蠢く、闇
王国宰相のエム・オットー。
正しくはエム=エヌ・オットーと言う。
真ん中のエヌは称号名ではない。立場が立場なので、同姓同名を避けるためのものだ。
ここ大陸には隠し名という文化があり、二文字ないし三文字の名前が多い。かつ、魔法のスペルと似た音、読みを避けることから、ひんぱんに名前の重複が起こる。
そこで、歴史の教科書に載ってもおかしくない立場の人間は、名前の後ろにもう一つ名前をくっつけられることがあった。
宰相がそこの部分を省略したのは、明日を見据える子狸さんの負担になりたくないという思いから来ている。
宰相は邪魔な椅子を横にずらすと、机に身を乗り出すようにして囁いた。抑揚が利いた、専門的な訓練を受けたもの特有の話し方だった。
宰相「あってはならないのだよ。勇者に、友達が居ないなどということは」
子狸「うっ……!」
子狸さんがぎくりとした。
子狸「そ、そんなことは」
宰相「もちろん」
友達が居ない勇者さんをとっさに庇おうとした子狸さんを、宰相は言葉で制した。じっと子狸さんの仕草を観察しながら、身振りを交えて話を続ける。
宰相「私は、彼女の立場を理解しているつもりだ。貴族、まして大貴族の生まれと来れば、敬遠されるのもわかる」
子狸「…………」
子狸さんの頭の中で、バッターボックスに立った勇者さんが四球を選んで塁に出た。そして、それはそう的外れでもなかった。決勝点のランナーがそうであるように、事は重大だ。
勇者がっ、救国の英雄がだ……体育の時間に二人一組を作れと言われて、孤立しないよう策略をめぐらして子狸さんに世間話を持ち掛け、なし崩しでそのまま組むよう仕向けるなどあってはならないのだ。
宰相は、杖を机に立てかけると身を起こし、窓の手前まで歩いていく。
宰相「私は、それでも信じて待とうと思った。……しかし物事には限度というものがある」
若かりし頃に痛めたひざは、ほぼ完治している。ふだん杖をついているのは、いざというとき全力疾走できるよう、ひざの負担を和らげるためだ。一刻、一秒を争う事態というのは、ある。宰相の政治理念は「速さ」だ。速さを欠いた国に未来はない。
中庭でどったんばったんしている小さな王種を見下ろす宰相の目には、余人には計り知れない深い苦悩があった。
宰相「友情には様々な形がある。人それぞれでいい。きっかけ、出会いなど些細な問題だ……そうは思わないかね?」
振り返った宰相の目には、確かな信念が宿っていた。
子狸「あなたは、何を……」
子狸さんは目に見えて動揺している。困惑、おびえ、後ろめたさ、様々な感情な入り乱れ、心が定まらない。
それでも子狸さんは、勇者さんのために怒らねばならない気がした。
子狸「いったい何をしようとしているんだ……!」
勇者さんには勇者さんなりのペースというものがある筈だ。
なるほど、学校では浮いているかもしれない。しかし殿下さんが視察に訪れたおり、飼育係さんを投下した子狸さんは確かな手応えを感じていた。
上司、部下という関係からスタートしてしまったからちぐはぐになってしまったが、あの二人の間には互いを尊重する気持ちがある。焦ることはない。少しずつでいい、歩み寄って行けば、いつかはきっと……。
それなのに、どうして待ってあげないんだ……悔しくて声がふるえた。まなじりに涙すら浮かべて、子狸さんは懇願した。
子狸「ドドリゲス……!」
悲しみの余り、言葉にならない思いがあふれた。
しかし宰相もまた悲しみのふちに居た。
宰相「ダメだ。これ以上は待てない」
アレイシアンさんは勇者だ。
街中で小さな子供たちに聖剣を見せびらかしても最初のうちは見過ごしてきたし、王都の復興でクソ忙しいさなかにサイン色紙を送りつけてきても寛大な心で三枚目までは額に飾って大切に保管してきた。
なかなか友達ができない。ここまではいい。むしろ好印象ですらあった。まず常人とは異なるのだ。身分の違いから、対等の友人を持てずに悩んでいる……良いではないか。いかにも、という感じだ。
しかし。しかしだ……化けの皮が剥がれるのはマズイ。
宰相は知っている。エム=エヌ・オットーは知っている。
アレイシアン嬢は、アリア家の人間としては破格に優しい。幼い頃からそうだった。心の優しい子だ。不完全な感情制御法ゆえの優しさ、甘さを持つ。
そして、その甘さは自分自身にも適用される。堕ちた勇者……。
宰相は、子狸さんの瞳を正面から見据えて宣言した。
宰相「手段は問わない。国家の威信にかけて、彼女に友達を作る」
今、ここに国家プロジェクトが動き出そうとしていた。
優しい時間は終わりを告げ、あらがうことさえ許されない歴史の波が押し寄せようとしていた……。
〜fin〜