名前の候補
我が家にやってきた、迷子の仔猫にはまだ名前がなかった。だから、俺も雫もその時の気分で「猫ちゃん」と呼んだり、「ミーコ」や「黒ちゃん」とか呼んでみたりしていた。早く名前を付けてあげないと、いろんな呼び名で呼ばれて頭が混乱してしまうんじゃないかと、ちょっと心配してしまう。
「俺は思い付かんから雫なんか名前考えといてな」
「わかった。一応タクも考えてみてね」
「おう。ほな、いってくるわ」
「いってらっしゃい」
今日もいつもと変わらない1日のスタートだった。
「いらっしゃいませ。あ、井上さん、おはようございます」
今日も喫茶店の開店時間とほぼ同時にライターの井上さんがやってきた。
「おはよう。いつもの感じでお願い」
「はい、かしこまりました」
しばらくして、いつものモーニングセットを井上さんの座るテーブルに運んだ雫は思い切って話しかけてみた。
「あの、井上さん・・・」
「なんだい?」
「実は、あの黒い仔猫なんですけど」
「あの子に何かあったの?」
井上さんが驚いたような顔を雫に向けた。
「いえ、そうじゃなくて・・・名前が決まらないんです。いいのが思いつかなくて」
「なんだ、心配しちゃったよ。そうか、名前か・・・」
「ありきたりなミィとかミーコとかクロとかそういうのじゃないのがいいんです」
「・・・その話の流れから、僕に名付けて欲しいと考えてたりする?」
井上さんが雫の顔を見る。
「少しヒントをいただけたら、と思いまして」
「そっか、わかった。雫ちゃんが帰る頃までに何か思いついたら言うよ」
「ありがとうございます。失礼します」
雫は、頭を下げて井上さんの席から離れる。良かった。ライターの井上さんなら何か素敵な名前を考えてくれそう。
そして、雫の仕事時間が終わりに近づいた頃、
「雫ちゃん、ちょっと」
と、井上さんに呼ばれたのだった。何か仔猫の名前の候補が思い付いたのかな。雫は、井上さんの元へ行った。
「似合うかどうかわからないけど・・・」
と、1枚のメモを雫に渡してきた。
ミネット(Minette) フランス語で「子猫、猫ちゃん」
シピ(Chipie) フランス語で「わがまま娘・小悪魔」
ノワール(noir) フランス語で「黒」
シュヴァルツ(Schwarz) ドイツ語で「黒」
ネーロ(nero) イタリア語で「黒」
「なんとなく、クロとかミーコよりお洒落な感じがするかと思って考えてみたけど、どうだろう」
井上さんが言うと、なんか説得力があるなぁ、と雫は感じたのだった。
「そうですね。上品な響きがします。ありがとうございます。帰ってタクと相談してみます」
「タク?」
「あ、主人です」
雫の言葉に、井上さんの口があんぐりと開いた。
「えっ?雫ちゃん、結婚してるの?若いのに」
「はい。・・・えっと、結婚してますが・・・なにか?」
「ああ、そうなんだ。まだ二十歳そこそこでしょ?ちょっとビックリしただけだよ」
「そうですか。・・・名前、決まったらまた井上さんに報告しますね」
「うん、そうして。楽しみにしてるよ」
その夜、仕事から帰ってきた拓斗に、雫は、仔猫を連れてきた常連客がライターの仕事をしていて、名付けのヒントをもらったことを話した。
「へぇ~フランス語とかドイツ語とか、おっしゃれやな~」
「でしょ。この子に似合いそうな名前あるかしら」
「ミネット・・・ミネときたら俺には不二子ちゃんしか思いつかん」
「もう、何言ってるのよ」
タクと雫の会話はいつもこんな感じだった。
「よし、こうなったら猫ちゃん本人、本猫?に決めてもらおか」
「どうやって」
「ベタな方法や。呼んで振り向いた名前に決定や」
「うまくいくかしら」
とりあえず、拓斗がソファの上のカゴでくつろいでいる仔猫に向かって呼びかけてみる。
「ミネット!」
『・・・・』
「シピ!」
少し尻尾を動かしたが、
『・・・』
「ノワール!」
『・・・』
「シュバ・・・シュバルツ?ちゃう、シュヴァルツか、これ俺が言えへん」
「あはは」
『・・・』
「ネーロ!もう遅いからねーろ!とか言ってしまいそうや・・・」
『・・・』
「タクったら・・・」
どの名前を呼んでみても、あんまり反応しない仔猫だった。
「お洒落過ぎてダメなのかしら。やっぱりミィとか・・・」
『ミィ』
「え?」
「ミィって呼んだら鳴いたぞ!?」
『・・・ミィ』
仔猫がソファから降りて拓斗と雫の元へやってくる。
「おまえ、ミィか?」
『ミィ』
他の名前で反応しなかった仔猫が「ミィ」と呼ばれると反応したのだった。
「雫、どうする?もうベタなこの名前でええんちゃうか」
「そうね。せっかく井上さんに考えてもらったけど・・・」
「考えてもらっても、決めるのは俺ら、飼うのも俺らや。な、ミィ!」
『ミィ』
こうして、仔猫の名前はミィに決定したのだった。




