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走り出したら  作者: 肉団子
5章
102/124

市営住宅の一室



 ゆったりと一周するうちに身体はすっかり冷えてしまい、逃げ込むように屋内展望フロアへと戻った。こちらも一周し、たっぷりと夜景を堪能して展望台を後にした。

 たった二〇〇メートル弱なのに地上はそれほど風が強くはない。

 そのまま夕飯を食べようと地下街におりた。

 近代的な建造物の足元には昭和然とした街並みが広がっていた。レトロをコンセプトとしているらしく、古びた映画のポスターや、今は見ない円筒形のポスト、井戸、小ぢんまりとした稲荷の祠まであった。石畳風の路地を照らすのは飴色の優しい光だ。

 一軒ずつ店を確認して回り、鶏肉の美味しそうな店に入った。

 やはりと言うべきか、店内も昭和風である。まずもって薄暗く、照明はガラスのランプシェードの傘をきた電球ばかり。木製の物はおしなべて古色を意識してか黒い。いきおい店主も昭和顔である。

 テーブル席に向かい合って座った内田は、コートを脱いで椅子にかけていた。露になったピンクのセーターが可愛らしい。

「そういえばさ」

 注文した丼を食べながら、ふいに思ったことを口にする。「内田って、お父さんのこと、父さんって呼ぶよな」

「うん?」

 きょとんと、箸を咥えたまま止まった。

「なんて言うか、内田のキャラならさ、お父さんって呼ぶほうが、なんか似合うかなって思ったんだ」

「そうかなあ」

「まあ、なんとなくだけどな。最初から?」

 たぶん俺は自分の父親のことを考えながら訊ねた。

「ううん。それこそ最初は、お父さんだったよ。何年か前にけっこうな大喧嘩しちゃって、『もうお父さんなんて呼ばない!』って、言っちゃったの。しばらくは無視したり、母さん越しに話したりしてたんだけど、面倒くさくなっちゃったから。でもお父さんって呼ばないって言っちゃったし、そうだ、『お』を抜けば良いんだーって」

「はあ……なんともまあ、内田らしいというか何と言うか……」

「それはアホっぽいってこと?」

 濁した部分をそのまま言われ、噎せてしまった。咳き込みながら、車窓に見た彼女の父を思い出す。

 食事を終えて茶を啜りながら雑談をした。何とはなしに、店を出るのが惜しいような気になる。ふいと泳がせた視線に電球がうつる。

「今さ、ふと思い出したんだけど」

 口に出さねば消えてしまう気がして、思いつくまま声にした。「俺、一度だけ父親にめちゃくちゃ怒られたことがあったよ」

「へえ」

 内田は相槌を打ちながら、「一度だけ?」と小声で首をひねった。

「小学校には上がってたと思うんだけど、俺が父親と会うときって、車で家の前に迎えに来てくれたんだ。それでどこかに出かけるって感じ。だいたい晩飯食ってから家に戻るから、帰り道っていつも暗かったんだよ。で、決まって俺が助手席だったんだけど、ちょっと上を見るとさ、室内灯のスイッチがあったわけ。これなんだろうなって思って電気を点けたら『危ないだろ!』って」

 何故怒られたのかもわからなったが、あんまりに驚いてしまったので、泣くことも忘れて呆然としていたことを覚えている。

「初めてだね」

「え?」

 内田はコップの底に手を添えて、少し澄ましたようにお茶を飲む。

「黒沢くんが、お父さんの話をするの」

「そうだったか?」

「そうだよ」

 俺はこれまで家庭の事情について、誰かに隠し立てしようとしたことがない。それが多少の不幸を孕んでいるのだと知ってからも、昨日の夕飯くらいの気楽さで口にしていた。半年以上も一緒にいて、しかもそれらに関する事柄こそが繋がりだったというのに、父親のことを話したことがないというのは奇妙な感じがした。

「……そうかも」



 朝食を食べていると、ぱたぱたと家事をこなしていた母が、ふいに立ち止まって言った。

「どこだっけ」

 土曜日の朝だというのに、六時ちょうどに目を覚ました。母はすでに俺の弁当をほとんど完成させていた。頭が下がるなあと思いながら、寝ぼけ眼で菓子パンを頬張っていたところである。

 母の向こうに見える窓はまだ暗い。

「なにが」

「なにがって決まってんでしょ、受験会場」

 電車で六駅ほどの大学の名前を答えると、母は目をみはって、額を指先でぐりぐりと揉んだ。それは母が記憶を手繰るときの癖である。

「ああ、前住んでたとこの近くか」

「前?」

「覚えてない?」

「団地だろ、覚えてる」

「本当に? あんたぁ、三歳とかよ」

 正しく言えば、覚えてはいない。おぼろげな記憶と、写真やビデオで見たことがある。

 市営住宅の一室からは、敷地内の公園が見下ろせた。たった一度だけ積もった雪の記憶はあったが、まるで夢のように不鮮明だ。

 引越し以前の記憶はすべて、順序のわからない断片的なフィルムみたいなものだった。

 支度を整えて時間まで英語の参考書を見直して、たっぷり余裕を持って家を出た。

 駅前の公園に自転車をとめる。電柱や建物の位置から、だいたいどの辺りに置いたのかを頭に留めておく。これを後ろ向きに歩きながらやると、帰りに自転車を見つけやすい。

 勉強もこれぐらい簡単に覚えられるならな。ため息をつきながら駅へと向かう。

 階段を上って、路線図を見る。この駅から一つ上へ。右へ五つ……

「あれ?」

 ずいぶん前にこんなことをした。あれも寒い朝だった。いつだ?

 切符を買って改札を通り、さらに上階のプラットホームへ出る。右手には朝陽と、先ほど自転車をとめた公園の木々が見えた。

 狭いホームにはベンチなんて気の利いたものはなく、柱にもたれかかるようにして電車を待った。

 数本が通り過ぎてやっときた普通電車に乗って一駅揺られる。三路線への分岐点なので、ほとんどの乗客が降りた、さっと座席を確保して、やはりこんなことをしたことがあると感じた。

 一駅一駅を過ぎるほどにその思いは強くなり、目的の駅舎を出た瞬間、そこに様々な制服を認め、それは確信に変わった。

 三年前だ。高校受験に訪れた。

 改札を出て正面の道をまっすぐに進むと、やがて俺の受けた私立高校が見えてくる。その向こうに、センター試験会場の大学があった。

 漬物石でも飲み込んだ気分だった。記憶にすらないかつての家に縛られているようで、暗澹とした気持ちになった。

 まるで釈迦の手のひらの上で踊らされた孫悟空である。

 駐車場に並んだ自動車がギラギラと朝陽を反射させる。しかめた視界の端に、五階建ての集合住宅が見えた。はっとして目を凝らすが、俺の住んでいた建物ではない。覚えてはいないが、記憶の残滓がそう言っている。耳の奥に響いていた鼓動がおさまると、受験生のざわめきが遥かな潮騒のように甦る。落ちていた空き缶を蹴り飛ばすと、カランカランと寂しげな音を響かせて側溝に消えた。

 雑音が耳障り。視界に酔う。胃もたれしたみたいに気持ち悪い。

 意識的に呼吸を深くすると、冷たい空気が胸を冷やして、心持ち気分が良くなった。このまま徘徊していれば、思わぬ場所で亡霊にでも出くわす気がして、早足で大学へと向かった。

 案内に従ってたどり着いた受験会場は見事な階段教室だった。意外なほどの高低差に驚いていると、体温の上昇を感じた。まさか興奮しているわけではない。にわかに緊張したでもなかった。単純に、空調がしっかりと効いているのである。

 学ランのボタンを二つほど外して、受験票を取り出す。座席を確認しながら階段を上っていくと、すでに着席した誠を見つけた。

 他の受験生はそれぞれに勉強しているが、誠は腕組みをして目を閉じ、まるで寝入っているようだった。

「おはよう」

 荷物を自分の席に置いてから声をかけると、薄目で俺を見上げた。

「ああ、修一か」

「なに余裕ぶっこいてるんだ。勉強しろよ」

「頭の中で復習してるから大丈夫」

「そんな器用な真似をまた……」

「運が無いのかな。俺、試験前に見直したところは絶対出ないんだよな」

「っていうか、邪魔だった?」

「いや別に。むしろ安心した」

「あ?」

 あんまり突然に気持ち悪いことを言われたので、つい声を荒げてしまう。周囲からの白い目が痛い。

「違うんだよ。今朝、妹が『頑張んなさい』なんて言うから、おかしなことでも起こるんじゃないかって不安だったんだ。修一はいつも通りで安心した」

「いつも通りか? 俺」

「いつも通り間抜け面だ」

「おまえ試験中覚悟しろよ。いろんな物が飛ぶからな」


          ○


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