企み
「しくじったな・・・」
雫のマンションを飛び出した井上は、自宅に戻って一人考えごとをしていた。あの喫茶店で初めて雫を見て以来、雫のことを気に入ってしまい、なんとか自分のモノに出来ないかと、ずっと策を練ってきたのだ。
最初は、雫が人妻だと知らなかった。てっきりその辺の大学生の子かと思っていた。だから、ライターのふりをして近付く機会を探っていた。ライターの仕事をしていると言えば、マスコミや芸能界に興味ある女の子なら少しでも食いついてくると思っていた。実際は、会社をクビになり、仕事もしてない状況だったから、無理なくなりすまし出来るとすればこの職業が一番やりやすかったからだ。毎朝、喫茶店を覗いては、雫の姿を確認すれば中に入る、という繰り返しだった。『ここの店が落ち着いて仕事を出来る場所という設定』でずっと、書き物をしているフリをしていた。本当は、誰もパソコンの画面を覗かないのをいいことに、雫に関するデータ収集を行っていたのだ。
近所の野良猫が仔猫を産んだ時、その中の1匹を無理やり捕まえて、喫茶店の前にいたかのように見せかけて、助けを求めに店に入ったのも、作戦だった。下見を重ねていたので、マスターの家に犬がいることも知っていた。他の常連客の中にも猫を飼えそうな人はまずいないと睨んでいた。そうすると、可哀想な仔猫を雫が放っておくわけがない。そこから、仔猫を理由に雫と一気に近付く予定だったのだ。だが、そこで雫が結婚していることを知った。恋人ならともかく、結婚となれば、よっぽどの浮気女でない限り、なかなかこちらに振り向かせることが難しい。現に雫は、井上との距離を縮めることなど全くなかった。気があるような素振りもなく、ただ、笑顔を向けて井上にランチやコーヒーを運ぶ日々だった。そんな関係がもどかしくなってきた井上は、仔猫に必要な用品を買ってあげるから、と強引に雫を連れ出し、一緒に買い物をすることに成功したのだった。少しぐらい、強引に行っても大丈夫かも知れない。いつしかそう考えるようになっていた。
仔猫の名前を考えて欲しいと雫に頼まれた時には、正直嬉しかった。やっと、自分を認められているような気になり、素直に名前の候補の紙を見て喜ぶ雫の顔を見ていると、だんだん付き合っている気分になってきた。雫も僕を頼りにしてくれている。僕を求めている。僕たちは、言葉でこそ愛を確かめ合えないが、きっと気持ちは通じ合っている。井上はそんな風に考えるようになった。
今までは、喫茶店でパソコンを開いていると、雫は静かに邪魔をしないように気遣ってくれてるのがわかっていた。しかし、買い物に連れ出してから、少しずつ雫に変化が現れたのだ。視線をあまり合わせない、少し避けられている・・・?そんな気がして井上は不安になった。あの雨の日も、雫は井上の方を見ずにぼんやりと窓を見ていた。話しかけても聞こえないのか、自分の方を向かない雫に、井上はだんだん苛立ちを感じたのだった。その苛立ちが、”雫に触れたい”という気持ちを激しく駆り立ててしまい、雫の手首をいきなり掴むという行動に表れたのだった。雫の細い手首を掴むと井上は異様に興奮するのだ。このまま、雫が何でも自分の言うことを聞くような錯覚に陥るようだ。
あの雨の日に、商店街まで雫を追いかけて行ったのも賭けだった。いつもより1時間早く仕事を上がると言った雫に、井上は正直びっくりした。いつも、自分の食事が終わる頃を見計らってコーヒーを運んで来てくれるのは雫なのに、マスターにお願いしたと言うのだ。雫のいつもとは違う行動に無性に苛立ちを感じた井上は、ランチを食べ残し、コーヒーも断って店を出たのだった。そのまま雫の姿を探すように雫が消えた方向を彷徨った。すると、雫が本屋から出て来るのが見えたのだ。そこからは偶然を装うように雫に話しかけ、一緒の方向へ帰ることで雫の家を探ろうとしたのだが、雫に逃げられてしまった。しかし、身を潜めて待っていれば必ず雫はこの道を戻ってくる、そう信じて待ったおかげで、雫のマンションを突き止めることが出来た。あと少し、あと少しで雫が自分のモノになる。井上はそう感じていた。
さっきは、自分を抑えられなくて行き過ぎた行動に出てしまった。いつものように雫の細い腕を掴んだが、周りに人がいないことで大胆になってしまったようだ。喫茶店を覗いたら雫の姿がないので、今日は休みなんだな、とマンションまで来たものの、『ミィを見たい』という口実でも、いきなり訪問するわけにもいかないし、どうすればいいのか・・・と7階の通路を行ったり来たりしている時に、思いがけず雫の方から顔を出したのだ。これはチャンスだ。そう思ったから少し強引に行動したのだが、来客があるとは計算違いだった。しかもあの人は旦那さんの母親だ。一度喫茶店で見たから覚えている。もしかしたら向こうも僕の顔を覚えているかも知れない。あれが母親じゃなければあのまま雫を押し倒せていたかも知れないのに。
「ふうぅ―――――――――――・・・・っ」
井上は深くため息をついた。もう、喫茶店には行けない。あの状況の後で、普通に接することなど出来ないだろう。いくら『つい出来心で』と言い訳しても、気持ち悪がられるだけだろう。だからと言って雫のことを諦めるつもりもなかった。ここは、新たな手段を考えるか・・・井上はタバコに火をつけて、深く吸い込み、目を閉じた。




