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泰平のマギア(旧作)  作者: 嘉實
2/13

「幸福の街-イツワリノマチ-(後編)」

 セスの背後に居たのは、リベルタで少し有名な兄弟、ランスとキースだった。ボサボサな長髪を肩まで伸ばしているのが兄のランス。スキンヘッドに無精髭を生やしているのが弟のキース。彼らは共にジャックの店の常連であり、セスとも多少面識があった。

 彼らは互いに軽く目配せをすると、不気味な薄笑いを浮かべながら項垂れたセスの方に近付いていく。

「よおセス。こんな路地裏でうずくまってよ。どうかしたのか?」

 先に声をかけたのはランスだった。

「ランス。それにキースも。お前らこそどうしたんだ」

 セスは相手の姿を見るなり、警戒の態勢を取りながら立ち上がる。セスは知っていたのだ。ランスとキースが共に犯罪を繰り返す無法者であったことを。普段から素行の悪さは筋金入りだったが、最近ではもっと悪質なことにまで手を染めているという噂もあった。

 そんな二人が、自分に何の用だろうか。セスは不信の眼差しを彼らに向けていた。

「そう怖い顔すんなよセス。今日はお前に最っっ高の話を持ってきたんだからな」

 ランスの言葉に、セスが眉をひそめる。嫌な予感しかしなかった。

「知ってるぜ~。確かお前、金が無いんだよなぁ」

「……どうしてそれを」

 口を挟んできたキースの方を見るセスの目が、鋭さを増す。

「弟が昨日たまたまお前のことを見かけてよ。ある程度事情を知っちまったんだーーああ安心しろ。このことはまだ誰にも言ってねぇからよ」

 随分厄介な奴に知られてしまったものだ。セスは心の中で舌打ちをした。

「なに、1日だけお前に少し手伝ってほしい仕事があるのさ」

「仕事?」

「ああ、報酬は50万。借金返しても余裕でお釣がくるだろ?」

「そんなバカげた話があるか!」

 気がつけばセスは周りを省みずに叫んでいた。

 50万と言えば、あまりに破格な金額だ。確かに今のセスにとっては喉から手が出るような話ではあるが、それをたった1日で貰えるなんてことはあり得ない。話が出来すぎている、と思った。

「……犯罪絡みか」

 セスの額には、油汗が浮かんでいた。迂闊なことを言うと何をされるか解ったものでないという恐怖もあり、セスは二人の顔色を窺うように視線を動かす。するとランスがニィッと口を大きく裂いた。

「話が早くて助かるねぇ」

「ーーッ!」

 一切の誤魔化す素振りのないランスに、セスが言葉を詰まらせる。発言を先読みされても全く堪えた様子がなく、むしろセスにとって仇になってしまったようである。

 セスは俯き加減で一度呼吸を整えると、再び二人の方を見た。

「悪いが、断らせてもらう。犯罪の片棒を担ぐつもりは無い」

 セスの剣幕に、彼らは少したじろいだ。逃げるとしたら、今だ。セスは驚く彼らを尻目に歩き出した。しかしその後の、キースの「いいのかぁ!?」という呼び掛けに、彼は再び足を止めてしまったのだった。

「医者に金が払えないと、どうなるんだろうな。採算取るためにあのガキを奴隷にするってところか?そいつも面白そうな話だよなあ」

「……止めろ」

 セスは踵を返すと、彼の胸ぐらを掴んだ。そのまま憤りと力に任せて、キースの首元をギリギリと締め上げる。キースの脚が、僅かに地から浮いた。

「元から無いような命じゃねぇか。何をそんなに怒る」

 キースは苦しそうな顔で、愉快そうに笑っていた。自分が必死になって救おうとした命が、ミスティの命がバカにされている。彼の視界は血の海のようになった。

「そうカッとなるなよ。まずはキースから手を離せ。何も俺たちはお前と喧嘩したいわけじゃないんだからよ」

 ランスは至って冷静な口調でセスを諌める。セスはハッとして手の力を緩めた。その隙にキースがセスの手を払いのけ、拘束から脱出した。

「けどよ、お前も本当は分かっているんじゃないのか?」

 ランスが一歩、セスの方に歩み寄った。ジャリ、と砂を踏む音が、セスの耳の中でやけに大きく響く。

「俺たちは悪くないぜ。悪いのは社会なんだからよ。正直に、真っ直ぐ生きたらバカを見る……そんな社会だ。違うか?」

 諭すような声色で、ランスが左手を差し出す。土の詰まった湾曲した爪を見ていると、胸の奥から何とも言えない思いが沸き上がってくるのを、セスは感じていた。

 大きな雲が空を覆っていく。彼ら三人の元に届く日光はぐんと減り、影を落としたような明るさにまで落ちる。ついさっきまでずっと遠くで聞こえていた喧騒が遠ざかり、今この街では自分たちだけが違う空間にいるような、そんな気がした。

 自分たちがどんなに頑張っても、彼らはそれを認めない。上流階級の人間はセスやスラムの子供たちを、足元を飛び回る虫けら程度にしか、思っていないのだ。

 世界一幸福なこの街ですら人の命は平等ではない。なら他の街は?ミスティの何倍も辛い思いをしているのだろうか。そんなの絶対におかしいじゃないか。セスの掌はうっすらと血で滲み始めていた。

 もし、もし仮にだ。手に入れた金を元手に何か大きなことを始めれば、現状が変わるかもしれない。空っぽの腹を抱きながら、路上で寝るスラムの子供たちを、救えるかもしれない。

 セスの心の中も、日が傾き、ずっぷりと影に覆われていく。

「そう……かもしれないな」

 ランスの言う通りなのだ。悪いのは社会。一部の人だけが私腹を肥やし、ミスティのような子供が見捨てられていく現状が、正しい訳がない。彼らを救うためにーーこれは仕方ないことだ。

 セスは覚悟を決めたように息を吐くと、ランスの手を握り返す。

「仕事の内容を教えてくれ」

 こうしてセスは、ランスの甘言に乗ってしまったのだった。




 ランスの言う仕事とは簡潔に言えば、強盗だった。ある貴族の屋敷を襲撃するという計画。そしてその屋敷は、リベルタ有数の名家として知られる貴族、ポルドー家の屋敷だった。

 ポルドー家は表向きでは商業で財を築いてきた、ということになっている。しかし実際に彼らが扱っていた商品のほとんどは、生きた人間だった。魔族を使って子供を拐わせ、人身売買によって莫大な利益を出していたのである。

 最近では奴隷制度廃止の動きが大きくなったこともあり、奴隷産業から手を引いたという噂だが、それが事実なのか。少なくともセスの知るところではなかった。

 ランスによると、計画のための既に人数集めや役割分担は済んでいるらしい。セスは二人と同じ、金目のものを物色する役に当てられていた。

『準備するものは全部用意してある。手ぶらで来てくれて構わない』

 そんなランスの言葉通り、セスは何も持たずに集合場所までやって来た。午前1時を示す時計塔の前で、彼は辺りを見渡す。夜の冷気が服のすき間をくぐり抜け、セスは軽く体を震わせた。

 少し早すぎたろうか。しかしセスの懸念は杞憂に終わった。共謀者と思われる男たちが、続々と集まってきたのである。集合時間の15分ほど前には、ランスとキースを除く五人が既に集まっていた。

(ガタイの良い男が全員か……魔族が混じってそうな奴もいるな)

 彼らは全員覆面をしており、実際の顔はあまりよく分からない。しかしその人間離れした体つきは、もしかすると布一枚下には大きな牙が生えているのでは?と思わせるものだった。すると遅ればせながら、セスの中には「自分はこれから強盗をするのだ」という実感が、改めて芽生えてくる。

 自分していることは本当に正しいのか。いくら相手が非人道的な人身売買を繰り返す悪徳貴族だったとして、強盗は正当化出来ることなのかーー。

 セスは答えを出すことから逃げるように、視線をさ迷わせた。

(そう言えば、全員が覆面をつけているな。もしかして……俺も持参すべきだったんじゃ?)

 顔丸出しの強盗犯なんて見たことも聞いたこともない。セスは自嘲気味に笑った。こういうことに不慣れであることは実感していたが、まさかここまでとは、という自嘲だった。自身はキースの言葉通り何の装備もなしにやって来たわけだが、キースの発言には「最低限の準備くらいはしてこい」という意図があったのも知れない。

 自分は善人になることも、悪人になることも出来ないのだろうか。中途半端な自分の姿を、目の前にまざまざと突き付けられた気がした。火が出るように恥ずかしさと共に、セスはキースらがやって来るまで顔を両手で覆っていたのだった。

「よお。全員揃ってるかーーとお前は?」

「セスです」

 ランスの問いに応える彼は、依然として顔を隠したままのポーズだった。

「おーちゃんと来たか。ビビって逃げ出すんじゃないかと思ってたぜ。ほらお前用のマスクだ」

 それを聞き、少しセスの肩の力が抜ける。セスが何となく曖昧な感謝を示すのに構わず、ランスはマスクを彼に手渡した。

 次の瞬間、マスクを顔に近付けたセスが思わず「うえっ」とのけぞる。

「臭ッ!何だこれ」

 マスクというより、腐った布のような異臭である。何の心構えもしていなかっただけに、セスの驚きはひとしおだった。

「あー悪い。それ間違えて牛小屋に放置しちまってたやつでな」

 ランスは気まずそうに頭をかいていた。

「そんなやつを渡すなよ!」

 その口調は怒りというよりも、ランスに対してのツッコミだった。勢いよく投げつけられたマスクを、ランスはそれを難なくかわす。だが不幸にも同一直線上にいた、弟のキースの顔面に、その激臭マスクがクリーンヒットしてしまったのだった。

 キースは「わっぷ」と反射的な声を上げた後で、

「あぎゃあくっせぇぇぇえええ!!」

 少し過剰なくらいに悶え苦しみ始めた。どうやら軽く口の中にも入ってしまったらしく、口を押さえて繰り返し嘔吐するような素振りを見せていた。

 一応言っておくと、勿論ランスは本気でセスに激臭を放つ覆面を着けるよう強いていたのではなく、場を和ませるための軽いイタズラのつもりで、わざとセスに臭い覆面を渡したのだ。地べたの上を転げ回る弟の姿を見下ろすことになるというのは、ランスの想像を遥かに超える結末だった。

 とはいえこの一連のやり取りで、殺伐としていた一同は笑いに包まれたのだから、ランスの思惑はうまくいったといって言いのかもしれない。




 しばらくして、一行はポルドー家の屋敷のすぐ近くまで着ていた。門の目の前は少し開けた環状路になっていて、中心には大きなが噴水があった。静かな夜の街に飛沫の音が響いている。

「ったく。緊張感のねぇ野郎だぜ」

 屋敷の門を噴水の影から覗きながら、ランスはそんなことを口にした。

「すまねぇ兄貴。うっぷ…」

 真っ青な顔をしながら、キースは嗚咽を繰り返している。

「元はと言えばお前が原因だけどな!」

「冗談も通じねぇのか?お堅いねぇセスは」

 そんな三人の会話も、噴水の音が全てかき消した。かれこれずっと同じようなやり取りが続いているのだ。流石に辟易したらしい男が、彼らの後ろから諌めるような咳払いをした。

「よし、改めて計画を確認するぞ」

 気を取り直したランスが、苦笑まじりに全員の方へと向き直った。

「事前に言った通り、この屋敷は二時になると門番が変わる。俺たちは警備が手薄になったその時を狙うってわけだ。俺らとセスを含めた三人は屋敷の中で探索して、他の三人は住民を捕まえておく。残る一人は偽の門番としてカモフラージュ用に立っておいてもらうからな」

「出来れば俺もその役がいいんだが」

「馬鹿か。お前は俺たちのボディーガードっつったろうが。ジャックに聞いた話だと、見かけによらずなかなか腕が立つらしいな」

(アイツ余計なことを…)

 セスはわなわなと拳を震わせる。酒を飲むと話をでっち上げるのはジャックの悪い癖であることを、セスは思い出した。

「んじゃ、そろそろ行くか」

 ランスが立ち上がるのに合わせて、残る六人も腰を上げた。そこで彼はふと思い出したように、

「いけねぇ、名前だ。屋敷の中で互いに名前を呼び合うわけにはいかないからな。今のうちに決めておくか。並んでいる順番に一番から七番と互いを呼ぶこと。それでいいな?」

 六人全員の顔を見ながら言った。彼らが無言で頷くのと同時に、前方からガシャリと音が響くのを聞こえてくる。門番が欠伸をしながら屋敷に入っていったのだ。それが作戦決行の合図となった。

 セスはランスから新しく貰った覆面を、口元の辺りまで押し上げた。

 先頭を切ったのはランスだった。その後にセスたちが続く。

 屋敷のドアの手前まで来て、六人は一旦足を止めた。植物のツルをかたどったような金色の装飾が施された木製の扉だ。その何とも形容しがたい威圧感に、彼らは唾液を飲み込んだ。

 ランスが扉を開くと、蝶番からはキィと音が鳴った。その僅かな音にまで、彼らは身構えてしまう。心臓が耳の奥にやってきたような動悸が止まらなかった。

 中に入りわ彼らはみな屋敷の中を見渡し始める。そこでキースが思わず「すげぇ…」と感嘆の声を漏らした。

 実際、ポルドー家の屋敷は彼らの想像を超える広さだった。その内装は屋敷というより宮殿に近いように、セスの目には映った。外から見ても十分に見てとれたその大きさが、中に入るとより一層増したのだった。

 彼らは周囲を警戒しながら、少しずつ足を進めていく。強盗が入ってきたというのに、屋敷の中はなお静寂に包まれていた。

 すぐさま騒ぎになることも覚悟していた彼らにとって、このことは拍子抜けであり、また好都合でもあった。頭上の遥か上から煌々と照らす照明を除けば、六人の侵入をまだ誰も知らない。




 家の間取りから警備の時間帯までを入念に調べた後に計画を立てていたこともあってか、事は思いのほか順調に進んだ。屋敷に住む家族はすぐに見つかり、中にいた使用人たちも全て拘束し、あとは金品を物色するだけとなった。

「案外楽勝だったぜ」

「しっかり事前に準備していた甲斐があったな」

 キースとランスは上機嫌で呟いている。その横で、

(おかしい)

 セスは眉をひそめつつ、考えを巡らせていた。

 住民は皆、こちらが少し武器をちらつかせただけで、全く抵抗することなく、不自然なくらいにあっさりと降伏した。今のところ仲間にも住民にも怪我人はゼロだった。どう考えてもあまりに順当すぎる。セスは首を傾げた。

 しかし浮かれる仲間の姿を見ているとそこに水を差すような気にはなれず、彼は一人もやもやとした思いを抱き続けていたのだった。

「ここらで手分けするぞ。俺たちは二階と三階を探索する。お前は一階を頼む」

「分かった」

 ランスの言葉にセスが頷く。するとランスは腰に手を当てて周囲を見渡しながら、

「噂によるとこの屋敷にはとんでもねぇものが隠されてるらしい。それを見つけ出すことが俺たちの目標だ」

とセスに告げた。

「とんでもないもの?」

「ああ、とんでもねぇものだ」

 聞き返すセスに、ランスが同じ言葉を返す。

「具体的には?」

「さあ?」

(……なら一体何を探せと言うんだ)

 セスはそんなツッコミを胸のなかに押し込んだ。


 セスがまず向かった先は、屋敷の倉庫だった。よほど長い間使われていないのだろう。中は埃で覆われていて、入るや否や思わず咳き込んでしまうほどだった。ところどころ蜘蛛の巣まで張っている始末である。

「流石にここには何も無いか」

 普通の神経ならば、貴重品をこれほど汚い場所に置いたりしない。これ以上の探索が無駄であることは、すぐに分かった。

「ん?」

 その場を後にしようとしたセスの足に何かが当たった。よく見ればそれは木製の台車だった。

 これからおそらく金目になりそうなもの、つまり比較的重たい物をいくらか運ぶわけであるし、台車の一つでもあればその持ち運びがぐっと楽になるはずだ。

 思わぬ収穫に頬を綻ばせながら、セスはその持ち手に手をかけた。もっともセスがそれを持ち出そうとした本当の理由は、自分が倉庫に来たことを全くの無駄足にしたくなかったからであったわけだが。

 そこで彼は、すぐに自分の軽薄さを後悔することになる。何となくで持ち出したはいいが、いざ押し始めてみるとなかなか歩きにくかったのである。

 少し進む度にギイギイと音が鳴る。屋敷の中はいいとしても、屋敷の外に出た後のことを考えれば、持っていることの有益さなどとても感じられたものではなかった。

 台車を手放そうか。セスは早くもそんなことを考えていた。その時セスは廊下を出たすぐ突き当たりに、不自然に色の違う壁を見つけたのだった。

「なんだこれ?」

 耳を当ててながら軽く叩いてみた。すると壁だと思っていたものが大きく揺らぐ。この先に何か空間がある、とセスは確信した。

 しかしそれが分かったとしても、肝心の入る術がないのだ。いっそのこと蹴破ってしまおうか。野蛮な考えも一瞬浮かんでくるが、セスはすぐに首を振る。

 隠し部屋を見つけたからと言って、わざわざ無理に入る必要もないじゃないか、と彼は自分に言い聞かせた。

 「よし!」とセスが仕切り直すように声を発す。探索の対象を他に移そう。そう思って立ち上がった。しかし次の瞬間、手をかけていたその壁がグニャリとたわんだ。セスは素頓狂な声を上げながら、前のめりに倒れていく。

「痛~」

 割れたベニヤ板に打ち付けた鼻を擦りながら、彼は徐に立ち上がった。身体の下の板が、バキッと二つに割れる。

 と、こうして思いがけず道が開いたわけだが、セスはそのことを素直に喜べなかった。まるでこの部屋が作為的に自分を引き寄せているようなーーそんな気がしたのだ。不思議と言うより、気味が悪かった。

 セスは恐る恐る中に入ってみた。そしてギョッとした。部屋の中は少し異常なくらいに、子供の遊び道具で一杯だったのだ。セスは戸惑いを隠せず、視線を右往左往させていた。

「凄い物の量だな…」

 カーペット一面を覆い隠すようなぬいぐるみの山を足で崩しながら、セスは歩を進めていく。迂闊に歩いていると踏んで転んでしまいそうだった。そこで本当に何となく、足下に転がっていたぬいぐるみの一つ、茶色い熊のぬいぐるみを持ち上げてみる。

『ヘルシャ』

 ぬいぐるみの背中にはそんな刺繍が入っていた。人の名前だろうか。それとも熊の名前だろうか。

 答えの出るはずのない疑問を胸に、セスはぬいぐるみをそっと元の場所に置いた

 L字になった角を曲がって少し進んだところで、部屋の中は行き止まりになっていた。カーテンの掛かった窓の下にはいかにも高そうな赤い椅子あった。その背もたれには何枚ものカラフルな布で覆われた『何か』が、ロープで縛り付けられている。趣味の悪いオブジェに、セスは嘆息した。

(一体何の意味があるっていうんだ、これは)

 金持ちの考えることは分からない。

 例えばこの部屋全体が一つの芸術作品だったりでもするのだろうか? そう解釈すれば、この実用性の無さにも頷ける。

(それにしても、今のところかなり時間を無駄にしているな)

 今頃、ランスたちは何をしているのだろうか。ひょっとしたらもう探索を終えて、自分を待っているかもしれない。

 このまま手ぶらで彼らの元に戻るわけにはいかなかった。今度こそ場所を移そう。そう心に決めて、セスが慌てて踵を返す。

 彼の想像を絶することが起きたのはその時だった。

「けほっ」

 小さな女の子の、籠った咳のような音。セスはゆっくりと、目を見開きながら振り返る。耳が確かならば、今の咳は背後から。セスがオブジェと思っていた『モノ』の中から聞こえてきたはずだ。セスの顔から血の気が引いていく。

 彼は一枚ずつ、恐れるような手つきで布を剥いだ。するとそこから人の脚のようなものが現れ、戦慄する。

「ーーッ!」

 セスの疑念が確信に変わった瞬間だった。この中に誰かが閉じ込められているーー彼の頭は全くの真っ白になった。

 装着していたマスクが取れてしまったのも構わずに、彼はただ無心で、必死に、そのオブジェを解体していく。

 オブジェだったものが人の姿を示すまで、さほど時間は掛からなかった。残るは顔に被せられた布だけだ。あまり慌てていたのでセスはすっかり息が上がっていた。

 セスが最後の布に手をかける。そして中から出てきた人の姿を見て、セスは思わず声を上げそうになった。


 それは人形のようにーー美しい少女だった。


 透き通るような白い肌に、ふわりと舞い上がった金色の長い髪が柔らかく落ちていく。長い睫毛がゆっくりと割れて、少女の碧眼が夜空の星のようにぱちくりと瞬いた。万物を魅了するがごとき汚れなき無垢の美に、セスは目を釘付けにされていた。

 囚われの少女と、盗人。

 その奇妙な出会いが後の自分の人生、そしてこの国の運命を大きく変えることになるとは、この時のセスはまだ夢にも思っていなかった。

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