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走り出したら  作者: 肉団子
5章
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そういう線引き

 あの雪山よりは、ずっと穏やかなので、まさか遭難の危険は感じない。それでも方向がわからなくなる瞬間が幾度かあった。体の前後はわかるのだが、周囲の建物がぼやけてしまい、方角を見失いそうになる。上空を見上げれば、ぼんやりと浮かぶ太陽が辛うじて見えた。

 学校ではみんなその話で持ちきりになっていた。物珍しげに外を眺めながら、ああだこうだと言い合う。

 時間が経つほどに濃くなった霧は、しかし始業式を終えた頃にはすっかり晴れていた。

 体育館を出て、俺はまっすぐ八組に向かった。体育館でもちらりと見えていたが、遠野誠は三学期にもきちんと出席している。すでにいくらかの生徒は自主登校と決め込んで、休みがちになっていた。どことなく広く感じるのは、七組だけではないらしい。

「朝さ、霧出てたろ」

 誠の表情と声が「はぁ?」と一致する。音にならなかった次の言葉は「それがどうした」だろう。

「なんであんなことになったの」

「あー……えっとな……まあ放射冷却だと思う。それ自体はいつも起こってて、晴れてたり風が無かったりっていう条件が重なると……」

 そこまで言うと、こっそりとため息を漏らした。「どうせ夕刊か夕方のニュースでやるよ。それ見ろ」

「飽きたな」

「飽きたっていうか、面倒臭い」

 俺は周囲を見渡して、誠に訊ねた。

「そういや、眞鍋は?」

「休みだろ。ずっと部活やってたし、慌てて受験勉強じゃないの」

「ああ、なるほど。大変だな、あいつも」

「まあ眞鍋も、おまえには同情されたくないだろうけどなあ」

 誠はしみじみとした様子で呟いた。

「それは、どっちの意味で?」

 春頃にあった因縁のためか、それとも成績のためか。誠は答えてくれなかった。

 霧が晴れたあとの学校は、どこか寂しげだった。

 冬枯れた植樹。校舎を這うパイプが反射する薄日。チャイムの音さえも弱く感じる。授業にも熱が感じられず、卒業までの辻褄合わせのように気が抜けていた。

 その日の夕刊には、誠が言った通り、霧がどうして発生したかの記事が載っていた。わかったようなわからないような記事の横に、霧に埋もれた街から、ビルの頭がちょこちょこと生えている写真が添えられていた。午前八時半ごろの撮影だという。

 高層ビルの上部だけを残して、霧は街中を白く染めていたらしい。

 視線を上部へと移していくと、今日の日付が書いてある。

 一月九日。

「お母さん、明日の晩ご飯、いらない」

 言ってから、しまったと思う。

「いらんって、約束でもあるの?」

「まあ、そんなとこ」

 約束などしていなかった。思いついたまま口が開いていたのである。

 断られたらそのときだ。自分を励ますように言い聞かせて夕刊に意識を戻した。



 学校に着いてからずっと窓の外を見ていた。

 駐輪場と下足ロッカーを通り、まっすぐに教室に向かうには、必ずここを通らねばならないからである。

 ちらちらと確認する時計は、ちっとも進まない。

 冬の装いをした生徒たちの中に来るはずの、たった一人を待ち続けた。

「おまえ、たまに変になるよな」

 高梨は不審がって、目を眇めるように俺を見る。

「年中変な君には負ける」

「オレも最近は落ち着いたもんだろう?」

「そういやそうだな。何かあったの?」

「何があったってこともないけどよ。もう卒業だからな、いろんなことから」

「へえ」

 聞いたことはなかったけれど、高梨には彼なりの線引きがあったらしい。それはなんとなく感じていたことではある。つまりどんな無茶を言い出したって、前科がつきそうなことはやらなかったし、命の危険が伴うようなことも、絶対に言わない。

 その一つの線が十八歳、高校生にあるのだろう。そういう線引きは、俺にも理解はできる。世間的にみて「子供」である期間。

 彼はその限られた期間を最初から意識して、できうる限りの遊びを考えていたのではないか。こいつはひょっとすると、バカに見えて案外と賢いのかもしれない。

「それに大学は別だろ、たぶん」

「あ?」

 それは俺とか? という言葉が、頭の中で浮かんで消えた。それ以外にどう取れというのだ。「まあ、大学生になったら、思いっきり遠出しよう。自転車で奈良なんてけち臭いことしないで、大陸横断くらいの気持ちで」

「そりゃいいけどよォ、黒沢はまず大学生になるところからだろ」

「どうしておまえは、そう突かなくて良い核心ばっかり突くんだ」

 雑談をしていると、目の前を小柄な人影が行き過ぎえるのが見えた。マフラーをして、後頭部にはヘアゴムのアクセサリーが小さく光っている。

「悪い、ちょっと出る」

 高梨に言い残して、机の間をすり抜けるように廊下に出た。南側の入口は廊下を折れて階段の陰になっているので見ることはできない。

 高鳴るというよりは胸が苦しい。緊張をしているのだろうか。

 努めてゆっくりと歩いて行くと、角を曲がって内田が現れた。眠たげな瞳が俺を認めると、瞼は半開きのままに身体がノッキングのように揺れて、マフラーの尻尾と髪がふわりと浮く。

「おはよう」

「おはよう。トイレ?」

「あー……いやちょっと、内田に用がありまして」

 心当たりを探すように黒目を一周させてから、不思議そうに小首を傾げた。

「あのさ、今晩時間ある?」

 意味を確かめるように思案顔をする。

「いきなりだし、都合が悪いならいいんだけど」

「悪くない。行く」

 食い気味に、鋭い語気で言った。

「でも晩飯とか」

「まだ作ってないもん」

「そりゃそうだな。じゃあ……いつもの公園に、何時が良いだろう。内田っていつも夕飯、何時くらいに食べてる?」

「うちは七時かな」

「じゃあ……六時でいいか。大丈夫?」

「うん」

 反射的という感じで呆けた返事をした後で、もう一度「うん」と言って肯いた。

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