「幸福の街-イツワリノマチ-(前編)」
初投稿です。
小説を書いた経験があまりないので、色んな方から意見やアドバイスが貰えると嬉しいです。
よろしくお願いします!
暖かい日の光に照らされて、幸福の街リベルタは今日も人々の活気に満ち溢れていた。それはいつもと何一つ変わらない光景。世界が魔王の直轄支配を離れてから100年の間、人魔双方にとっての安住の地として愛されてきたこの街の、愛すべき日常のはずである。
しかしなぜだろうか。今日はやけに人々の笑顔が遠くにあるような気がする。レンガ作りの壁に背中を預けながら、男はそんなことを考えていた。
彼の名前はセス。長く伸びた黒髪と濃い蒼の瞳を持つ青年である。今年20歳になる割に見た目がほんの少し幼いという点を除けば、ごくごく平凡である。彼の様子を見た者がもし気にしうるとすれば、それは、顔の作りではなく彼の服装についてだろう。
質の悪い麻作りの肌着。そして土色に汚れた肌がその破れ目から覗く。こうした彼の格好は、華々しく鮮やかな街の様子からは完全に浮いてしまっていた。
リベルタのモットーは『人魔双方が幸福であれる街』である。また、このモットーを基盤に、数々の政治運営が行われてきたのも事実だ。しかしそのリベルタですら未だ解消できない社会問題がある。セスの姿はこのこのを如実に表しているのだった。
確かにリベルタの平均所得は他の街に比べてもずっと高い。でもだからと言って、それ即ちリベルタの住民が総じて一定以上に裕福であるという証明では無いのだ。この街の平均所得の高さは、単に国王直属の騎士やその家族という高級身分者が、他のどの街よりも多く生活しているという事実に起因しているのだ。つまりセスのような日々の生活を何とか送るので精一杯の、非正規労働者も数多くいたのであった。
彼らは国から発効された正式の身分保証書を持っていないため、正規労働者となることは出来ず、非人道的な仕事を毎日のようにこなさなければ生きていけないのである。
かと言ってセスが自らの境遇を嘆きながら生きてきたかと言えば、実際そんなことは無かった。彼の中に「生きていられるだけマシ」という妥協があったからである。それは仕事もなく、満足な食事もままならず、路上で野垂れ死ぬ仲間を何人も見てきた彼だからこそ、言えることであった。
働けるだけマシだ。そう思えたから、セスはたとえどんな扱いを受けても、文句一つ言わずに仕事を続けてきた。ひたすら懸命に、毎日を必死に生きてきたのである。しかし現実は非情だ。彼は突然雇い先から大きな理由も容赦もなく、切り捨てられてしまったのだ。
勿論彼に貯金や家は無い。頼れる身内も居なかった。手元に残ったのは人が三日暮らすのがやっとな程度の、僅かな退職補償金だけである。
セスは「どうするかなぁ」と軽い調子に独り言を漏らす。いつ首を切られるか分からない身分である以上、いずれこうなるだろうとは思っていた。しかし実際その立場になってみると、その厳しさというものは想像を絶するものだった。これからどう暮らしていけばいいのかという絶望感が、じわじわとセスの頭を染めていく。喉元にじっと刃物を突き付けられているような不安が、身体に重くのしかかる。
だがここで黙って項垂れていても何も始まらないのもまた事実だろう。そう思い当たり、彼はようやく重い腰を上げた。
行く宛はない。それはセスが一番分かっていたことだった。仕事を探すため役場に行ったとしても、身分証明書が無いことを理由に門前払いを食らうに違いないのだ。どうしたものか、とセスは悩む振りをしながら、気がつけば顔見知りの経営する酒場の前に来ていた。
とりあえず今は辛い現実から逃れたい。そんな気持ちが働いたのかもしれない。セスはまだ真新しい扉を叩き、開けた。
「やってるかい。ジャック」
セスが言うとカウンターの側にいた男がこちらに気付いたらしく、グラスを洗う手を止めて「おっ」と声を上げた。身長はセスの頭一つ分高く、ゆうに二メートルを越えているだろう。口から覗く鋭い歯が、褐色に焼けた男の肌とは不釣り合いに白く輝いていた。
「セスじゃねぇか。昨日ぶりだな」
セスはその言葉に答えるように笑うと、いつものように手前から2番目のカウンターに腰を下ろし、
「相変わらず湿気た店だな」
周りを見渡しながら呟いた。まだ外が明るいからだろう。酒場にはセス以外の客はいなかった。
「すまねぇな。湿気た店なもんで、お前みたいな顔した奴しか入ってこねぇんだよ」
ジャックはセスに一杯の水を差し出しながら、演技臭さたっぷりに言い返す。
「誰が湿気た面してるって?」
セスは笑い混じりにグラスを傾けた。気の置けない二人の、他愛もないやり取りである。彼らの普段の様子をよく知る者が見ても、普段と全く同じように見えただろう。だがジャックは違った。セスの雰囲気の僅かな違いを鋭敏に感じ取っていたのである。
「セスーーどうかしたか」
体の動きが止まる。セスは表情と体勢はそのままに、目だけをジャックに向けた。
「いや、気のせいかも知れねぇが、なんかいつもと違う気がしてな」
不意に図星を突かれたセスは、驚きで何も答えられない。だがジャックにも二の句は告げなかった。
「俺の勘違いならいいんだ」
沈黙が気まずくなったのか、ジャックは返答も待たずに、グラスを拭く作業に戻ろうとする。そこでセスが両手を挙げた。
「ったく。お前は妙に鋭いな」
もう観念した、という口ぶりである。
「へっ。これでも客商売やってんだよ」
と、少しホッとしたようにジャックが言った。
考えてみれば、客商売というのは客の顔色を見る仕事である。彼がそういった細かい心の変化に敏感なのはなるほど合点がいく。しかしそうは言っても自分のことをジャックに相談したところで、一体どうなるだろうかーー。
彼なりに多少の葛藤はあった。だがそれよりも、誰かに今の自分の悩みを共有したいという気持ちの方が勝ったようである。
「えっとだな。俺、失業した」
彼は簡潔に告げた。咄嗟にジャックは「はぁ!?」という驚愕の声を上げてしまい、彼のごつごつした手の中からグラスが飛び上がる。危うく落としそうになったそれを何とか空中で掴むと、ジャックは額の汗を拭った。
「そんなに驚くことか?」
セスは苦笑混じりだった。
「…このご時世失業ってのは珍しくねぇ話だ。どちらかと言やぁ失業した足で飲み屋にやってくる神経を疑ったのさ」
「……何も言い返せないな」
痛いところをつかれた、彼は思った。ジャックの言う通り、明日以降の食事にも困るような状態で友人の飲み屋にやってくるなど、阿呆もいいところである。
「なに今日の分はツケといてやるさ。新しい仕事が見つかった時に返してくれればそれでいい」
「それが本当なら願っても無い話しだが…金が無いのはお前も同じだろう」
「へっ、良いってことよ。俺たちには金はねぇが、ここぞって時に助け合える絆ってもんがあるのさ。平和だのなんだの格好の良いことばかりを言う国のお偉いさんにゃわかんねぇだろうけどよ」
ケッ、とジャックは悪態をつく。
「まあでも、そんな世の中だからこそ、こうして何かしてやろうって思えるのかもしれねぇな」
「……ははっ、相変わらずそういう凄いことを平然と言うな、お前は」
「ふん。褒めても酒は出てこねぇぞ」
ジャックは照れ隠しに、シッシッと手首を振っていた。
彼の言う通り、今の世界は騎士や貴族の特権階級層ばかりが、資本を独占している。だからこそ、一般市民の間の結束は強くなる。困ったときに、人のことを思いやれるのだろう。
「でもよ。俺からすればスゲェのはお前の方さ、セス」
「俺が……?」
ジャックにそう言われたものの、彼には思い当たる節がなかった。
「知ってるぜ。お前がよくスラムで何をしてるか」
「な……っ! お前知ってたのか!?」
「店の客から何となく聞いたんだよ。どっかの馬鹿がスラムのガキに食い物を渡してるってよ。直接お前の名前を聞いたわけじゃねぇが、自分の生活もままならねぇくせに、わざわざ赤の他人の面倒を見る馬鹿なんざ、お前くらいしか思い当たらなくてな」
「馬鹿で悪かったな」
「馬鹿だよ、お前は」
ジャックはため息混じりに言った。
「もしもお前がーー」
何か言いかけて、ジャックは口を噤む。
「どうかしたか?」
「……いや、何でもねぇよ」
ジャックは誤魔化していたが、セスには彼が何を言おうとしたか分かっていた。
『もしそんなことしていなければ、お前はまだ良い暮らしができていたはずだ』
かつて同じ場所で働いていたジャックが、その時必死に貯めたお金で、こうして店を構えることができたのだ。その気になればセスにいくらでも逆転のチャンスがあったはずなのにーー。
ジャックの短い言葉の中にはそんな非難めいた意味が込められているように、セスには感じられた。だからこそ彼は応える。
「じゃあどうしてお前は、あんなにキツい仕事をずっと続けていられたんだ?」
空になったグラスを回しながら、セスが問いかける。
「そりゃあ自分の店を出すために決まってる。夢を叶えようと必死でーー」
「ああ。俺も同じだ」
「同じ?」
「俺がこうして辛い仕事を続けてこれたのはアイツらっていう養わなきゃいけない奴が居たからだよ」
ジャックは少し驚いたような顔を作った。そして呆れたように、それでいて嬉しそうに舌を打つ。
「大家族の父親みてぇなこと言いやがって。本当に生意気な奴だな、テメェは」
「そこは精々大家族の長男だろう。言っておくが、俺は父親ってほど老けた込んでないからな?」
「それもそうか」
静かな店内に、二人の笑い合う声が響いた。それに合わせるかのように、水滴のついたグラスの中でやけに大きく氷の音が鳴った。
日も沈み、店の中には段々と人が増えてきた。いつものようにくだらない会話を一通り終えた後、セスはそろそろ席を立とうとした。
「とりあえず新しい仕事だな」
別れ際の最後の会話のつもりで、ジャックは話を戻した。
「見つかるまで探すさ。選り好みできる立場じゃないからな」
「そうか。ならうちなんてどうだ。安くしとくぜ」
「いや、そいつは雇う方が使う言葉じゃないだろう。それにお前と毎日顔を合わせるなんて、考えただけでも具合が悪くなりそうだ」
「今でも毎日会ってるくせによ」
「チッ…うるさいよ」
セスは空のグラスを彼に差し出しながら、憎まれ口を叩く。来た時に比べて、セスはだいぶ元気を取り戻しているようだった。
(確かに今の俺は絶望的な状況にあるかもしれない)
それはセスも自覚していることである。だがそれ以上に、同じ苦難を分け合ってきた仲間と色々話が出来たと言う現実が、彼に力を与えてくれた。
何とかなるような気がする。
セスは言葉にしないながらも、ジャックに感謝していた。
その時ジャックが、ふと冗談混じりに口にした。
「お前が魔法でも使えればいいのにな」
魔法、という言葉にセスは僅かに反応した。魔法とはまたの名をマギアという力、ある種の技術だった。古くは魔族だけが使うことのできる異能として考えられていたものだが、近年ではその原理等の解明は進み、人間でも再現が可能なものとして、人々の生活を大きく発展させるに至っている。
とはいえ今現在ですら、魔法が使えることはそれだけでステータスだ。もし魔法が使うことができれば、騎士として、または技術者として引く手あまたに違いない。高度な専門的知識を身につければ、その後一生の成功が約束されるようなものなのだ。
「そんな力があればーーこんな所で燻らずに済むのに。世界ってのはつくづく不平等だよ」
セスはやれやれと首をふる。
「よく知らねぇが、人から聞いた話じゃ、学べば案外誰にでも使える力らしいぞ。子供が生まれたら少し教えてみるのもいいかもしれねぇ。ひょっとすると天下の騎士様になるかもな」
そう語るジャックの目は輝いていた。
(子供ーーか)
ジャックが何気なく放った単語が、セスの頭の中で重く反響する。
ジャックには家庭がある。まだ結婚して1ヶ月ほどだが、相手はとても若くて綺麗で、ジャックには勿体ないくらいの美人だった。
セスは思った。思いたくはなかったが、思ってしまった。
嗚呼、いつの間にか自分とジャックの立場はすっかり離れてしまった、と。
将来や未来のことを考え続けていたジャックと、その日を何とか生き抜くことしか頭になかった自分。その差はセスやジャックら自身が気づかないうちに、大きく開いていたのである。
「そろそろ行くよ」
セスは自分の中から沸き上がる何かをひた隠すように、ジャックに背を向けた。
「もう帰るのか?」
「人も増えてきたしな。あと今日のうちにもう少し仕事を探しておきたい」
「そうか。ならちょっと待て」
ジャックはそう言ってポケット漁る。そして小さな袋を取り出すと、セスに向かって投げた。受け取った時、ジャラリと音が響いた。ほんの少し開いた袋の口からは、銀貨が数枚覗いている。
「少ないが使ってくれ。今日のところはそれでスラムの子達に何か食わせてやるといい」
ズシン、と。彼の手の中で袋が一気に重みを増した気がした。言葉では言い表しようのない感情の黒い渦が巻いている。セスの胸の奥でぐるぐると回っている。
「……すまない」
なんとか絞り出せた言葉はそれだけだった。
「気にすんな。全部合わせて10倍にして返してもらうからよ」
ジャックの軽いジョークすらも、セスの胸に突き刺さった。見惚れるような銀貨の輝きも、自分を隅へ隅へと追い詰めていく刃のように感じられた。
慰めは、優しい言葉は重い。いっそ不甲斐ない自分の姿を、誰かに言葉に出して責められたかった。
「またな」
セスはジャックに別れの言葉を告げる。来た時よりもずっと上手く自分の心を隠しながら。
するとジャックは「おう!」と右手を挙げて応えてくれた。ただその目はセスの方を見ていない。きっと客が増えてきて、店の方が慌ただしくなったからだろう。
キッチンから彼の妻が出てきたところで、セスは店の扉を閉めた。背中に硬い木の感触を得ながら、彼は手を握りしめる。自然と喉の奥から「畜生」という言葉だけが漏れた。
(昔も今も、俺たちは仲の良い友人同士だ。その事実は何も変わっていないはずなのに)
ジャックに対する嫉妬では無い。むしろすっかり落ちこぼれた自分に対する、絶対的な失望だった。
セスは呆然としながら、ふらふらと歩き始める。そこで彼は一人の少年にぶつかった。急に現実へと引き戻されて驚きながらも、セスは「おっと」と少年の体を引き寄せた。
よっぽど急いでいたのだろう。少年はぜえぜえと息を切らしている。
「大丈夫か?」
セスの呼びかけに、少年が顔をあげる。
「お前は……」
少年スラム街の男の子だった。彼の顔はもう泥やら涙やら鼻水やらで、ぐちゃぐちゃになっている。
「兄ちゃん。ミスティが……」
少年が泣きじゃくりながら伝えたのは、恐ろしい出来事だった。血の気が引く、とはまさにこのことである。セスは顔を真っ青にして、気がつけば少年を置いて走り出していた。
段々と日が沈み、夜の帳を下ろしていく街の中を、セスはひたすらに駆ける。肺と心臓が圧迫され、今にも破裂しそうになるくらい、懸命に走った。
「ミスティ!!」
言われた場所に来てみると、ボロボロの服を着た子供たちがミスティの周りを囲んでいた。全員目元を真っ赤に腫らし、そして中心のミスティは青白い顔で苦しそうに目を閉じている。
「おいミスティ! 大丈夫か!」
問いかけてみても返事がない。肌を触ってみたが、日陰の鉄のような温度だった。人の暖かみがまるで手に伝わってこない。
「いつからこうなんだ?」
「えっとね、もうね。一時間くらいずっとこのままなの。それでね。皆でセスお兄ちゃんを探してね。なかなか見つからなくて。それで……」
「分かったよ。ありがとう」
たどたどしくも何とか説明をしようとする少女の頭を、セスは優しく撫でた。そしてすぐ近くの塀を見上げる。高さは三メートルくらいあるだろうか。おそらくあそこから落ちたのだろう、とセスは思った。
「よくミスティを動かさなかったな。偉いぞみんな」
普段からセスは彼らに"誰かが大ケガをした時はなるべく体を動かさないよう"言っていた。状態はかなり悪そうに見えたが、子供達がセスの教えを守った甲斐もあり、これならまだギリギリ助かるかもしれない。
「みんな、大丈夫だ。俺がすぐにお医者さんを呼んでくる。みんなはここで待っててくれ」
こうも立て続けに色んなことが起こって、彼の頭の中は酷く混乱していた。だがそれでも彼は、子供たちの気持ちを少しでも楽にするために、あえて何でも無いような口調で言った。
「ミスティ助かる? また遊べる?」
「ああ、勿論。だから良い子で待っているんだぞ?」
セスの言葉に子供は皆頷く。少し不安も和らいだのだろう。ミスティに対して穏やかに話しかけながら、彼女を元気づけ始めた。
子供達の前から立ち去ると、セスの顔から笑顔が消えた。ミスティはまだ8歳と少し。そんな幼い少女の命を、ここで失うわけにはいかない。
ミスティの両親は彼女が物心つく前に魔族に襲われて他界した。身寄りのなかった彼女は行き場を無くし、数年前からこのスラムで他の子供たちと共に生活していると、セスは聞いていた。
ミスティは優しい子だった。以前人から黒パンを貰った時のこと、ミスティは小さなパンをスラムの友達と分けあった。他の子ならひとりで全部食べてしまうところを、ミスティはそうしなかった。理由は単純だった。彼女にとって仲間ととる食事が何より美味しいものだったからーー。
セスは薄暗い夜道を走りながら思い出す。去り際にミスティが僅かに笑う姿を。苦しくて堪らない中、セスに対する感謝を示そうとする姿を。もしかするとその笑顔が、もう見れなくなるかもしれない。
疲労が何だ。鉛のような足がなんだ。そうして彼は思い付く限りの診療所に駆け込むのだった。
だが医者たちは彼を相手にしなかった。セスの汚い身なりを見るなり、診療所の扉を固く閉ざした。それもそうだろう。スラムの子供一人を助けたとして、彼らにとってなんの得もないのだから。それならきちんと治療費を払ってくれる軽傷の患者を相手にした方が、ずっとマシというものである。
セスもそのことは分かっていた。だからこそセスは何件も病院を回ったのだ。しかしスラムの子供たちに対する世間の目は、彼が思う以上に冷たかった。たとえいくらかの同情があっても、結局のところそれは同情の域を出ないというわけである。
「お願いします! 子供が死にかけてるんです!」
「駄目だ。こちらも仕事なんでね」
もう何度目かの門前払い。セスはは投げ飛ばされるようにして、診療所を追い出された。自分の感情を抑えられなくなって、セスは思わず固く冷たい地面に拳を打ち付ける。
「クソッ! 何でなんだよ!」
金が無ければ死ぬしかないとでも言うのだろうか。諦めろというのだろうか。彼は現実の理不尽さと自分の無力さに対する怒りが、彼の手の甲に血を滲ませていた。するとその時、不意にポケットの中で金属音鳴った。そうだ、ジャックから貰った金貨がある。そこでセスは再び扉の前に行き、鉄製の扉を叩き始めた。
「待ってください! お金ならあります、払います! どんなことをしてでも払いますから! どうかミスティの命を救ってください!」
指先が痺れてきても、彼は扉の前から離れなかった。周囲を歩く人の嘲笑など気にせず、セスは扉を叩き続けた。
するとしばらくして、中から先程の医者が怪訝そうな顔をして出てきたのだった。
「あんたさぁ。いい加減にしないとーー」
セスはすがり付いて、男の言葉を遮る。
「残りの金は後で必ず払います! ですからどうかーーどうか!!」
セスは金貨を袋ごと持った手で、男の手を力強く握りしめた。その手は血で真っ赤に染まっている。男は目を細めた。視線を全員に移していき、そこで懇願するセスの姿がボロボロであることに気づく。医者は白髪混じりの頭を何度かかくと、観念したように頬を緩ませた。
「負けたよ。あんたの勝ちだ」
男はそう言って、部屋の奥に声をかける。すると間も無く中からその医者の部下であろう屈強な若者が二、三人姿を現したのだった。
「さあ患者のところまで案内してくれ」
セスは泣きそうになりながら、深々と頭を下げた。
スラムに着いた頃には、あれからさらに1時間以上が経っていた。見たところ、ミスティの顔色はますます悪くなっている。
「こりゃあ酷い内出血だ。腹がバカみたいに腫れてる」
「そんなに酷いんですか?」
「すぐに手術がいる。よし運ぶぞ」
隣の男たちは医者の言葉に頷くと、ミスティの体を慎重に持ち上げ、担架の上に載せた。仲間が見知らぬ男の手で運ばれていく様子を、同じスラムの子供たちは不安そうな面持ちで眺めていた。
「大丈夫だみんな。ミスティはすぐに良くなるさ」
彼はみんなに言い聞かせるように言った。しかし実のところ、その本当の対象は自分自身だった。比較的無意識に、セスはここまで骨を折った自分を労うような気休めを口にしたのだ。
スッと肩の力が抜けると、徐々に自分の行動を振り返るだけの余裕ができてくる。セスはジャックから貰ったお金を使ってしまった事実を思い出した。
(それでも……ミスティが生きていさせくれれば)
次の日、セスの耳にミスティが奇跡的に一命を取り留めたという知らせが入った。しかし問題はその治療費だ。
請求された額は、セスの働いていた所の給料の約1ヶ月分。セスは頭を金槌で殴られたようなショックを受けた。思っていたよりとずっと、現実味のない金額。医者はミスティが退院するまでの間猶予してくれると言ったが、それもあと3日ほどの話だ。その時までに、どうにかして金をかき集めなければならない。包帯でグルグルに巻かれた右手を見ながら、彼は途方に暮れた。
処置をしてくれたのは例の医者だった。帰ろうとするセスを呼び止め、「これには金を取らないから安心しろ」と無償で包帯を巻いてくれたのだ。
『若いのに大したもんだ』
頭の中に男の台詞が残っていた。医者はわざわざ身を磨り減らして子供を助けようとしたセスの真摯な態度に、胸を打たれたのだという。その時彼はセスを褒めるのに『正義感』という言葉を使った。
セスは自分を駆り立ててくる『モノ』の正体を知っている。それは正義感というよりも、贖罪や後悔の産物だった。
右手の傷口が抉られたようにじくじくと痛みを増してくる。昔のことを思い出すと、毎度こうして息が詰まる思いをするのだ。いくら吐いても、喉の奥からは真っ黒い吐息が漏れ続けている。
ミスティを助けようと奔走したことに、後悔はまるでない。彼女が死に、多額の借金だけが手元に残るような最悪の結末にならなかっだけ、いくらか救いがあるというものだ。
とはいえこのままでは子供たちと共に餓え死ぬより他なくなってしまう。死という未来が着実に迫っていて、そのことが分かっているのに逃げ道がどこにもないーーいくら考えても答えも光も見えてこないのだ。もがけばもがくほど、状況はどんどん悪化していく。
そんな彼の元に、二つの黒い影は密かに忍び寄っていた。