん長い間、俺はそうしてどこを見るでもなく、橋の上に佇んでいた。寒さのせいだろう。すんすんと啜る鼻の音ばかりが、ずっと聞こえていた。



 机が整然と並んでいる。

 教室に俺一人がぽつんと立っていた。

 黒板にはチョークの跡が縦横に走っており、授業後なのだろうとなんとなく思う。しかし校庭の野球部のかけ声も、吹奏楽部の練習も聞こえてはこない。自分の発する音だけが虚しく鳴る。そして響きもせず消えていく。

 時計を見ても針がついていなくて時間がわからなかった。

 帰らなければいけない。そんな気がした。

 通学用の鞄はなかった。しかたがないので手ぶらで教室を出ると、中学校のグラウンドが見えた。背後は確かに高校三年生現在の教室である。

 一階の廊下には大きな柱があるばかりで、グラウンドとの間に壁はない。そこにはやはり誰もいなかった。

 校舎に切り取られた空は晴れでもないが、曇ってもいない。クリーム色が広がっている。

 廊下を南に歩く。トイレと流しを通り過ぎ、渡り廊下を越えた突き当りを左に折れる。南校舎の廊下にはすのこが並んでいる。保健室や調理実習室の並びの切れ間の玄関へと出る。

 部室に寄ろうかと考えたけれど、やめた。

 開錠ボタンを押して鉄扉をくぐると、小学校前である。帰りに寄り道してはいけませんと、先生には厳しく言われた。

 門を出て右が帰り道だ。柵から覗くと、学校の池に鯉が泳いでいる。度胸試しに池を飛び越える遊びが流行っていたが、今になってみれば一歩の幅しかない。

 幾通りもの岐路のうち、もっとも多く歩いたのは、集団登校の道を逆に歩くコースである。学校のすぐ裏手に、心惹かれる脇道があるけれど、これを無視してまっすぐ進むと花壇が見えてくる。地域のものか個人のものかは知らないけれど、毎年マリーゴールドが咲いていた。種がつくたびに勝手に取って、帰る道々播種していたが、ついに芽が出る姿は確認しなかった。

 花壇には何も植わっていない。

 残念に思いながら信号を渡る。街路樹がガードレールを飲み込んで高くに伸びている。子供のころ、俺は「ヒトが滅べばこうして自然にかえるのだなぁ」などと、ぼんやり考えていたものである。

 まっすぐにまっすぐに、辛夷の並ぶ通りを歩く。左手の交番は、いつ訪ねても人がいない。けれども交番だけではなく、さきほどから何者の気配も感じない。

 この世界には誰もいない。

 いつもは誰彼構わず吠え立てる犬までいなかった。大通りに出ても、車の一台も通らない。

 町名の東西を分ける位置に歩道橋がかかっている。ここを通らずに信号を渡って良いのは六年生からだという慣わしだったが、もちろん学校は歩道橋を渡れと言っていた。

 車も人もないのに律儀に交通整理を続ける信号機を見習って、俺もわざわざ歩道橋をわたる。

 雑踏のない街はひどく静かだ。道路の真ん中あたりで立ち止まって振り返る。千佳が来るような気がしたけれど、気のせいだった。

 大通り沿いに東へと進んでコンビニを越えると、細い細い路地が現れる。なぜか未舗装の路地の中ほどに、俺の……いや母方の祖父母宅がある。

 ポケットを探ると鍵があった。開錠の音を聞いたとき、ふと「次はどこなのだろう」と思った。

 そんなもの決まっている。

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