プロローグ
子狸さんの危機に颯爽と駆けつけ、図らずも……つまり偶然にもということだ……親狸の魔の手から逃れた魔物たち。
一方その頃、巫女さんと子狸さんは向かい合って朝ごはんを食べていた。
巫女「んー。まあまあかな」
巫女さんの自己評価はやや低めだ。例えるとすれば、料理番組で紹介していたレシピを試してみたが期待していたほどには美味しく作れなかったといったところか。母狸さんの真似をしたつもりなのだが、何かが違う。
しかし子狸さんの意見は異なるようだった。
子狸「めっじゅ〜」
巫女「お? なんだよ〜。こいつ、いつの間にお世辞なんて覚えたんだ〜?」
お嫁さんの適性が高いと言われて、巫女さんは照れ隠しに子狸さんの前足を持ち上げた。二足歩行を強要された子狸さんが、テーブルの上をよたよたとふらつく。
巫女「ふふふ……」
巫女さんは上機嫌で子狸さんの頭を撫でてやった。
この一人と一匹は、ほとんど幼なじみのようなものだ。共に過ごした時間はそう長くないが、あまたの苦難を協力して、ときには敵対して二人五脚で乗り越えてきた。
利用するものと、されるもの。格差はあれど、親しき中にも礼儀ありという言葉が陳腐に感じられる程度の信頼関係はある。往々にして悪ふざけが度を越してしまうのだが、じっさいそんなものだ。
職務上、初対面の人間を言葉巧みに勧誘することもある巫女さんは決して人見知りするほうではないが、それでもやっぱり子狸さんと二人きりのほうが気はラクだ。
巫女「今日、ひまだからさー。新必殺技でも編み出そうぜ」
子狸「めじゅ〜」
子狸さんは万能型の魔法使いだ。さらに退魔性がろくに機能していないという特性を持っていたから、巫女さん一人ではできないことも子狸さんを近くに置くと成功することがある。
この子狸をいちばんうまく使えるのは自分なのだという自信が巫女さんにはあった。
*
またろくでもない実験をはじめようとしている豊穣の巫女。例によって例のごとく巻き込まれる子狸さん。
一方その頃、コアラさんの愚痴に付き合わされながらも無事に結界を踏破した勇者さんが通常空間に復帰を果たしていた。
超空間での出来事は、なかったことにはならない。勇者さんの体力ゲージがゆるやかに下降し続けている。空腹の状態異常だ。
いつも昼まで寝ている勇者さんだが、たまには家で朝ごはんを食べるのもいいだろう。予定を変更して食堂に向かうことにする。
生まれながらに異能を備える勇者さんは、自分の家で迷子にならないという特技を持っていた。無駄に長い廊下を観察し、現在地を割り出す。
毎月、一家が遊んで暮らせるくらいのお小遣いを貰っている五人姉妹は、勇者さんが活躍しそうな場面に敏感だった。
長女「ここは……」
次女「アレイシアンさま?」
はっきり言って末妹のコニタに頼れば一発で解決する問題なのだが、姉妹たちは勇者さんのちょっといいトコを見てみたい。
はたして勇者さんは事もなげに言った。
勇者「応接間の近くね。こっちよ」
三女「おお……」
四女「さすがアレイシアンさま」
五女「凄い。わたしよりもずっと早い」
勇者「あのね……」
さしもの勇者さんも、こうまで見え透いたお世辞には乗らないようだ。
探索、感知においてコニタを上回る異能持ちはそうそう居ない。
勇者「待って。誉め言葉はあとで」
聞くわ、と言い差してぴたりと立ち止まる。至近距離から勇者さんの耳を注視していた姉妹たちの反応が遅れた。
四女のルルイトさんに斜め後ろから追突されて、大きくぐらつく。勇者さんのほうが二つほど年上だから、体格差はそれほどでもない。むしろルルイトさんのほうが小柄だ。
しかし、そんなことは勇者さんにとって些細な違いでしかなかった。
とっさの判断で踏みとどまることを諦めた勇者さんが、すーっと前のめりに倒れていく。人として当然備わる反射的な自衛行動を、彼女は意識的に除外することができる。
ぎょっとするような前傾運動に、しかし姉妹たちは如才なく対応した。後ろから素早く勇者さんを抱きとめ、事なきを得る。
どんなときも冷静沈着な勇者さんは、無駄な労力を費やさないのだ。
勇者「ありがと」
そうクールに言ってのけ、何事もなかったかのように応接間のドアを見つめる。
……誰も触っていないのに、ドアノブが徐々にひねられていく。
念動力。妖精たちが標準装備する特性の一つだ。周囲に黒い妖精の姿はないが、やろうと思えば迷彩で身を隠すこともできる筈だ。また廊下の曲がり角に身をひそめてドアノブを凝視している魔軍元帥も無関係とは思えない。
勇者「…………」
勇者さんは少し考えてから、ドアの隙間を覗き込んだ。
まず最初に目に飛び込んできたのは、黄色い毛玉だった。空のひと……魔王軍幹部の魔鳥ヒュペスだ。
対面のソファに腰掛けているのは、勇者さんのお父さんである。
ひよこ「…………」
アリアパパ「…………」
二人は無言で見つめ合い、重苦しい沈黙をまとっている。
と……
空のひとの大きな瞳から、一筋の涙が零れた。
勇者「…………」
勇者さんは、そっとドアを閉めた。
なんなのだろうか……。
さっと視線を戻すと、魔軍元帥が気取ったポーズで壁にもたれかかっている。魔王軍の統帥は、逃げも隠れもしないのだと言わんばかりだ。
魔王は倒れた。戦う理由はない。
勇者さんは、無言で黒騎士の目の前を通過した。
元帥「知らなくとも良いことが世の中にはある」
勇者さんは無視した。
元帥「だが、他人事では済まされないこともある……」
いったい何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。少なくとも勇者さんにとっては、そうだった。
思い当たるふしがまったくと言っていいほどなかったから、かつてのライバル、つの付きの言葉が心に響くこともない。
勇者さんは、食堂へと向かう。
朝ごはんは、食べるために。
しいていうならお前の後ろに勇者が立ってる
序章 『希望の魔法』
〜fin〜