市営住宅の一室
ゆったりと一周するうちに身体はすっかり冷えてしまい、逃げ込むように屋内展望フロアへと戻った。こちらも一周し、たっぷりと夜景を堪能して展望台を後にした。
たった二〇〇メートル弱なのに地上はそれほど風が強くはない。
そのまま夕飯を食べようと地下街におりた。
近代的な建造物の足元には昭和然とした街並みが広がっていた。レトロをコンセプトとしているらしく、古びた映画のポスターや、今は見ない円筒形のポスト、井戸、小ぢんまりとした稲荷の祠まであった。石畳風の路地を照らすのは飴色の優しい光だ。
一軒ずつ店を確認して回り、鶏肉の美味しそうな店に入った。
やはりと言うべきか、店内も昭和風である。まずもって薄暗く、照明はガラスのランプシェードの傘をきた電球ばかり。木製の物はおしなべて古色を意識してか黒い。いきおい店主も昭和顔である。
テーブル席に向かい合って座った内田は、コートを脱いで椅子にかけていた。露になったピンクのセーターが可愛らしい。
「そういえばさ」
注文した丼を食べながら、ふいに思ったことを口にする。「内田って、お父さんのこと、父さんって呼ぶよな」
「うん?」
きょとんと、箸を咥えたまま止まった。
「なんて言うか、内田のキャラならさ、お父さんって呼ぶほうが、なんか似合うかなって思ったんだ」
「そうかなあ」
「まあ、なんとなくだけどな。最初から?」
たぶん俺は自分の父親のことを考えながら訊ねた。
「ううん。それこそ最初は、お父さんだったよ。何年か前にけっこうな大喧嘩しちゃって、『もうお父さんなんて呼ばない!』って、言っちゃったの。しばらくは無視したり、母さん越しに話したりしてたんだけど、面倒くさくなっちゃったから。でもお父さんって呼ばないって言っちゃったし、そうだ、『お』を抜けば良いんだーって」
「はあ……なんともまあ、内田らしいというか何と言うか……」
「それはアホっぽいってこと?」
濁した部分をそのまま言われ、噎せてしまった。咳き込みながら、車窓に見た彼女の父を思い出す。
食事を終えて茶を啜りながら雑談をした。何とはなしに、店を出るのが惜しいような気になる。ふいと泳がせた視線に電球がうつる。
「今さ、ふと思い出したんだけど」
口に出さねば消えてしまう気がして、思いつくまま声にした。「俺、一度だけ父親にめちゃくちゃ怒られたことがあったよ」
「へえ」
内田は相槌を打ちながら、「一度だけ?」と小声で首をひねった。
「小学校には上がってたと思うんだけど、俺が父親と会うときって、車で家の前に迎えに来てくれたんだ。それでどこかに出かけるって感じ。だいたい晩飯食ってから家に戻るから、帰り道っていつも暗かったんだよ。で、決まって俺が助手席だったんだけど、ちょっと上を見るとさ、室内灯のスイッチがあったわけ。これなんだろうなって思って電気を点けたら『危ないだろ!』って」
何故怒られたのかもわからなったが、あんまりに驚いてしまったので、泣くことも忘れて呆然としていたことを覚えている。
「初めてだね」
「え?」
内田はコップの底に手を添えて、少し澄ましたようにお茶を飲む。
「黒沢くんが、お父さんの話をするの」
「そうだったか?」
「そうだよ」
俺はこれまで家庭の事情について、誰かに隠し立てしようとしたことがない。それが多少の不幸を孕んでいるのだと知ってからも、昨日の夕飯くらいの気楽さで口にしていた。半年以上も一緒にいて、しかもそれらに関する事柄こそが繋がりだったというのに、父親のことを話したことがないというのは奇妙な感じがした。
「……そうかも」
朝食を食べていると、ぱたぱたと家事をこなしていた母が、ふいに立ち止まって言った。
「どこだっけ」
土曜日の朝だというのに、六時ちょうどに目を覚ました。母はすでに俺の弁当をほとんど完成させていた。頭が下がるなあと思いながら、寝ぼけ眼で菓子パンを頬張っていたところである。
母の向こうに見える窓はまだ暗い。
「なにが」
「なにがって決まってんでしょ、受験会場」
電車で六駅ほどの大学の名前を答えると、母は目をみはって、額を指先でぐりぐりと揉んだ。それは母が記憶を手繰るときの癖である。
「ああ、前住んでたとこの近くか」
「前?」
「覚えてない?」
「団地だろ、覚えてる」
「本当に? あんたぁ、三歳とかよ」
正しく言えば、覚えてはいない。おぼろげな記憶と、写真やビデオで見たことがある。
市営住宅の一室からは、敷地内の公園が見下ろせた。たった一度だけ積もった雪の記憶はあったが、まるで夢のように不鮮明だ。
引越し以前の記憶はすべて、順序のわからない断片的なフィルムみたいなものだった。
支度を整えて時間まで英語の参考書を見直して、たっぷり余裕を持って家を出た。
駅前の公園に自転車をとめる。電柱や建物の位置から、だいたいどの辺りに置いたのかを頭に留めておく。これを後ろ向きに歩きながらやると、帰りに自転車を見つけやすい。
勉強もこれぐらい簡単に覚えられるならな。ため息をつきながら駅へと向かう。
階段を上って、路線図を見る。この駅から一つ上へ。右へ五つ……
「あれ?」
ずいぶん前にこんなことをした。あれも寒い朝だった。いつだ?
切符を買って改札を通り、さらに上階のプラットホームへ出る。右手には朝陽と、先ほど自転車をとめた公園の木々が見えた。
狭いホームにはベンチなんて気の利いたものはなく、柱にもたれかかるようにして電車を待った。
数本が通り過ぎてやっときた普通電車に乗って一駅揺られる。三路線への分岐点なので、ほとんどの乗客が降りた、さっと座席を確保して、やはりこんなことをしたことがあると感じた。
一駅一駅を過ぎるほどにその思いは強くなり、目的の駅舎を出た瞬間、そこに様々な制服を認め、それは確信に変わった。
三年前だ。高校受験に訪れた。
改札を出て正面の道をまっすぐに進むと、やがて俺の受けた私立高校が見えてくる。その向こうに、センター試験会場の大学があった。
漬物石でも飲み込んだ気分だった。記憶にすらないかつての家に縛られているようで、暗澹とした気持ちになった。
まるで釈迦の手のひらの上で踊らされた孫悟空である。
駐車場に並んだ自動車がギラギラと朝陽を反射させる。しかめた視界の端に、五階建ての集合住宅が見えた。はっとして目を凝らすが、俺の住んでいた建物ではない。覚えてはいないが、記憶の残滓がそう言っている。耳の奥に響いていた鼓動がおさまると、受験生のざわめきが遥かな潮騒のように甦る。落ちていた空き缶を蹴り飛ばすと、カランカランと寂しげな音を響かせて側溝に消えた。
雑音が耳障り。視界に酔う。胃もたれしたみたいに気持ち悪い。
意識的に呼吸を深くすると、冷たい空気が胸を冷やして、心持ち気分が良くなった。このまま徘徊していれば、思わぬ場所で亡霊にでも出くわす気がして、早足で大学へと向かった。
案内に従ってたどり着いた受験会場は見事な階段教室だった。意外なほどの高低差に驚いていると、体温の上昇を感じた。まさか興奮しているわけではない。にわかに緊張したでもなかった。単純に、空調がしっかりと効いているのである。
学ランのボタンを二つほど外して、受験票を取り出す。座席を確認しながら階段を上っていくと、すでに着席した誠を見つけた。
他の受験生はそれぞれに勉強しているが、誠は腕組みをして目を閉じ、まるで寝入っているようだった。
「おはよう」
荷物を自分の席に置いてから声をかけると、薄目で俺を見上げた。
「ああ、修一か」
「なに余裕ぶっこいてるんだ。勉強しろよ」
「頭の中で復習してるから大丈夫」
「そんな器用な真似をまた……」
「運が無いのかな。俺、試験前に見直したところは絶対出ないんだよな」
「っていうか、邪魔だった?」
「いや別に。むしろ安心した」
「あ?」
あんまり突然に気持ち悪いことを言われたので、つい声を荒げてしまう。周囲からの白い目が痛い。
「違うんだよ。今朝、妹が『頑張んなさい』なんて言うから、おかしなことでも起こるんじゃないかって不安だったんだ。修一はいつも通りで安心した」
「いつも通りか? 俺」
「いつも通り間抜け面だ」
「おまえ試験中覚悟しろよ。いろんな物が飛ぶからな」
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