信州山中崖下而モ真夏炎天下鉄条網ノ緊縛地獄
その信州山中、廃業から久しいホテルの裏は崖だった。崖上に、ホテルの建物の裏側に面して駐車場が設けられていた。その駐車場は舗装されてはおらず、地面に縄を埋め込んで区分けされた、横に一列10台分の駐車区画のそれぞれには、コンクリートブロックの車止めが2個ずつ無造作に置かれていた。そして、辺り一面雑草が這いつくばって広がり生え、黒ずんで汚れて転がるブロックの配置の乱れとともに、それは長年の放置を思わせた。ホテルの建物が傷みきっていることはいうまでもない。薄汚れたガラス越しに覗く各階の階段の踊り場の装飾灯が、二階へ、三階へ四階へ向かう、あるいは下りてくる人々のかつてそこにあった華やいだ声と喧騒を甦らせて、見るものの心をかえって寂しく静まり返らせた。
車止めのすぐ向こうは、切り立った崖の頂上である。崖の縁に沿って、駐車場利用者の危険を回避するための柵が設けられていた。幅2メートルほどの等間隔を保って、崖の縁の端から端まで、大人の背丈ほどの丸太の丸太の杭が打ち込まれ、そして、それには鉄条網が張られていた。思えば、その杭の定着部は、その地形と地質、杭の材質、それに経年からして、いかにも脆い。その、必要以上と思えるほどに蜜にに張られた有刺鉄線の棘は、茶の錆びに覆われつくされていて歪に丸みを帯びて、その機能を果たせなくなってからさらに相当の年月を経ているのではないかとさえ思わせるほどに古びていた。
切り立った崖といっても、目だって傾斜が急なのはその頂上に近い部分だけである。縁に立って下を見下ろすと、数メートル下った先で急激に傾斜をゆるめてからはそれほどの傾きがあるわけではなく、さらに角度を緩やかにしながらの緩斜面が、ふもとまで、なだらかに続いていた
私は、生まれ故郷の小高い丘の斜面の草の上を、長方形の長細い廃材板に乗って滑り下りて遊んだ子供のころを思い出していた。
その丘は、「たむけ山」と呼ばれていて、板に乗って滑り下りた先には、赤レンガ造りの、古びた火葬場の建物が建っていた。その煙突からは、いつも白い煙が、薄く、一定方向になびき出ていた。火葬場に遺体を運び入れてから一昼夜をかけて火葬に付して、骨拾いは翌日という時代、昭和三十年代の半ばであった。
子供3人か4人、ときには5人、6人、全員が一枚の板に尻を乗せ、両足も板の上に乗せての体育座りの数珠繋ぎ一列、それぞれが左右の手首を草の中に突っ込んで、右に左に上体を揺らして危ういバランスをとりながら舵をとり操って、ふもとまでの斜面を滑り下りていった。
子供たちの手は、早春の若草のむせ返るような香をかきたてるとともに、その正体は定かでないが、しばしば動物の骨を探り当てた。
「何の骨かのォ~?」
「犬かのォ~?」
「人間のやないやろうのォ~?」
「肋骨か鎖骨みたいやねェ~?」と女の子が言った。
「尾骶骨やないかァ~?どっかのじいさんの?」と男の子がおどけた声をあげた。
全員が火葬場のほうを見た。
私の生家は、西本願寺の末寺である。住宅が密集する地域にその寺はあったから、墓地に供するための
土地がない。かといって、納骨堂を完備するだけの資力もない。だから、門徒の家の誰かが死ぬと、持ち込まれたその遺骨は本堂のあちこちに安置された。
内陣の床に置かれた長櫃の中、同じ内陣の壁に設けられた、七、八段ほどの棚、本堂と庫裏との境をなす後戸を上っての正面、ご本尊の阿弥陀如来像の背に当たる部分に、床から高い天井まで見上げるようにして作りつけられた棚、それから、その後戸を上ってすぐ真上の棚、それぞれにどこもここも、隙間なく骨壷・骨箱が並べられ積まれていた。ご本尊の前の具足の上にも、いつも、新たに持ち込まれた遺骨の箱が、一体分、ときには二体、三体分と、次にやってくる遺骨との交代まで、真新しい白布あるいは金銀の装飾が施された布地に包まれて、お位牌とともに安置されていた。ご本尊の前の具足の上だけでは間に合わないときには、居間のすぐ隣の仏間の仏壇にも安置されていて、二つの部屋を遮る襖が開け放たれているときには、テレビに向けられた視線を少しずらすだけで、遺骨の箱が目に入った。
友人たちも、そのことを知っていた。遊びに来たときに目にするだけでなく、ときには、骨箱を持ち出して手に提げて、「お~い、おこつやぞ~、中を見るか~」と、女の子を追いかけ回して遊んだのだから。
だから、友人たちは私に聞いた。
「何の骨かのォ~?」
知るわけがない。人間の骨と他の哺乳類の骨とを即座に区別できるわけでもない。手にした骨が魚の骨でもなければ小鳥の骨でもないことが分かるだけである。
しかし、とにもかくも、滑降の途中だけでなく、丘のふもとに滑り下りてからも、辺りの草の中を探ると 何かの動物の骨が造作なく手に触れた。それは、やはり人骨であったのかも知れない。
ときどき、普段目にする骨箱よりは一回り、いや、二回りは大きい、そして重い骨箱が持ち込まれると、その中をのぞきこみながら、祖母が言っていたからである。
「何かね、こりゃあ!骨から灰からなんもかももってきとる!」
通常は遺骨のうち、その一部分のみを納骨するものであるらしい。
「じゃあ、残りの骨は?」
「この草の中に転がっとる骨は?」
寺院で遺骨をあずかるときには、その骨箱の中を改めてから預かるものである。生焼けの頭の骨が入った骨箱が持ち込まれたことがあった。一見、それは明らかに老婆の頭であった。
板に乗っての草そり遊びに飽きると、今度は、丘の頂上から体を横向きに寝かせて斜面を転がり下りた。平林淑子も、斜面の途中の凸凹に体を弾かれ、跳ねるたびに叫び声をあげた。
「ヒヤァ~!こわ~い!」
スカートの裾が大きく捲れ上がって乱れるのも気にせず、パンツ丸見えで、草の斜面を横になって転がり落ちていった。
「だれか、とめて~」
ふもとに大の字になって息せき切っていると、丘の頂上、その向こうに広がる青い空、緑の斜面、そして火葬場の建物がぐるぐると回転した。
淑子が大声をあげた。
「立て~ん!」
その声は、子供らしい興奮でいっそう華やいでいた。
私も大声で応じた。
「俺もやァ~」
二人して立ち上がって、「ヒやァ~、目が回るゥ~」、「俺もよォ~」といいながら、手を繋ぎ足をからませて草の中に倒れこんだ。
男も女もなかった。いつも男女が混じって遊んでいるころだった。遊ばなくなったいつのころであったか?二人だけで「たむけ山」の頂上に立って、遠く臨海部に林立する工場の煙突から吐き出される、茶、橙、紫、灰、黒、赤、緑、七色の煙を眺めたのはいつのことであったか?そう!私と淑子の結びつきは、そんな無邪気な子供時代、小学校の4年生か5年生のころに始まった。
そう!あの痛恨の「別れの日」まで十数年かそこら!
その、ホテルの裏の崖の斜面は、そんなことを思い出させるくらいのほどよい傾斜が、向こうに見える低木層の端まで、なだらかに続いていた。
子供時代を回想したのがいけなかった。ある種の郷愁と感慨に誘われた。寛ごうと、タバコを取り出して火をつけて、一服吸って、杭の一本に背をもたせかけた。そしてさらに、そのまま後に体重を預けたのがいけなかった。その杭が根元からすっぽりと抜けたのである。私の体は、斜面に頭を投げ出し、て大きく崖側に仰向けの姿勢で傾いた。今抜けた杭の左右の杭が、私の体重に引っ張られて大きくこちら側に傾き、今にも抜けそうなのが目に入った。弱弱しい立木に結わえられた、丈夫な糸の代わりに鉄条網で粗組みされたハンモックである。その鉄条網のハンモックの寝床に、不安定に仰向けに静止したまま、できるだけ冷静に考えた。
「さて、どうするか?」
しかし、その静止も、ほんの一瞬ことでしかなかった。先ず、向かって右側、私の体重に引っ張られて今抜けたばかりの杭の右側の杭が抜けた。まるで高速度撮影の映像を見るように、その杭は、根元の土で汚れた部分を見せながら、冷酷に抜け飛んだ。同時に、私の体は、鉄条網の床の上を右に大きく転がった。右腕の付け根側面から始まって、肘に、わき腹に、次いで腰、太腿側面、順に有刺鉄線の棘の先端が突き刺さる。すぐに、側頭部、こめかみ、額右上、瞼、鼻の頭、唇、顎の先端と棘の先が次々と襲ってきた。回転を止めようと、半ば無意識に出される左手の掌にも、有刺鉄線の棘は容赦なく突き刺さってくる。
あの錆びて古びた、酸化しつくしていて、指先に触れればたちまちにして砕け散るに違いないと思わせた有刺鉄線の棘は、錆びで縁取られ覆われた歪な造形の内側に、十分にその機能を維持して牙を剥いていたのである。
「痛い!」
掌の数箇所に有刺鉄線の棘を深くたてて仰向けになりかけたとき、一旦静止した。「どうしたものか?」と思いはしたものの、自然の力学に容赦はない。すぐに、左の杭が勢いよく抜けて弾けとんだ。その瞬間、私の体は、今度は左側に少し回転した。さっき、棘に襲われた私の体の右側の部分から棘が抜ける。
「痛い!」
同時に、、今度は左側、瞼の上から始まって鼻筋から唇、顎の先端、胸部、順に下に向かって痛みが走り続けた。
「うっ、痛い、うっ、痛い、痛い・・・・・・痛い、痛い、痛い!」
そして恐ろしいことが起こった。さらに、たった今抜けた杭の左側の杭が抜けたのである。あとは勢いである。次々と体重に引っ張られて杭が抜けていく。抜けるたびに、私の体は、いっそう大きく崖側に頭を傾けて鉄条網の寝床を回転していった。
右側のほうの杭も抜け始めたと思われる。
左側の杭のすべてが抜けて、その抜けた杭を順に放り上げて、私の体を絡めながら右側の杭が抜けていった。もう、右も左もベクトルのバランスもない。鉄条網の網を数条まとった私の体は、さらに幾重にもその金属の網を巻きつけ纏ながら斜面を下っていった。
鉄条網を投げ捨てた杭が数本、巧みに抛られたお手玉さながらに宙を舞う。転がりながら、私は、力の限りの大声で叫んだ。
「うわ~っ!」
その声が人に届くわけがない。山中の、廃墟となって久しいホテルの裏の崖である。転げ落ちて行く先は、さらに人工から離れる、向こうの低木層の縁である。その先は、さらに人工とは縁遠い中木層、高木層の連なりである。
何十回転して斜面のふもとに転がり着いたのであろうか?さっきまで目まぐるしく入れ代わった空の青、土の茶、草の緑が、その回転を緩めた、頭、顔面、腹、背中、尻から太腿、足首まで、体中のおびただしい部位に突き刺さった鉄条網の棘が同じ部位を執拗に攻撃してくる痛みから少しだけではあるが解放されるのを感じて、鉄条網装束の私の回転は止まった。が、ほんの少時の静止と安堵、次は猛烈な目眩と吐き気である。胸いっぱいに外気を取り入れ呼吸して耐え、その襲撃からの解放を待った。しかし、耐え待ちながらも、一つところに堅固に固定されているわけではないことが、地震の初期微動を思わせる小さな不安定な揺れから感得される。
「いつ再び転がるか!?勘弁してくれェ~!もう!」
入り組んだ鉄条網の網目の隙間から地面の茶が見える。なんという種類の蟻か?大型の蟻の列が一直線をつくって、向こうの立木の下に消えていた。辺りの様子をうかがおうと、目の玉をきょろきょろさせて上目遣いにしたとき、何かが目に染みた。
「痛い!」
その痛みは、以前に経験したことのある痛みだった。高校時代、剣道の試合中、相手の竹刀の表面から薄く細く剥けるように剥がれて長い針となった竹が、面金の隙間を潜り抜けて左瞼に突き刺さったときの血と汗に染みた目の痛みだった。だが、今回は、大粒の血液が数滴、地面に滴り落ちた。
一滴が地面に染みこんだ。うっすらと湿った小さな円に二滴めが落ちた。三滴、四滴、・・・、その円は色を濃くしていく。一匹の蟻がその円に近づいてきた。円周付近で止まって、触覚をいそがしく動かしている。その体長とほぼ同じ長さの円の直径をまたいで収穫物の大きさをかくにんしたのか、しかし、少し這っては不本意そうに立ち止まり振り返りながら、もとの列の方に戻っていった。出くわした他の蟻と頭部をぶつけ合って、触覚を振り振り何かを相談しているように見える。
「何だろう?臭いだけで掴めない!
「そうか、そうか、了解!」
二匹の蟻は二手に分かれて、一匹の蟻が血液の円のほうにやってきた。先に円を発見した蟻か、その蟻に指示された蟻であるのかは区別できない。やはり、円周付近で立ち止まって、触覚を盛んに動かしている。蟻が円を跨いだとき、その上に血液が一滴滴り落ちた。自分の体と同じくらいの質量の液体を背から被ったのであるから無理もない。蟻はたじろいだ。そして、立ち上がって私のほうを見たように思えた。
「蟻なんか、どうでもいい!どうしたものか?」
私は、腹の底からの大声で叫んだ。竹刀の先を向け合う蹲踞の姿勢から立ち上がってすぐ、攻撃の体勢で相手を威嚇する気合の声である。
「うお~オッ!」
そのとき、針金細工ならぬ鉄条網細工の私の体を芯にした繭玉は、ごろりと、体中の夥しい部位に痛みを走らせながら180度回転した。
「うっ!痛い!痛い、痛い、痛い!」
今度は仰向けである。千切れ雲ひとつない、信州の抜けるような夏の青空が視界の限りに広がっている。そして、真夏の太陽が真上で燃えている。その90度に近い太陽高度からして、正午近くと思われる。
「暑い!」
だが、これからが大変である。太陽熱がじわじわと地面の温度を上げて、たっぷりと熱気を吸い込んだ地面がその熱を空気中に放射する。「これから2,3時間が大変だ!」と思うと、急に喉が渇いてきた。
幾重にも絡まって歪んだ円筒形をつくっている鉄条網の粗い隙間から、真夏の太陽がじりじりと照りつけてくる。鉄条網の、錆で歪な棘の先端の一点に目の焦点を合わせると、その向こうから、太陽は容赦なく責めたててくる、焦点を開放して、目を細めて太陽を凝視すると、ぼやけた鉄条網の広がりは、棺桶の天蓋をなす桟である。生きながら埋葬された人間と外界とを隔てる天蓋の骨組みである。
「一条、二条、三条・・・」と、目の前の骨組みの数を数え初めてすぐに止めた。
「己を閉じ込める牢獄の堅固を確認して、何になる!」
上空をトンビが輪を描いて飛んでいる。
「狙う獲物はこの俺なのか!
笛の音ような鳴き声も聞こえてくる。
「仲間に知らせているのか!」
トンビの輪が、二つ、三つと上空に重なった。
蟻が一匹、鉄条網を這い上がってきた。何を嗅ぎつけたのか?針金の側面を少し這い上っては止まって触角を盛んに動かす。有刺鉄線の先端に上ってちょっと立ち止まって、すぐに反対側を垂直に下りていく。入り組んだ金属の網目を横にも移動する。金属には私の血液が付着しているものもある。蟻はその臭いを辿っているのか?私は、大きく息を吸い込んでから、勢いよく目の前の蟻に吹きつけた。蟻は、頭を下に向けたまま鉄条網の針金の向こう側面に回って強風を避けて静止した。そして、六本の足で針金を抱え込んで腹部を密着させて踏ん張って強風に耐えたた。が、すぐに力尽きてどこかに吹き飛んだ。
「痛い!」
蟻に息を吹きかけたとき、表情筋に無用に力が入ったからであろう、顔面が痛い。
足の先を少し動かしてみる。
「痛い!」
痛みは、棘の痛みだけではないようだ。体全体に鈍い痛みが走る。
「今は体を動かさないほうがよい」
私は、そう判断した。
だからといってどうなるものでもない。また、動かそうとして動かせるものでもない。
体は鉄条網にがんじがらめに絡め取られて、しかも、棘の楔によって何箇所にも固定されている。それに、何しろ痛い。
棘の一点をよりどころにして太陽の動きを観察すると、太陽は、先ほどよりも、やや左に傾いている。すると、向かって右方向が東、左が西であるから、私は北側を頭に横たわっていることになる。
「ちぇっ、北枕か!」
「それにしても、どうしてこんなことに!?」
「罪なくして囹圄に陥つ。人生の悲惨これより甚だしきはなし!」
「罪なくして?己の罪は?」
「誰が裁いた!?」と思って、全身の筋肉に力を張り巡らせた途端、体の中心に向かって360度の方向から矢が突き刺さってくるように棘の先が食い込んできた。黒縄地獄の緊縛、残虐この上ない拷問である。
痛みの和らぐのを待って、ため息をついた。
「フ~ウッ!!
いったい何箇所に棘は刺さっているのか?体の表面全体の夥しい部位に、生殺しのまま苦しむのにほどよい深さに急所を避けて散弾銃の弾を打ち込まれ食い込ませ、その痛みにのたうち喘ぐ獣の姿が描かれた。
「アッ!ウ~ウッ!」
じりじりと容赦なく照りつけてくる太陽の熱と、地面から湧き上がってくる、大量の水蒸気を含んだむせかえる熱気の中で朦朧と考えた。
*
おやそ一月前、私は、女房と三歳の誕生日を直前にした娘を連れて、私の生まれ故郷に帰省していた。九州北部の、玄界灘に面して工業地帯が広がる町である、ちょうど夏祭りの最中であった。309個の提灯を12段のピラミッド型に組んだ大山笠4基を、一基あたり5、60人の男たちが担いで練り歩く勇壮な祭りである。その競演会の開始前、観覧席から、車道の向こうの噴水公園に目をやると、浴衣姿の若い女が、歩道の縁石に飛び乗ったり飛び下りたりしている姿が目に入った。下駄の真っ赤な鼻緒が食い込んだ足の甲の白が艶めかしい。団扇を手にした右手の動きが愛らしい。左肘に巻かれた浴衣の袖の大きな花柄が大人の女の香を放つ。軽い跳躍のたびに揺れて捲れて首筋の白を露わにする、まっすぐに梳かれた洗いたての黒髪も心をひく。私は声に出したかどうか?思わず叫んだ。
「淑子!」
郷愁に高鳴る胸を押し殺して、側の娘と女房を見た。
競演会の終了後、女房と娘は私の生家の寺に帰して、私は、一人で飲食店が密集する繁華街に向かった。目指す店は決めていた。焼き鳥屋の「でんすけ」である。焼き鳥やといっても、出される品は焼き鳥だけではない。この町では、焼き鳥屋が天婦羅も出せば刺身もメニューにする。刺身を肴に一杯飲んで寄託する勤め人もいる。刺身がメインといっていいほど、その出される烏賊、鯛、平目は新鮮である、冬季にはとらふぐの刺身もある。真夏であっても、草ふぐの湯引きが出される。しかも安い。
私は、つきだしのオキュートを肴にビールを飲んでいた。
入り口が開いて、一人の男が入ってきた。常連客と見えて、板場から声が聞こえた。
「平林さん、いらっしゃい!」
「ひらばやし!?」、その名に、私はすぐに反応した。そして、今入ってきたばかりの、まだ席に着いていないその男の顔を見た。目が合った。男のほうから声をかけてきた。 「芦野さん!」と言いながら、平林は私の隣のカウンター席に座った。
「おう、哲やないか!」
「久し振りですねェ」
「そうだなあ、何年ぶりだろう、おまえに会うの」
私は、少し考えてから言った。
「俺が高校卒業してから、会ってないよなあ」
「そうですネエ~」
「すると、20年近く会ってないのか」
「そういわれれば、そうですネェ」」
「でも、なぜだろう?不思議なもんだ?こうやって哲と並んでいると、とても二十年ぶりとは思えん!
きのうも会ったような気がする」
「俺もです、でも、やっぱ、どこか懐かしい気もするから、なんか変ですねェ~」
そんな会話を交わしながら、私と平林哲は旧交をあたためた。
平林哲のカウンターに、まだ何も注文してないはずなのに、生ビールの大ジョッキと刺身の小皿が運ばれてきた。
「はい、今日はオコゼ!」
ぷりぷりと弾けるオコゼの白身に、真っ青な皮を残したカボスとモミジオロシの朱が鮮やかに添えられていた。
「月並みだけど、まっ、乾杯しましょう」と言って、平林哲がジョッキを取り上げたので、私はそれに応じた。
「芦野さん、それでどうしたんです?今日?いま住んどんの、やっぱし横浜でしょ?」
「いや、赤羽だ、東京だ」
「赤羽っちゅうと・・・たしか、王子のほうの・・・?」
「おお、そうだ。東京の北区だ。赤羽台団地いうて、昭和三十年代の半ばにできた、都内の一番古いマ ンモス団地に住んどる」
「そうですか。てっきり、まだ横浜かと思うとりました」
「赤羽台の団地が好きでのォ~、俺たちの子供時代、昭和三十年代の雰囲気が残っとってのォ~、一枝の八幡製鉄の社宅の星型の建物、スターハウスちゅうんやったか?あんなんも残っとってのォ~、何か知らんが、俺には落ち着くとこなんよ」
「そうですか、一枝の製鉄の社宅ですか。なんか、懐かしゅうなりますねェ~、いっぺん行ってみとうなりますねェ~、赤羽」
「ああ、いつでも来いよ。都内で唯一の造り酒屋もあってのォ~、小山酒造ちゅうんやけどのォ~ここの丸眞正宗、これが旨うてのォ~」
「そうですか、造り酒屋ですか、ええですねえェ~、そんで、今回は戸畑の祇園祭にあわせて帰ってきたんですか」
「ああ、提灯山を女房と娘に見せよう思うて、この時期に合わせて帰ってきた」
「そうですか、それはいいですねェ~。それは喜んだでしょう、奥さんと娘さん」
「喜んだというか、びっくりしとった。あんな祭り、関東にはないからなあァ~」
「そうでしょうねえ。芦野さんもなつかしかったでしょう、久し振りに提灯山を見て」
「ああ、正直に言って、参った。思わずこみあげてきてしもうた。うん、不覚にも泣いてしもうた。いやあ~、参った、あんなに参らされるとは思わんやった」
久し振りに故郷の祭りを前にして、子供時代の勇躍歓喜・熱狂への郷愁か、それとも、偶然見かけた浴衣姿の若い女に淑子の姿を見たからか、その両方であることは確かなのだが、横に座る淑子の弟の哲には自分の内心を露わにすることはできなかった。
「そうですか、分かりますよ、その気持ち。俺みたいにずっとここにおるもんでも、あの提灯の紅い灯を見て、太鼓と鐘の音を聞くと、気分が高揚しますからね~ェ」
「そやのォ~、哲が担いだ山、『東』やったかのォ?」
「そうです。芦野さんは『中』やったですねェ~?」
「おいおい、止めてくれ、また、俺、こみ上げてきてしまうやないか」
事実、平林哲と話しながら、私の脳裏では、「東」「西」「天」「中」、四基の提灯のピラミッドが、「ヨイトサ!ヨイトサ!」の掛け声とともに、野太い太鼓の音を響かせて、こっちに危うく傾ぎながら通り過ぎていくのである。
「娘さん、何歳です?」の哲の声に、私の脳裏に描かれた四基の山笠は消えた。そして我に返った。
「えっ?」
「いや、芦野さんの娘さん、可愛いでしょうね、何歳ですか?」
「三歳だ。昨日が誕生日で、三歳になったばかりだ」
「そうですか、昨日が誕生日ですか、提灯山笠が誕生祝いですか、それはなによりですねェ」
「うん、そういうことになった」
「哲は?」
「はっ?俺ですか?」
「結婚はまだなんか?」
「ええ、まだです。まだっていうよりか・・・難しいですよ、俺たちには」
「難しいって、何が?」
哲の発言の意味を了解しておきながら、「難しいって、何が?」とたずねた己の不用意・軽率を、ちょっとだけではあるが恥じた。
「分かっとるじゃあないですか!知っとるじゃあないですか!芦野さん!それも、あんたが一番!
「うん?」とわざと怪訝を装うた。
「たしかにずいぶんと変わりはしましたけどね~、でも、まだまだ、根強い偏見、残っとりますよ」
「そうか」
「そうですよ、芦野さんたち、日本人には分からんでしょうけどね~ェ」
「う~ん!?」
「小学生のころ、苛められましたよ、ニキシバラ、おまえの母ちゃん・・・・・いうてですね」
「そうか!嫌なこと、思い出させてしもうたみたいで、すまん。許してくれ」
「いや、べつに謝ってくれんでもええですよ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「だから、この社会じゃあ、就職とか結婚ちゅうとき、はっきり言って何も変わっちゃあ~おりゃあせんです。さっきずいぶんと変わったといいましたけど、それは表面上のことであって、差別の本質は、何も変わっちゃあ~おりゃあ~せんです。俺たちが小学生のころ、あのときのまんまです!な~んも変わっちゃあ~おりゃあ~せんですよ」
「小学生のころ?あのときのままって?」
「ほら、小学校の校長が朝礼のとき言うたやないですか、俺、あの時4年生だから、芦野さんとか姉ちゃんたちは6年生やったときですよ」
「校長が?」
「ほら、芦野さんたちは忘れるんですよ。俺とか姉ちゃんとかは、あの屈辱を忘れることができんとですよ。もっとも淑子姉ちゃん、もういないから、正確に今の現状で言えば、俺は覚えとる、忘れないってことですけどね」
私は平林哲から責められているような心持になっていた。とくに、哲の姉、淑子の名が出てからは。
事実、淑子姉ちゃんもういないから、と言うとき、平林哲は、冷たく刺すような視線を私に向けた。
私は忘却を認めてはっきりと聞いた。
「どんなことやったかのオ~?朝礼のときの校長の発言っちゅうのは?」
「校長は、整列するために運動場を行進している5年生に言うたんですよ・・・こら!そこの5年!なんか!そん歩き方は!朝鮮人みたいな歩き方、するな!てれんぱれん、てれんぱれん歩いてからに!・・・って」
私は思い出していた。その発言を咎められて他校に飛ばされた校長がいたことを。校長のその発言を、
小学校の運動場に隣接して建つ私立病院の看護婦の一人が聞いていて、教育委員会に告発したのだった。
「結婚が難しいってこと、芦野さん!あんたが一番!分っとるじゃあないですか!」
「・・・・・・・・」
「いや、もう、止しましょう。こんな、被差別民の繰言みたいなこと言うのは」
私は返答に躊躇した。しかし、聞かないではおられない。何よりも気がかりなことである。
私は視線をカウンターの中の食器棚に向けたまま、ためらいの口調で言った。
「それで、姉ちゃんは?」
食器棚のガラス戸の中の平林哲と私の視線が合った。
「あのままですよ」
「あのままって?」
「芦野さんに会いに、東京に行ってそのままですよ」
*
「淑子!おまえ、なして、信州に行くんか?
「ずう~っと前、マコトが志賀高原から絵葉書を送ってきたやない。いっぺんに7枚も、日本アルプスの稜線の写真の、私ねえ、感動したんよ、遠くに真っ白い稜線が連なっとるところ、夏のもよかったけど、やっぱし冬の写真がよかった。九州じゃあ、絶対に見れんもんね、あんな景色。羨ましかったんよ、マコトは好きなとこ行けてええなあ、思うて」
「ああ、あれか、ホテルのフロントに備えてあった絵葉書や、覚えとる。フロントの人に頼んで、7種類全部貰うたんよ。そして、7枚全部、おまえに送ったんよ。
「うん、スカイブルーホテルって書いとった。私ねえ、あれからねえ、いっぺんでええからアルプスの山の稜線が連なっとるとこを実際に見たいなあ~、思いよったんよ」
「ふ~ん」
そして、淑子はマコトの目をしっかりと見据えて言った。
「本当は、・・・・・・・・」
「本当は、何や?」
「本当は、・・・・・・・マコトといっしょに見たかったけどね」
甲府行きの中央本線普通列車はゆっくりと走り始めた。私は、車窓の中の淑子の顔を見ながら、列車の動きに合わせてホームを歩いた。淑子は、窓ガラスに息を吹きかけた。そして、指の筆で書いた。
「すき」
その向こうに、淑子のにっこりと微笑む顔があった。唇が尖ってすぐに一直線になった。
「すき」
*
平林哲との故郷での邂逅以来、その「あのままですよ」という言葉が頭から離れない。同時に、提灯山笠競演会場で目にした浴衣姿の若い女の姿も脳髄の奥深くに浸透、沈潜していくばかりであり、さらに、その姿を「淑子の亡霊ではないか?」とさえ思い始めていた。そして、私の「信州行き」の思い募り、「一週間の出張」と家族を偽って、信州にやってきた。そして、「淑子はここに宿泊したにちがいない」とスカイブルーホテルを訪れた。
それが、なんという不覚。
「罪なくして囹圄に陥つ。人生の悲惨これより甚だしきはなし」
「罪なくして?」
あの日の新宿駅中央本線下りホーム、発車直前、本当はマコト見たかったけどね、淑子が言ったとき、それじゃあ今日は止せ、と言って言えぬことはなかった。次回俺と行こうとも言えた。その場で列車に飛び乗ることもできた。思い直して次の列車で追うこともできた。あの七枚の絵葉書に分けて書いた「た の し か っ た よ」の七文字。その七文字の背後の意味に気付かないほど淑子は鈍感ではない。恵まれた境遇に育つ男を恋人に、他人の辞色を窺がい生きる我に非ずの出生の不幸が、いつ壊れてもおかしくないほどに脆い鋭敏な神経を作り上げていた。再三の淑子からの便りに応じることなく、意図して置かれた疎遠の後の七文字は、淑子の繊細な神経を無残に切り刻んで押しつぶしたにちがいない。淑子の内心を探ろうとして探りえぬことはなかった。いや、その挙動、言動の端々が重大な決意を語っていた。その決意を知ろうとして知りえぬことはなかった。いや、知っていた。止まらせようとして止まらせえぬことはなかった。
淑子は、あふれ出る涙を拭おうともせず、車窓の向こうから私を見つめて、手首から先が千切れるのではないかと思わせるほどに激しく手を振って去っていった。
私は拱手傍観した。いや、それに止まらない。私は淑子の決意を道具に、その命を抹殺しようと目論んだのだ。結果の発生を認容しおぞましくも意欲さえしたのだ。
その心、私が淑子にもたらした非情の決意を凶器に変えて利用した。
私は、平林哲の言葉を思い出していた。
「差別の本質は何も変わっちゃあいません。あのときのままです」
私はそのころ、極めて保守的な校風を特色とする女子大への就職が内定しかかっていた。
*
辺りに人の気配はまったくない。聞こえてくるのは向こうの潅木の林で鳴くセミの声だけである。甲走ったその鳴き声が耳に痛い。気温は35度を優に超えている。太陽を覆い隠す一片の雲もない。太陽の凄まじいまでの熱エネルギーである。まるで、顔面はバーナーが噴射する炎に焼き焦がされるようである。
そのときである。山の天気は変わりやすい。薄い黒雲に空がかき曇ったかと思うと、黒が全天を覆いつくし、一閃の稲妻と雷鳴とともに大粒の雨が降り出した。
私は狂喜した。
「助かった!」
私は大きく口を開けて、その慈雨を受けとめた。たちまちにして口から溢れる雨水。ごくりと大きく飲みこんだ。
「うまい!」
口中に溜まる雨水を、三口、四口、五口・・・と体に取り入れた。本当に、なんと美味いことか!そして放尿して、激しい雨にそれを洗い流した。半時ほどで雨は止んだ。西の空に幾重にも重なって残る黒雲の間から、一条の日矢が降り注いでいた。猩猩緋の一直線である。涼しい風と遠雷のなか、決意した。
「生きてやる!」
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いつの間に上ってきたのか?目の前の鉄条網の一本に一匹のトカゲが止まっている。そのトカゲが、喉もとを柔らかく膨らませたり小さくしたりしながら、私の顔のほうに近づいてきた。それから、私の額の上にぽとりと落ちて、右目の上を這って鼻のてっぺんにとまった。私は全身系を鼻先から口元に集中させてトカゲが下るの待った。
「来た!」
私は頭からトカゲを仰向けにくわえ込んで、前歯でその柔らかい腹を押さえた。前足をばたつかせてもがき離れようとするトカゲの動きを上顎に感じた。そのまま噛んだ。食いちぎった。腹部から流れ出る粘液が舌を伝わった。
「苦い!臭い!」
私は一気に舌を丸め込んで、二つになってうごめくトカゲを口の奥にもっていき奥歯で噛み砕いた。
「苦い!青臭い!
舌に、硬質のざらざらした感触が残る。尻尾である。私は、その尻尾を前歯で固定して、口から出したその先っぽを唇の筋肉を使って操って、ミミズの動きを作った。その試みはすぐに成功した。獲物を求めて目白が一羽飛んできて目の前にとまった。ちょっとの間、止まり木の鉄条網で休み、せわしなく首から先を動かしてミミズもどきの動きを観察し、すぐに小さく羽ばたいて私の鼻先にとまった。そして、その嘴がミミズもどきをついばんだ瞬間、私は目白の頭をくわえ込んだ。バリバリバリと、骨の砕ける感触が伝わってきた。
「うっ!生臭い」
二本の足先を前歯にくわえて口先でうごめかせ、鳥を誘った。その日、日没までに八羽の鳥を食った。目白と雀のほかは何という小鳥なのか分らない。
狩猟の機会がすべて成功したわけではない。太った山鳩の来訪には狂喜した。
「栄養満点!タンパク質の塊!」
その山鳩は、私の口元でうごめく雀の足に誘われた。
鉄条網の繭玉の天辺にとまって私の口元を見下ろしてから、有刺鉄線の止まり木の階段を、一段一段
よほど腹を空かせていたのであろう、羽に棘を引っ掛けたり、鉄条網の足場を踏み外して慌てたり、忙しく、複雑に入り組んだ鉄条網の隙間を潜り抜けて下りてきた。
私は、口先の雀の足を、舌先をつかってゆっくり動かし操りながら、山鳩の動きに全神経を集中させ息を潜めて待ち構えた。
「食ってやる!」
私は、すぐ目の前に山鳩の温和な顔を見た瞬間、囮の雀の足を舌を使って口の中に引きこんだ。その動きに、山鳩は素早く反応して、その首から先をわたしの口中に突っ込んできて囮の動きを追った。
「よっし!今だ!」
しかし、山鳩の頭の位置が深すぎた。頭をくわえ込むと同時に激しくむせこんだ。
「ぐゥえ~っ!」
喉の奥が、すぐに激しい痛みに襲われた。
「痛い!」
山鳩は私の喉深くの粘膜に鋭い嘴を突き立てただけでなく、その柔らかい肉に嘴をえぐり込ませてきた。凄まじいまでの野生である。捕食の行動から一瞬にしての攻撃である。
「おい!感心している場合ではない!」
その山鳩は、向かってきたきたときとは逆の方向に、慌てて鉄条網隙間を後戻っていった。後戻りしながら、最も鉄条網が入り組んだ部分を退路に選んだために、羽の付け根に棘を突きたて突きたて、その度に羽を小さく羽ばたかせ抜け毛を散らばらせて、小さな頭の天辺と目元にも棘を突きたてて血を滲ませながら入り組んだ鉄条網の構造を潜り抜けて外界に達した。そして、大きく羽を広げて飛び立とうとしたとき、その羽がしぼんで地面に落ちた。落ちたまま、なお飛び立とうと羽を打ち震わせているとき、大きな影が上空から舞い下りてきた。鷲なのか鷹なのか、それとも鳶なのか、その猛禽類の足に吊るされてすぐ側の樹木の枝に運ばれた。鷲・・その大きさからして鷲である・・・の頭が杵のように繰り出されて嘴が
山鳩の体を突くたびに、その山鳩の顔は跳ね上がり私を向いた。すぐ側で烏と鳶が争った。満身創痍のままかそれとも既に死んでいるのか、いずれにしても絶体絶命のその山鳩は、鷲の足に吊るされて高原の山中深く姿を消した。
次の日は虫だった。私から昆虫をおびき寄せる物質あるいは臭いでもでているのか?様々な虫たちが、私に食べられるために飛んできた。セミ、バっタ、クワガタ、カマキリ、トンボ、小さなナナホシテントウムシも。私は、それらのすべてをおいしく頂いた。
「最大の美食は空腹である!」
夜には、乾いた羽音を響かせてカブトムシが飛んできた。食った。あの太い、硬い角を噛み砕いた。
コウモリも現れた。羽をくわえ込まれたコウモリはチイチイとか細く鳴いた。かまわず噛み砕いた。食道の奥に小骨が刺さるのを感じながら、ゆっくりと嚥下した。
口の中で、その細い足を舌でなぞってみたり、輪を作ってみたり、コウモリの進化を確認した。
コウモリは空中を飛びながら夥しい数の蚊を捕食する。その自在の飛翔のためには体を軽くしなければならない。だから足を細く進化させた。その結果、コウモリは針金のように細い足を獲得した。しかし、その細さゆえに、木の枝、崖上に立つことができない。だから逆さにぶら下がる。極細の足をピ~ンとのばして頭を下にして。しかし、「まずい!」「骨ばっかし!」コウモリの進化はコウモリからタンパ質を奪い去った。
「コウモリは二度と食わない」
便意を催した。かまわず垂れ流した。大きく放屁する。
「臭い!自分のクソでも臭い!」
「やはり臭い!己の屁が臭い!
しかし、健康な消化を確認した。
「お母さん!ありがとう!丈夫な体に生んでくれて!」
私は、子供のころ、冷蔵庫の中にあったバターを丸齧りして、母親に叱られた。
「この筋を見てみィ~!この家には、前歯に隙間があるとは、あんたしかおらん!」と、前歯で齧ったあとの残るバターの表面を差し出しながら言う母親に尻を叩かれた。
その前歯の隙間が、トカゲの尻尾、鳥の足を挟みこんで狩猟の仕掛けとなって働いた。
「お母さん、ありがとう!こんな前歯に生んでくれて!」
山の地形が作り出す、この高原に特有の気象であるのか?午後には必ず激しい雨が降った。私はその天然のシャワーで糞便を流した。かかる状況下でも勃起・夢精の男の性、カラカラに乾ききって針となって陰毛に張り付いた体液も溶かして洗い流した。同時に、可能な限りの雨水を体内に取り入れ、体のあちこちに散らばる傷口の化膿菌も洗い流して清潔を手に入れた。
夜は闇である。視力不要・無用の暗黒世界である。満天の星だけが、星座の識別を拒否して瞬いた。そんな中、下目使いの視界の先で、小さな青白いサーチライトの二点がこっちを向いて静止した。さらに小さな二点が幾つか重なりながら闇の中に消えていった。
「何!?日本狼の生き残り!?まさか!?狸?猪?うう~ん?」
気をも狂わせんばかりの静寂の中、低い上空で、乾いた羽音と鋭い鳴き声が漆黒空間をつんざいた。
「バサッ!ケェ~ン!コッ」
崖下のこの奈落に落ちて何日めかの明け方、東の空の低くにオリオン座を見止めてうつらうつらしていた私は、何かが地面うごめく気配に目を覚ました。一頭の猪が地面を引っかき掘り起こしていた。「猪!助かるかもしれない!」と、そのとき思った。
カラスが鉄条網にとまった。真っ黒のテカテカに黒光りするおでこを傾げたり、小さく「カァッ」と鳴いたり、鉄線の止まり木上を足踏みしたりしながら、だんだん位置を低くして私に近づいてくる。そして、とうとう鋭い嘴を私の顔に向けて繰り出してくるようになった。
「危ない!目を狙っている!」
「よし!食うしかない!
この信州のどこであったか?たしか上田?縁日の屋台のテントに死んだカラスが吊るされ、その下の炭火では串に巻かれたカラスのミンチ肉が焼かれ売られているという話を聞いたことがある。たしかその形から「ろうそく焼き」といった。
「だが、どうやってくわえ込むか!食らいつく前に目をやられる!」
カラスは群れとなって鉄条網の巣にとまるようになった。その黒に遮られて空も見えないほどである。隙間から射す日光がまぶしい。
いっせいにカラスの群れが飛び立った。
日中の大半をカラスの群れに取り囲まれて過ごしたある日、私の繭玉の側を一頭の猪が走りぬけ、そのあとを二匹のポインターが激しく吠えて追いたてた。
「助かった!」
崖の斜面を二匹の犬が駆け下りてきた。そして、私を囲んで激しく吠えたてた。黒の柴犬である。
「本当に助かった!」
猟銃を肩に担いだ男が、「何じゃあ?これ」と言って鉄条網越しに私を覗き込んだ。私は返答ができなかった。代わりに目を大きく見開き眼球を剥き上げて存在を訴えた。
「・・・・・・・・・・・・」
男は、私の目の動きに見入り、今度ははっきりと声に出してといかかけてきた。
「あんた、人間か?
私も声で応じた。
「そうだ」
「どうなさった?こんなところで、そんな格好で」
「崖から落ちた」
男は崖の斜面を見上げて言った。
「ははあ、柵が壊れて、鉄条網に巻かれて転げ落ちたな」
「そうです。助けてください!」
「よし」と一声発して、その猟師は、腰に提げた道具袋から大型のペンチを取り出した。そして、私の体を包んでいる鉄条網を切り始めた。独り言なのかそれとも私に語りかけているのか、何か不満を言いながら私の周りを回って手際よく金属を切断していった。
「だいたいからして、前の村長がこんなところにホテルを建てるのが間違っておる。採算が採れんことははなから分っておる。もったのは5年じゃあ、たったの5年で廃業じゃあ。まったく、村長が他人の意見も村会の決議も無視しよって首長権限やいうて判子ついてしもうて。裏で何があったかは分からんが自分は大豪邸を建てよって。腹のたつ!廃墟になって若いもんのたまり場になってしもそのまんま、危険だから取り壊そういうても資金不足でできん。裏の柵も杭が腐って危ないいうても、そのままじゃあ、そして、こんなことになる!責任はあの村長と取り巻き連中じゃあ。金のためなら何でもする!こんなことを言いながら、猟師は、私の体をがんじがらめにからめっとていた金属を切り刻んで取り去った。
」
そして言った。
「もう何年前になるか?・・・・・十年?十五年?いや、二十年近くなるかのォ~?おんなじ場所に若い女が倒れとった。綺麗な女でのォ~。ちょうど、あんたと同じ場所に倒れとった。綺麗な死に顔やった。うっとりしたで、俺は。また、おんなじ場所いうのも妙なもんじゃあ。どういうことじゃ?これ!」
猟師はまた「持っとったハンカチに よしこ いう刺繍があった」とも言った。
私は助かった。休暇の度にその場所を訪れている。新宿駅で甲府行き普通列車に乗って甲府駅で乗り換えて・・・・・・・・・・あの崖の斜面をゆっくりと下って・・・・・・・ふもとには白バラ、白菊、白百合・・・・・季節になると白い花を咲かせるありとあらゆる植物の種を蒔き苗を植えて白を伸ばし広げていく。
k牧場からS盆地に至る山道沿いの小高い丘の中腹に、スカイブルーホテルの建物は未だ無残な姿を曝して建っている。そして季節季節、その裏の斜面のふもとは白一色となる。
了