駅の階段で
しばらくは、清子が朝に木原家に迎えに来て、雫を喫茶店に送り届けた後、自分も仕事先に向かい、雫が帰る頃にまた喫茶店まで迎えに来て一緒に買い物に行き、木原家に送り届けるという日々が続いていた。
喫茶店では、マスターが雫を守っていてくれているので、あれ以来井上の姿を見ることもなかった。
この日は、雫が仕事を終えるまで少し時間があるので、清子は2つ離れた駅まで電車に乗り、デパートで買い物をしてから迎えに行こうと考えていた。
デパートには、雫が好きだと言っていた洋菓子が売っている。最近ずっと元気がなかった雫のために、少し足を伸ばして買いに行ってあげようと清子は考えていたのだ。
無事に買い物を済ませ、清子が喫茶店と木原家のある最寄り駅まで戻ってきた。
「雫ちゃん、喜んでくれるかな」
雫の笑った顔を思い浮かべながら、清子は駅のホームから改札に向かうため、階段を下りていた。
「・・・ん?」
前を歩く、黒い服を着た男がなんとなく井上に見える。
「気のせいか」
ずっと警戒してきたから、過敏になっているのかも知れない。まぁ、大丈夫や。私の前に井上が現れたとしても、まだまだ私は負けへんで!
そんなことを思いながら、階段を下りていた清子だった。
「・・・!」
足を踏み込んだ階段が、突然ヌルッとした感覚に陥って、清子は足を滑らせてしまった。あと5段ほどのところで、ずりずりずりっとそのまま下まで行ってしまったのだ。
「大丈夫ですか???」
後ろから来た学生の子が声をかけてくれた。
「なんか足が滑って・・・すいません、大丈夫です」
そう言って清子は立ち上がろうとしたが、背中と右足首に激痛が走った。
「・・・いたっ・・・」
「どうぞ掴まってください」
若い男の子だったが、とても親切に肩を貸してくれた。
「おおきに」
清子はその学生に掴まってやっと立ち上がることが出来た。背中は階段をずり落ちたので、擦りむいた程度だったが、右足首が半端なく痛い。
「すいませんね・・・後は片足でなんとか歩きますんで。お世話かけました」
「歩けますか・・・?」
心配そうに見ている大学生の前で清子は頑張って片足で歩こうとした。
「・・ああっ」
よろけそうになり、また大学生に掴まってしまう。こんなことじゃあかん・・・。しっかりせな!そう思う清子だったが、足首を捻挫しているらしく、力が入らない。片足でケンケンして歩くにも、元気がなかった。
「すぐそこに、病院あるから、そこまでなら連れてって行けるよ」
親切な学生はそう言って、また肩を貸してくれた。
「すいません・・・そうさせてもらいます」
そうして、清子は大学生と共に、一番近くの病院へと向かった。そんな清子の姿を、少し離れたところから井上が見ていた。清子の前の方を歩き、階段に撒いた、洗剤を混ぜた水でうまく転んでくれた。
病院へ着くと、清子は大学生にお礼を言い、デパートで買ったばかりの洋菓子の箱の一つを学生に渡した。木原家と自分用に2箱買っておいたのだ。そんなつもりじゃないです、と学生は断ったが、清子が『本当に助かったから』と伝えると、学生はお菓子を受け取ってくれたのだった。
病院は混んでいて、呼ばれるまでに時間がかかりそうだ。清子は喫茶店に電話をかけた。
「はい。オアシス珈琲です」
これは雫ちゃんの声や。清子にはわかる。
「雫ちゃん、オカンや」
「あらっお母さん、どうしたの?」
「すまん・・・さっき、転んでしまって足捻挫してしもたかもやねん。今、病院におる」
「ええっ!?大丈夫ですか??すぐそっちに向かいます。駅前のとこですか?」
「ああっ、大したことないから来なくていいねん。そうじゃなく、お迎えに行けそうにないから電話したんや」
「ああ・・・すいません・・・私は大丈夫です。あと少しで仕事終わるので、病院に向かいますね。きっと、お母さんの診察が終わるよりも私の方が早いでしょ」
「すまんなぁ、今日だけそうしてもらおうかな。ほな、後で来てな」
「はい。お大事に。もし、診察が済んでも少し待ってて下さいね」
そう言って電話を切ると、マスターが心配そうに聞いてくる。
「お母さん、どうかしたの?」
「ちょっと転んで足を捻挫したようで、今病院にいるそうです」
「急いで行かなくても大丈夫?今日はもういいよ?あと5分ほどのことだし」
「ありがとうございます。じゃあ今日はこれで失礼します」
常連客の井上も最近はいないので、喫茶店も客がまばらにいるぐらいでマスター一人でも大丈夫そうだった。雫はマスターにペコリと頭を下げ、帰り支度を始めた。
「お母さん!」
病院に入ると、ちょうど診察を終えた清子が出て来たところだった。足に包帯を巻いて松葉杖をついて歩いてくる。
「だ、大丈夫ですか・・・」
「大丈夫や。もう年やな~。普通の捻挫よりちょっと重症らしいわ。全治1か月やて。」
「どこで転んだんですか」
「駅の階段下りよったら足が滑ったんや。もうなんやかんやでオババやわ」
「気を付けて下さいよ~」
会計を済ませ、病院を出る雫と清子。
「お母さん、今日は私が送って行くので家でゆっくりして下さい」
「送らんでいいよ。ここからタクシーで帰るから気にせんと」
「そうですか」
「ほんまやったら雫ちゃんを送ってあげなあかんねんけど、今日だけは堪忍な」
「私は大丈夫です。しばらく、ゆっくりしてて下さい」
もうあれ以来、井上の姿も見かけることもない。もうきっと諦めたに違いない。雫は一応、周りを警戒しつつ、タクシーに清子を乗せ、自分は買い物してから帰ることにした。




