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走り出したら  作者: 肉団子
1章
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オレはモテたい!

 蝉の声と歓声と、夏の陽射しが重く、重くのしかかる。

 スターターの音がすると、歓声がいっそう大きくなった。ゆっくりと瞼をもたげる。

 真っ赤な絨毯が延びている。

 一〇〇メートル前方にゴールライン。全天候型のトラックはゴムでできていて、競技用スパイクがめり込む感覚に、ついに慣れる日はこなかった。

 暑さで頭がぼんやりしていた。早く終われと、いつも願っていた。

 一秒でも早く逃げ出したい。こんなところにいたくはない。

 汗が首筋から背中に流れていくのが気持ち悪い。

 バトンがつながれ、第三走者がカーブを曲がってくる。

 タイミングを合わせて飛び出した。

 走り出したら、スパイクの感触もいくらかマシになる。

 テイクオーバーゾーン目一杯でバトンを受け取れば、あとは真っ直ぐに走るだけ。

 教えられたことなんて頭から飛んでいる。歯を食いしばって先を走る連中を追う。けれどもその背中はちっとも大きくならないままゴールラインを過ぎた。

 中学最後の陸上大会は、いつもと同じで、予選敗退だった。負けたというのに悔しさが湧いてこない。

 そんなものだと諦めていた。

 知れきった敗北は、惜敗するよりは心に好い。

 俺はふと、スタンドを見上げた。。

 ああ、これは記憶ではなく夢なのだな、と気がついた。

 俺はそんなことをしていない。けれども夢の中の自分は、たしかにスタンドを見た。色が深くて、暗いほどの青空に白いスタンドが映えていた。

 誰かの視線を感じている。



 大きな影を落として、飛行機が上空を横切った。

 エンジン音が寝起きの頭に響く。しかめっ面になるのが自分でもわかる。大きな欠伸をしてから身体を起こした。

 どことなく水色に霞んだ空。春らしい陽気である。

「……やっぱりサボって正解だったな」

 呟いて、また欠伸をひとつ。

 眼下には校庭が広がる。都会のど真ん中の公立高校では、二五〇メートルトラックが精々だ。その小さなグラウンドの隣には、今まさに始業式が行なわれている体育館。

 今日から高校三年生。またの名を受験生というが、実感などまるでない。

 視界の端で、ちらちらと動く物に気がついた。

 十メートルは下に咲いている桜の花びらだ。風に吹かれて屋上にまで来たものの、隅っこにわだかまって、行き場を失っている。

 ものすごく親近感がわいた。俺も一緒だった。

 抗いようもない物に押し流されて、知らない間に追い詰められている気分だ。

 霞の青空に、薄汚れた校舎に、俺は言い知れない閉塞感を覚える。

 どうしてなのだろう。目を閉じるだけで、心地良い陽気につつまれて、幸せを抱いて眠れるというのに。



 新しいクラスは三年七組だそうで、昼寝を(午前中だが)していた三号館の屋上から真下に四階分下りた一階にある。

 そろそろ始業式も終わったろうと思って戻ってみたが、まだ誰も帰っていない。電気の消えた教室は南向きの窓から射し込む太陽光で、独特な空気を醸し出していた。

 自分の席はどこだろうと視線をめぐらせて、黒板に貼り付けられた紙を見つけた。出席番号順に窓際から縦に並んでいる。出席番号六番で二列目へ。十二番目に「黒沢 修一」の名前があった。

 悪くはない。ひとつ後ろにずれていれば教卓の左前という地獄だったことを思えば、紙一重で天国だ。

 さっさと自分の席について、筆箱しか入っていない通学鞄を床に置く。椅子も机も寡黙で、ガタガタ言わない。腕で枕をつくって頭をのせる。高さも問題なし。

 眠りやすそうな良い席だ。

 一人満足していると、シンとした空気を壊すように、バタバタとやかましい足音が近付いてきた。

 どこのバカだろうかと思う間に、教室のドアが勢いよく開けられて、高梨が飛び込んできた。

「いっちばぁん!」

 両腕を天に伸ばしてポーズまで決める。その姿のまま俺に気付いて固まった。

「んだよ、黒沢いたのか。でもま、始業式サボってたから失格だな」

 恥ずかしがれよ。

 小学校から同じ学校に通っているという事実でさえ、今の俺は恥ずかしいというのに。

「一番も何も、おまえ一人でやってんだろ」

「そういう問題じゃねえの」

 高梨は俺と向かい合うように、前の席ついた。

「それにしたって暑いなあ、今日は」

「走るからだろ。っていうか、暑いなら取れよ」

 胸元を指差す。「お」と言いながら、ホックを外した。

「生徒会?」

「そ、生徒会。会長が閉めろってやかましいの」

 高梨に遅れて、というよりも普通のペースで動くクラスメイトたちが、ちらほらと見え始めた。

「川上だっけか。嫌われてんだって?」

「嫌ってんのは書記がな。両方の愚痴を聞くオレの身にもなってくれよなって話――って、んな話じゃなくてさ」

 何かを言いかけたところで、パンパンと鳴らされた手拍子が邪魔をした。

「おまえらぁ、席着けぇ」

 間延びした声を出しながら、スポーツ刈りにスーツという格好の男が、教室のドアを閉めている。体育教師で陸上部の顧問をしている武内だ。やさしいというか適当というか、とにかく厳しくはない。これで今年の平穏は約束された。

 思い思いの場所で雑談に花を咲かせていたクラスメイトたちが、それぞれの席に戻っていく。武内は通りしなにゴミ箱をのぞいて「うわ」と声をもらし、眉根を寄せた顔でこちらを見る。目が合った。

「よぉし黒沢、初日から遅刻しやがって。罰としておまえ、ゴミ捨てな」

「あ?」

「あ? じゃなくて、はい、だぞ」

 安心したそばからこれだ。陸上部の顧問にろくな奴はいないのだ。



 ぶつくさと文句を言いながらゴミ捨て場までを往復する。

 俺が戻った教室には、もうほとんど人は残っていなかった。派手な女子グループが三人、茶話会を催しているばかり。俺に気がつくと、

「おつかれー」と、からかってくる。

「あ、そうだ黒沢」

 三人の中で……いや学年で一番美人だろう女子が俺を呼び止める。「ギャル美」とあだ名されるのに相応しい、いまどき見かけない金髪である。艶のある桃色の唇が魅力的だ。

「なに」

「パシりが終わったら食堂に来いって、高梨からの伝言」

「えー……ギャル美さんが行ってよ」

 どうせ大した用事ではないのだ。

 知ってか知らずか、ギャル美は思いっきり顔を歪ませて不快感を示す。そういう表情をしても不細工にならない。


「さすがにもうそのあだ名も許せるけどさ、せめて『さん』ってつけないで」

「あ、はい」

 自分の鞄を拾いあげ、教室をあとにする。背後から「ルミが睨むからビビってんじゃーん」という声が追ってくる。

 ビビってなどいない、断じて。

 そういえば彼女はナントカ留美という名前だった。ギャル美という呼び名も、最初はギャルなんてやめてくれという一部男子の抗議だった、ような気がする。

 なんとなしに記憶をほじくり返しながら食堂へ足を運ぶ。屋外席に人の姿はない。

 平屋造りの食堂は、東側にカウンターと調理場があり、他三方に扉と窓がずらりと並んでいる。全体的に白色で清潔感があるのだが、なぜか板張りの天井付近の壁には、ペナントだのサインだの記念写真だのが所狭しと貼り付けられている。

 客は少なく、高梨はすぐに見つかった。ラーメンを注文して、高梨の正面に座った。

 食べかけのカレーをかきこんで、水をぐいっと飲み干して、グラスを力強くテーブルに置いた。

「オレはモテたい!」

 学食のラーメンはシンプルである。醤油スープとネギ、芸術的に薄いチャーシューが一枚。そしてモヤシで麺の量をごまかしてある。チャーシューを食べ、モヤシごと麺をすすり、スープを飲む。

「あ?」

 眉間に皺を寄せて、唇をひん曲げて高梨を睨んだ。

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