放心状態
清子をタクシーに乗せた後、雫は夕飯の買い物をしていた。今日はタクのために何を作ろうかな~?雫の表情はとても穏やかだった。
「今日は肉団子でも作ろうかな」
野菜もいっぱい入れたあんかけにしよう。雫は材料を次から次へと買い物カゴに入れた。
「ふぅ~意外と重い」
玉ねぎをネット入りで買ったり、食後のデザートにりんごを買ったり、特売していたボトルコーヒーを数本買ったり、結構な荷物になってしまった。雫は頑張って細い腕で荷物を運び帰り道を急ぐ。いつもの商店街を抜け、木原家まで後少し。雫は思い出していた。あの雨の日のことを。確か、この辺りで井上さんに声をかけられたんだよね。雫は少し足を止めて、辺りを警戒してキョロキョロ見回した。大丈夫、今日はいないわ。雫は安堵の表情で再び歩き出した。
無事にマンションについた雫は、荷物を抱えながら、エレベーターのボタンを押し、エレベーターが来るのを待っていた。念のため、ここでも警戒はしていた。もし、井上が乗り込んでこようとしたら、ちょっとぐらい蹴とばしてやったらいいわ。雫はそう考えていた。
1階についたエレベーターの扉が開き、見知らぬ住人が一人降りてきた。同じマンションに住んでいても、全く知らない人もいっぱいいる。けれど、同じマンションの人だ。雫は軽く会釈をしてエレベーターに乗り込み、7階のボタンを押した。ドアが閉まり、ゆっくりとエレベーターが上がりだす。
「ふぅ・・・」
エレベーターの隅で雫は少し目を閉じた。お母さん、大丈夫かな。駅の階段で転んだって言ってたけど・・・あんなに普段元気なお母さんなのに。雨の日でもないし。そんなことを考えていると、エレベーターが止まった。降りようと思って階数を見たら、まだ3階だった。3階から上に行く人もいるのね・・・なんて考えながら、ドアが開くのを見ていた。が、誰も待っていない。誰か間違って押したのかな・・・再び、ドアが閉まるのを見ていたら、人が飛び込んで来た。なんだ、やっぱり誰か乗る人がいたのか、と、その人の方を見て、雫は固まった。
「雫ちゃん、こんにちは」
飛び込んで乗ってきたのは井上だった。
「・・・どうして・・・」
「会いたかったんだよ!!!この間の続きがしたくてね」
そう言うと井上が雫に抱きついて来た。井上の重みでただでさえ重い荷物が雫の腕に食い込み、強烈な痛みを感じた。
「痛いっ・・・離してください・・・」
荷物で両手が思うように動かせないのをいいことに井上が雫の体を触りながら無理やりにキスをしてきた。
「・・・やっ・・め・・・」
体を離そうとしてもどうにも抵抗出来ない。井上の舌が雫の口の中に強引に入り込んでくる。早く逃げなきゃ・・・早く、エレベーター止まって・・・
エレベーターが7階についた。降りないと・・・降りて誰かに助けてもらわなきゃ・・・
「ごちそうさま。今日は唇だけにしておくよ」
そう言ってニヤリと笑った井上が、エレベーターを降り、階段の方へと消えて行った。放心状態になった雫は、荷物を腕に食い込ませたまま、エレベーターを降りた。
部屋に入った雫は、荷物を足元に置いてそのまま玄関先で座り込んでしまった。お母さんが一緒に帰れなくなった日にこんなことが起きるなんて。やっぱりずっと私のことを見ていたのだろうか。そう考えると改めて気持ち悪い思いがこみ上げてくる。
「タク・・・怖いよ・・・」
井上のむさぼるような唇の触感が蘇る。雫は慌てて洗面所に行き、顔を洗った。汚い、汚い、汚い!!!何もかも忘れてしまいたい・・・雫は洗面台に頭を突っ込み、頭ごと水で冷やした。
「痛・・・」
雫の両腕に、買い物袋が食い込んだ痕が深く残っていた。時間が経たないと消えないぐらい、赤く深い筋が入ってしまった。
「ご飯作らなきゃ・・・タクに変に思われる・・・」
雫は、井上に襲われたことを拓斗に話そうか悩んでいた。お母さんの怪我の話はもちろん話すが、この前の拓斗の反応からして、井上に唇を奪われたとかとてもじゃないけど言えない・・・と思ってしまっていた。あの日、井上のことを話してから、雫が拓斗に対して拒絶反応をしてしまったことを、雫自身も深く反省していた。けれど、あの日以来、どうしてもラブラブする気になれない自分がいるのだ。そのせいで、拓斗を傷つけ、どこか関係がギクシャクしてしまっているのもわかっていた。だから尚更、今回のことは言えないと感じてしまう雫なのだった。
「よしっ・・・」
雫は深呼吸をした。井上のことは、拓斗には話さない。お母さんの怪我の件以外は、何もなかったことにする。いつも通り、いつも通りの私でいなきゃ。お母さんにも余計な心配はかけずに、早く足を治してもらおう。タクに話すと、お母さんにもすぐ知れて、きっと痛い足を無理して私のことを守ってくれようとするに決まってる。お母さんがマスターに話せば、今以上にマスターにも迷惑がかかってしまうかも知れない。これ以上みんなに迷惑はかけられない。私さえ、もっと強くなれば・・・。こうして、雫は井上から逃げる方法を一人で考えようとしていたのだった。




