本当の夜景
学校からは寄り道もせずにまっすぐ家に帰り、二時間ほど真面目腐って勉強をした。
時間に余裕を持って家を出たつもりが、思い立って途中で雑貨店に寄ったせいで、公園に着いたのは約束の時間をいくらか過ぎていた。
西側の入口には、ぼんやりと光を散らず街灯が並んでいた。なんとなく一本一本を見送りながら歩いて行くと、ほんの一ヶ月ちょっとの間に懐かしいと感じるようになったベンチに、ぽつんと内田が座っていた。
薄明かりに目を凝らすと、今朝よりも随分工夫を凝らした結い方をした後ろ髪が見えた。
内田は足音に気付いたらしく、ゆっくりと振り返る。無感情な表情が怖い。こちらを確認しても何も言わず、じっと見てくることがなお怖い。
「悪い、遅れた!」
両手を顔の前に合わせて頭を下げる。
「まあ、格好ほどは怒ってないけどね。十分くらいだし」
よっ、と声を漏らして立ち上がった。カーキ色のコートから、暗い色のスカートがのぞいている。以前にも思ったが、彼女も女の子らしい服装をするのだなあ、と妙な感心をしてしまう。
「でも遅れたんなら、走って来るフリぐらいしてくれたって、ねえ」
「ほんっと、すまん!」
深々と垂れた頭を、内田がぽんぽんと叩いた。
「わかればよろしい」
公園を出てすぐに当然の質問をされた。
「どこへ行くの?」
「行けばわかるさ」
はぐらかすと、「誰だっけ」と思案顔になる。
いつかも内田と二人歩いた道を、辿るように進んでゆく。
線路沿いの道を西進し始めたあたりで、内田も気がついたようだった。
「もしかして、スカイビル?」
「正解、スカイビル」
梅田スカイビルと呼ばれる、ランドマーク的な超高層ビルである。立体交差の線路を越えると、その姿が見えてくる。二棟のビルと、それらを繋ぐように展望台が渡されており、その独特の外観が「未来の凱旋門」などとも呼ばれている。
目の眩むほど眩しい繁華街を横目に、発展から取り残されたような古臭い通りを抜けてビルの足元に到着する。
そう、足元だ。ビルが並び立つというよりは、二本足で立っているという印象だった。
エスカレーターで三階まで上がり、そこでエレベーターを待つ。さすがに観光客が多いだけあって、案内に従えば迷うことは無い。
人を満載して、エレベーターは上昇する。壁際の内田に体重のかからぬように腕で身体を支えていると、ささやくような声が胸元でした。
「ねえ。そういえば黒沢くん、センター試験近いんじゃないの」
「ま、そうだな」
「大丈夫なの?」
「うーん……大丈夫……ではない」
「ええっ……それ、大丈夫なの?」
先ほどより、いささか深刻そうな「大丈夫」に、俺は苦笑を漏らした。
「というかもう、今日一日紺詰めたって、どうにもならんなあ……って」
「うわあ」と聞こえてきそうな呆れ顔で俺を見上げてくる。思いがけない近さに息が詰まる。混ざり合った体臭のなかに、内田のにおいを感じた。
エレベーターの扉が開いて、俺は何かから逃れるように外へ出た。
暖房と人ごみに暑くなったのか、内田がコートのチャックを半開きにする。ピンクのタートルネックセーターに包まれた胸が、零れんばかりに存在を主張する。
「ま、まあ、息抜きってヤツですよ」
行き先を探すように顔を逸らして誤魔化した。
どうやら、ここからさらにエスカレーターに乗るらしい。透明なトンネルが、上空の展望台へと連絡している。人々は一列になってどんどんと上方の闇へと飲み込まれていく。
物珍しげに周囲を見渡す内田を、ぼんやり眺めていたが、あんまり長いなと思って振り返ると、乗り場はすでにはっきりとは見えない。
四階分を上がって三十九階、展望台入口へと出る。
持ってくるように言っておいた生徒手帳を預かり、そこで入場券を買ってさらにエスカレーターで上る。
「はい、これ」
生徒手帳を返すと、内田は律儀に、
「いくらだったの」と、財布を出そうとする。
「いや、なんか、内田は可愛いからタダだって」
「そんな、縁日じゃあるまいし」
「うーんまあ、つまりな……」
適当に誤魔化していたのでは、うっかり入場料を支払われてしまう。さてどうしたものかと考えているうちに、四十階の展望フロアに出る。
暗い回廊に街灯りが射し込んでくる。見下ろした街並みは、小さな光の粒がどこまでも広がっている。
「わあっ」
と、声を残して、ガラスのそばへと軽やかに向かう。歩いて隣に並び立つ。内田は大きな両目をさらに大きく見開いて夜景を眺めている。彼女の黒々とした瞳は、星を散りばめたように光を映す。
「高いなあ」
少し的外れな感想に、しかし内田っぽさがあって俺は笑ってしまう。
そのままの勢いで、できる限り自然に言う。
「誕生日おめでとう」
不自然なゆるやかさで、内田の首がこちらに回る。表情にはありありと、驚きが浮かんでいる。
「……ありがと」
「これ、誕生日プレゼント」
待ち合わせに遅刻して慌てて買った髪留めは、プレゼント用に丁寧な包装をしてもらった。
大型雑貨店には、文具からアウトドア用品まで、あらゆる品が取り揃えられていた。もっと良い物を選んだほうが良かったのかもしれないが、どうにも内田に贈るとなると、どれもこれも不適に思われた。ならいっそ便利な文房具にしようかとか、雨の日に走れるようにレインコートにしようかと選びあぐねているとき、ふと目を引いたのが月草色の髪留めだった。
内田は頭が追いついていないようで、ぎくしゃくとそれを受け取った。
「ありがとう」
呟くような礼を言い、中身が何であるのかを確かめると、綻ぶように表情が和らいだ。
「ありがとう、黒沢くん。でもどうして今日が誕生日って知ってたの? 千佳ちゃん?」
「いいや、あいつには聞いてない。そういや、なんでだ? 昨日新聞を読んでて、日付見たらふと、明日が内田の誕生日か……って」
「そうなんだ。とにかく嬉しいよ、ありがとう」
「そんなにお礼を言われると、思いつきでやってるのが申し訳なくなるから……」
真っ白な霧に包まれた街から突き出たビルの頭を見ていたら、あの上に出れば何かが見えるような気がした。超高層の屋上に出られる建物を考えていると、内田がここへ来たことがないと言っていたことを思い出し、まったく無意識に日付を確認すると、明日が彼女の誕生日だったと思い出した。
思い出したという言い方も、なんだか不思議な手触りである。まるで降ってきたように、誕生日ならついでに連れて行ってあげるのも悪くはないと考えていた。
展望フロアからさらに階段を上って、ぐるりと三六〇度を見渡せる屋上展望台へと出る。
地上に比べて気温が低く風も強い。耳の奥にごうごうと風の音が鳴る。冷たさに目を細めると涙が浮かんだ。
ガラス一枚がなくなると、夜景はぐっと鮮明になる。
きらきらと光る星が、目に飛び込んでくるような気がした。蛍を思い出させるのんきさで、航空障害灯が赤く明滅していた。
「……綺麗」
ほうとため息をついて、内田はようやく予想していた感想を漏らした。
西を望めば大阪湾、北には淀川が横たわり遥かな伊丹空港へと赤と緑の光点が飛んでいく。
寒さのためか、風で声が届きにくいためか、自然と内田と身を寄せ合うように光と影ばかりの風景を飽かずに眺めた。
「父さんがね」
内田が口にした言葉に、俺はひやりとする。まさか知るはずもないのに、俺がここに誘った経緯を言い当てられた気がした。
俺のそんな動揺など気付く様子もなく内田はぼうっと遠くを見つめ、懐かしむような優しい声で語る。
「小さいころ、キャンプに連れて行ってくれたの。ずいぶんと田舎で、電気も通ってないんじゃないかーってところだったんだけど。夜になると一面の星空で、開いた口が塞がらなかった。こう……父さんが私を抱きかかえる感じにして言うの。本当の夜景っていうのは星空なんだぞ、って」
内田の話を聞きながら、父親とスキーに行ったときに見た、満天の星を思い出す。寒さを忘れるほどの興奮だった。知っているはずの星座さえ結べなくなるほど、無数の星々が犇めいていた。
目に痛いくらいの街灯りから目を逸らして夜空を見上げる。星明りはすべてかすんで見えないのに、墨のように黒くもない。永遠に近い奥行きは、人工の光に掻き消えていた。
目に見えないものがそこに浮かんでいるというのが、どうしても信じられない。
「内田さん、もしかしてお気に召しませんでした?」
「え? お気に召しましたよ」
返事をしてから、質問の意図を理解したように慌てて手を振った。「そういうじゃなくて! そのとき父さん、柄にもなくすっごく良いこと言ってたなって思い出しただけ」
「へえ、どんなこと?」
相槌のつもりで訊ねると、内田はくるりと反転して、ガラスの壁に身体を預けて空を見上げた。
「それがねえ……まだずっとちっちゃかったし、星に夢中だったから、何を言ったのか全然覚えてないんだよね」
まるで涙を溢さないためというふうに瞬きを堪えた。
どういう旨の教訓を授けたのか、おおよその見当はつく。だけれどもそんなことに意味はないのだろうと思う。内田は父の言葉そのものを、その言い方を覚えていないことを、悔やんでいるのだから。
そういえば俺は、父親から何がしかの教育をされた覚えがない。特別叱られた記憶もないし、生きる上で参考になる話も聞いた試しがない。
きっと父親なりの気遣いだ。親子であっても家族ではない自分が干渉すべきではないと一線を引いたのだろう。
俺は何かを言って欲しかったのだろうか。
自問しても確かにあるはずの答えは、都会の星のように見えはしなかった。




