マドンナ
拓斗の会社の前まで来た井上は、玄関口の横の大きな木の下に立ち、人を待っている素振りで待機していた。昼休みを過ぎ、ぞろぞろと会社から出てきた社員の中に、拓斗の姿があったのかもわからない状況だったが、また戻ってくる時に何かヒントになるようなことがあるかも知れない。そう思って井上はその場所から動かなかった。
そして、慌てて雫の作ったお弁当を食べた拓斗が、川崎さんと2人で会社を出て来た。井上は、ちらっと拓斗たちを見たが、楽しそうな様子から、ただの社内カップルか・・・と気にも留めなかった。その時、
「木原~!!!」
と、誰かの声がした。井上の顔に緊張が走る。今、木原って呼んだよな・・・?腕時計を見て人を待つふりをしながら、拓斗たちの方をちらりと見る。
「ああ、なんだ?阿部」
ただのカップルだと思った方の男が口を開いた。と、いうことはあいつが木原拓斗なのか?
「急いで弁当食ってどこ行くんだよ?ちょっと一緒に考えて欲しい企画があったんだけど」
「そうかぁ・・・後で戻ったら見るわ」
「どこ行くんだ?」
「木原君はね、これから私とデートなの!邪魔邪魔~、しっしっ!」
「もう~先輩、そんな言い方したら誤解されますって」
かなりテンションが上がっているのか大きな声だ。耳を澄まさなくても井上のところまで聞こえてくる。ふうん・・・先輩ね・・・井上は川崎さんの顔を確認した。なかなかの美人だな。
「木原ずるいな~お前、奥さん美人なのに、社内のマドンナの川崎さんまで持ってっちゃうのかよ」
「だから~そんなんじゃないって!」
拓斗の弁解も空しく、川崎さんが拓斗の腕に自分の腕を絡める。
「とにかく~時間なくなるからっ!デートに出発~!」
川崎さんが拓斗の腕を引っ張るようにしてその場を立ち去る。
「なんだよ~うらやましいな~」
残された阿部という男は独り言をつぶやいて会社の中へと戻って行った。
「あいつが・・・」
木原拓斗の顔は確かめることが出来た。今度から大勢の中で見てももう迷うことはない。そうか、あの男が雫の旦那なのか。雫は僕が抱きしめると嫌がるのに、あいつなら許すわけか。
「さて、どうするかな・・・」
さすがにあの2人を追っかけて行くと怪しまれる。今日は顔の確認だけにしておくか。社内のマドンナと言われていた川崎とかいう女をなんとか使えないだろうか・・・。
井上は拓斗たちが戻ってくる前に、ここを離れることにした。もう木原拓斗の顔の確認は出来たし、これ以上いると逆に拓斗たちに顔を知られてしまうことになる。
今朝の出来事を、今夜きっと木原拓斗は知ることになるだろう。そうすると、もう目立つような張り込みなどは一切出来なくなる。井上は一度自宅に戻ることにした。
「ふぅ~!美味しかった!雫ちゃんのごはん美味しいなぁ~」
「ありがとうございます。お母さんに教えてもらったんですよ」
「あの頃よりももっと上手になってるやんか。拓斗は幸せ者やわ」
「タクもそう思ってくれてると思ってます」
雫と清子は2人でキッチンに立って、昼食の後片付けをしていた。
「買い物、一緒に行こか」
「そうですね」
今朝、突然井上がドアの前にいて、そのまま襲われそうになったばっかりだ。まだ、その辺にいるかも知れない。清子は、しばらくの間は雫を一人にしないように気をつけるつもりだった。
自宅に戻った井上は、今まで隠しカメラで撮影してきた雫の動画をぼんやりと眺めていた。この数か月、雫が働いている日は必ず店に入って、窓際の奥の席に座っていた。そこが、落ち着いて仕事が出来るという設定だったが、本当はそこが一番雫を映しやすいからだった。同じ制服で、同じように髪を束ねている雫だったが、日によって化粧の感じが少し違ったり、立っている姿勢が少し違ったり、寝不足の様子だったり、いいことがあったのか嬉しそうだったり・・・本当にいろんな顔を見せてくれていた。井上は、改めて今朝のことを反省していた。雫をどうにかしたいと必死になってしまったから、早まってしまったけど、もっと落ち着いて接近した方が良かったのかも知れない。でも、もう今更反省してもどうにもならない。こうなったら別の方法で行くしかないのだ。
井上はもう一度、夜の18時ぐらいに拓斗の会社近くで待機しようと考えていた。あのマドンナ、川崎という女に接触し、反応を見てから作戦を実行するか決めよう。
「こうやって一緒に買い物するんも久しぶりやな」
「そうですね」
雫と清子はスーパーに買い物に来ていた。2人揃って買い物に出るのは、拓斗に内緒で料理を作っていたあの頃以来だった。
「今日はサバが安いみたいですね」
「ほな、味噌煮でもしよか」
「はい。しばらくしてないので食べたいです」
今夜のメインはサバの煮込み、野菜たっぷり春雨サラダ、えのきとあおさのお味噌汁に決まった。どれも拓斗の大好きなおかずだ。雫は、清子と一緒に料理を作れることをとても楽しみにしていた。




