迷子の仔猫
雫の働く喫茶店は、だいたいが常連客ばかりだった。主にタクシーの運転手などが多かったのだが、ここ数か月、ほとんど毎日姿を見る客が一人いた。
その客は、多分30代だと思われるが、いつもノートパソコンを持参し、店の隅の窓際の席でゆっくりとした時間を過ごしている。
朝の開店時間にやってきて、モーニングセットを食べながら、パソコンで何やらしている。そして、昼を過ぎてランチタイムが終了間際になる頃に、ランチセットを頼んで、そこからまた数時間いるのだ。よく、毎日それだけ長い時間同じ場所に居れるなぁ・・・と感心した雫が一度尋ねたことがあった。
「お仕事ですか」
モーニングセットを運んで行き、話しかけながらパソコンの方に目をやった。
「ええ、ライターの仕事をしているもので」
それ以上は雫もその人と話すことはなかった。きっと、ゆったりとした店内で落ち着いて仕事がしたいのだろう、と邪魔をするようなことをしてはいけないと思ったからだった。
雫が店にいる日は必ずこの客も来るので、今では、何も注文しなくても朝にはモーニングセット、昼の遅い時間にランチセットを出すようになった。食後は決まってホットコーヒーで、コーヒーフレッシュじゃなくてミルクがいいということもわかっていた。静かにキーボードを打ち続けるその人の姿を見て雫はこれが『いつもの光景』のように感じるのだった。
ある雨の朝。店の開店時間になっても、いつものライターさんが現れない。めずらしく、来ない日なのか、それとも体調悪くされてたり・・・?雫は少し気になっていた。そして、20分ほど経った頃に、喫茶店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ。今日は少し遅かったんですね・・・あら?」
ライターさんが腕の中に何かを抱えている。
「あの・・・店の前に仔猫がいたんだよ。雨で濡れてかわいそうだから連れて入っちゃった」
見れば、黒い小さな仔猫がびしょ濡れで寒そうにしている。
「ああ、大変。マスター、ちょっとだけいいですか」
「迷子かな。タオルで拭いておやり」
マスターの許可が出たので、雫がライターさんから仔猫を受け取り、タオルでくるんで濡れた体を拭いてあげた。
「あ、ライターさんも猫ちゃん抱いてたから胸元が濡れてしまってますね」
と、タオルを差し出す。
「ライターさんって」
「あっ、すいません。お名前知らなくて、以前ライターのお仕事されてるとお聞きしたので」
「僕は、井上邦彦といいます。よろしく」
「あ、はい。木原雫です。よろしくお願いします」
「ミルク飲むかしら」
「あ、普通のミルクはダメですよ。仔猫用のじゃないと。僕、ちょっと買ってきます。もう店も開いてるでしょ」
「すいません、お願いします」
井上さんが慌てて店を出て行く。その間も雫は仔猫をタオルで包んであっためながら拭いていた。
「おまたせ」
近くのドラッグストアで仔猫用のミルクを買ってきてくれた井上さんが戻ってきた。
「自分で飲めるかしら・・・」
小さい器に仔猫用ミルクを少量入れて仔猫の前に置いてみる。
タオルで拭いてもらって乾いた仔猫は、器の前にヨチヨチと寄ってきて、ピチャピチャとミルクを飲み始めた。
「よかった・・・」
冷たい雨に打たれ続けて少し元気がなかったようなのだが、もう大丈夫だろう。
「この子、これからどうする?僕はちょっと連れて帰れないんだ」
井上さんが雫に尋ねる。元気になったといってもまだ仔猫だ。また外に放り出すわけにもいかない。
「あの、マスターは・・・?」
マスターに引き取ってもらえないかと思ったのだが
「私のところには犬がいますもんで・・・ちょっと無理ですね」
と、断られてしまった。その後、店に訪れた常連客たちにも聞いてみたが、誰も猫は飼えないと言われてしまい、とうとう雫が帰る時間になってしまった。
うちのマンションならペットも飼えるし、連れて帰ってもいいけど、タクがどう言うかな。雫は拓斗にメールを送ろうと思ったが、今日は確か夕方から取引先で大事な打ち合わせがあるとか言ってたし・・・とりあえず、連れて帰ってタクが嫌がったら明日にでも引き取ってもらえる人探そう。
「あの、私がこの子連れて帰りますね」
「ありがとう!君なら安心だよ」
井上さんもホッとした表情を見せる。
幸い、まだ仔猫なのでそんなに動き回ることもなさそうだ。雫は浅めのカゴにふんわりとしたタオルを敷いて仔猫をそっと乗せた。タオルの柔らかさに安心したのか、仔猫はすぐにその場に落ち着いた。井上さんが買ってくれたミルクも一緒に持って帰ってきたので、少しずつ、時々飲ませて様子を見ていた。タクが許してくれたらこの子を明日獣医さんで一度診てもらおう。どこも悪いとこなければいいけど・・・
「ただいま」
仕事を終えた拓斗が帰ってきた。
「おかえり、タク」
玄関へ駆け寄る雫。先に拓斗に仔猫の話をしなければ・・・と思った時だった。
『ミィ・・・ミィ・・・』
「ん?ミィ?わっ!!!」
リビングに入ってきた拓斗がソファの上のカゴに入った仔猫に気が付いた。
「猫や!どないしたん!?」
「あのね、実は・・・」
雫は、いつも来る客が雨に打たれた仔猫を連れて来たこと、雨の中、外に放り出すことが出来なかったこと、誰も他に引き取ってくれる人がいなかったことなどを拓斗に話した。
「そっかぁ、わかった」
「え?」
「名前、何にしよか」
「飼ってもいいの?」
「他に行くとこないんやろ?一緒に面倒みよな」
「ありがとう、タク」
『ミィ・・・』
「ん?名前はミィか。なんや、ベタやな」
「あはは、ただ鳴いてるだけじゃないの」
「まぁ、名前は急いで決めなくてもそのうちピンと来るのが浮かぶやろ」
「そうね」
こうして、迷子の仔猫は木原家の一員となったのだった。




