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走り出したら  作者: 肉団子
5章
104/124

一寸先は闇

「何そのお守り」

「読めない? 合格祈願」

「読めるよ馬鹿」

 機嫌が良いらしい。下らない冗談を言った。

 誠はしばらく手にしたお守りをぼーっと見つめていたが、おもむろに胸ポケットにしまって、「帰るか」と立ち上がる。

 一日目の試験が終わったのは、もうすっかり日も暮れた時刻だった。脳みそが疲労を訴えていた。不思議なほどに喉は渇かない。空腹が身体を気だるくさせた。

 受験生は一斉に帰路につき、出入り口で渋滞を起こし、人の列はゆるゆると進んで行く。

 キャンパスの外へ出ると、まず誠の手を引いて人ごみから避難する。人垣の防風林がなくなると、冷たい風が空調と試験疲れでたまった熱を心地良く冷ましてくれた。

「なに」

「どうせ電車は満員だろ。時間潰して行こう。それとも明日の予習、するのか?」

「いいや。さすがに俺もちょっと疲れた。付き合う」

 人の流れを避けるように脇道に入る。学校前の通りの賑やかさは突然に、住宅街の静けさに変わる。街路を照らす灯りはスポットライトの列だった。

 ひどくくたびれていた。座りっぱなしだったから、体力は残っているのだが、しかし頭がどうにも疲れている。ぼんやりとしてしまう。

「どうだった?」

 背後を振り返ると、コンビニの白々しい明かりの中を、人影が一方向へと進んでいた。彼らが皆、一日同じ試験を受けていたというのが恐ろしい。いや、日本中で同じ光景が繰り広げられているのである。俺は初めて、大学受験という途方もない競争のスタートラインに立ったような気分である。

「まあ……あとは二次試験だな」

「明日もあるのにえらい自信だことで」

「おまえは?」

「……空白はない」

「全問マークで空白出すほうが難しいぞ……」

 しばらく行くと土手が見えてきた。行く当てはないので自然と階段を上る。

「そういやさ、俺むかしこの辺に住んでたらしいんだ」

「へえ?」

「よくは覚えてないんだけどな。エレベーターのない集合住宅。階段の踊り場の両側に扉がある感じでさ」

 でもそれは、記憶と呼ぶにはあまりに不確かな、物語で見たような光景だ。

 堤を超えて河川敷におりる。街灯の一つもなく、ひどく暗い。土手の谷間を流れる空気は凍りついていた。

 階段に腰を下ろした誠は、墨のような川面を見つめて、細く長い息をつく。

「本当に疲れてるんだな」

「疲れたって言うか……」

 誠にしては珍しく、言い淀むように声が小さくなった。それから夜空を見上げて、天を突くように伸びをする。

「ようやく一安心した。これならたぶん、大丈夫だ。明日もきっちりやって、二次試験に備える。それだけだ」

「一安心?」

「……今だから言うけどな、俺は別に自信家なわけじゃない。自惚れても、いないんだ」

 無言のうちに俺を一瞬だけ見て、あとはずっと流れる方向もわからない川へと視線は注がれていた。

「正直、ずっと怖かった。自分で選んだことだけど、間違ってたんじゃないかって。そうだろ。独力で大学受験を突破したって、そんなことどうだっていいだろ。進学校に行こうが塾に通おうが、大学上がったら一緒なんだから。余裕綽々に見せてたのだって、そうでもしなけりゃ心が折れそうだったからで」

 誠は足を投げ出して後方に倒れこんだ。階段に寝そべった彼は、芯を失ったようにぐったりとしている。自分自身さえ騙そうと鎧っていた理詰めの装甲を外せば、誠は案外と子供っぽかった。

「俺はようやく自信が持てたよ。大丈夫だって。たぶん、だけどな」

 それはつまり、自分の選んだ道が間違いではなかったということの、確信を得たということだろう。

 なんだか誠がずいぶんと大切なことを言っている気がしたが、頭の中は盆地の空気みたいに停滞していた。すっかり鈍っていて、考えようとするそばか散漫する。

「じゃあ初詣のとき、こっそり神頼みでもしてたわけ?」

 少々からかうような言い方になった。

「いいや。勉強は俺が頑張って、俺が結果を出すことだから。考えたのは、千佳とのことだな」

「……ずいぶん可愛いこと言うね、おまえ」

「そういう修一は何頼んだの」

「なにも」

 ふいと目を向けた川縁は、行く末を闇が飲み込んでいる。一寸先は闇。一寸ってどれぐらいだ?

「なにもって……受験のこととか、内田のこととかないの?」

「ないよ」

 誠が声を漏らして起き上がる。俺の顔色をうかがう気配がしたけれど、どうにも演技だとか繕うという気力が湧いてこない。

 頭を使いすぎたのだ。

「やりたいこととか、不安なことも?」

「なかった。しばらく考えたけど、昔からだったよ。俺、別に何もやりたくないんだ」

「高梨とバカやってたただろ。あれは?」

「あれは高梨がやりたいことだから。そりゃ楽しんでたけど。俺一人だったら、絶対にやってない。なんて言うかな、その場その場でやりたいことならあるぞ。体育祭に勝ちたいとか、文化祭で花火を打ち上げたいとか。でもそういうんじゃなくてさ、もっと根本的な話でさ、何も思いつかないんだよ」

 そういうときと、今の頭の働きは似ていた。回らないのだ。無意識のうちにブレーキを踏んでいる。

「どうして?」

 誠は心底不思議そうに訊ねてきた。

「さあ……それがわからないから困るんだなあ」

 心を覗いてみても、辺りを包む闇のように、何も見えない。

 誠は異常なほどに自分を客観的に見て、足りない部分を補い、伸ばせる部分を伸ばして生きてきたようだけど、俺はまったく違っている。

 主観的にさえ、自分のことが見えていない。



 当然のようにセンター試験の自己採点は驚くべき誤答率だった。二次試験はもちろん、センター利用の入試も絶望的である。この先行き止まりの看板が真実かを確かめたような気分だった。

 看板に偽りは無かった。

 一月末に控えた私立大学の入試に備えて勉強をする。同じ頃に高校最後となる学年末試験もあったが、さすがにそんなものに構っている余裕はなかった。

 しかしそうだからと言って、受験勉強が捗っているかと言えば、そんなことはまったくない。一問終えては窓の結露に線を引き、一ページ終えては体操をする。

 とにかく集中力が持たなかった。

 ノックと同時に、部屋のドアが開いた。

「だからそれ、ノックの意味ないって言ってるだろ」

 憤って振り返ると、母が入口に立っていた。呆れ顔は口にこそ出さないが「お父さんにそっくり」と言いたげであった。

「千佳ちゃん来てるよ」

「え?」

「玄関で待ってる」

 畳み終えた洗濯物を足元に置いて、さっさと消えて行った。部屋に上がってこないということは、外へ連れ出されるかもしれない。上着を取って廊下を歩きながら、ひょっとすると誠への義理立てかもしれないと思った。髪質のように、妙にまっすぐしたところのある女だ。

 千佳は土間で所在無げに佇んでいた。俺と目が合うと一言、

「出られる?」

 とだけ訊ねてきた。手にした上着を見せると、黙って外へ出る。

 怒らせるようなこと、したかな? あれこれと心当たりを探りながら後を追った。

「連れ出してごめん」

「いや、別に」

 しかしどこか目的があるわけではなく、曲がり角のたびに少し考えるように足が止まる。当てもなく夜の街を彷徨った。落ち着く場所でも探しているのだろうか。

「むかしさ、こんなことしたよね」

「したっけ?」

「ほら、田浦の家の猫がいなくなったって」

「……あったな、そんなことも」

 猫探しをするうちにすっかり俺が家出をしたことになっていて、慌てて迎えに来た千佳と、車の下を覗きながら夜道を帰ったのである。家に帰り着くとパトカーが来ていて、深夜まで説教をされた。

「あれ結局、何日かしてから普通に帰って来たんだろ?」

「って聞いた」

「田浦はなあ……そういうところがあるから困るんだよなあ……」

「まあいつも家にいる猫がいなくなったら、不安にもなるんじゃない?」

 話しながら千佳は歩道橋に上って行く。溝にたまった土から枯れ草が生えていた。両側にマンションが隣接しており、窓明かりがぼんやりとした光を投げかける。

 橋の真ん中までくると、千佳はふいに歩みを止めた。その場でくるりと振り返る。

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