うっかり葛藤編
子狸さんが空気の匂いが嗅ぐようにふんふんと鼻を鳴らしながら噴水に近づいていく。
魔法使い特有の超感覚は肉体に依るものではないから、幻視痛みたいな感じで処理されることになる。これは魔力の共鳴によって引き起こされる錯誤の一種だ。
また超感覚の発露の仕方は個人により異なる。
もっとも、大陸の人間ならば大多数を占めるのが「視覚」だろう。何か見えるような気がする、という感じだ。これは人間たちが情報収集の多くを視覚に頼る生きものだからである。
子狸さんの場合は「嗅覚」であった。
アウトドア派と言うよりは、インドアするほうが珍しいような生活を送っているからなのだろう。匂いを嗅げばだいたいのことはわかるという二軍っぽい特技を持っている。
ふらふらと噴水から離れていく子狸さんを、殿下さんが胡散くさそうに見つめている。ため息をつくと、不意に悲しそうな顔をした。なんとなく子狸さんのあとをついて回りながら言う。
殿下「……エリザベス、どうして家出など」
どうしてと問われたなら、それは愛の切れ端を見つめるような作業に疑問を抱いたからだ。
しかし殿下さんには殿下さんなりの言いぶんがあった。過去に囚われない子狸さんだから、愚痴を零したくなったのかもしれない。
殿下「たしかに面倒くさくなって放任したが、わらわはエリザベスのことを大切に思っているのじゃ……。その気持ちに嘘はない。エリザベスもわらわの部下に懐いておるようじゃったし……」
不幸にも緑のひとは賢すぎるペットだった。自分の面倒を自分で見れたから、近衛兵さんたちの手を煩わせるのは悪いと思ってインスタント食品を自分で開封していた。しかしそれはけっきょく、近衛兵さんたちが緑のひとの飼い主ではなかったからだ。
殿下さんと緑のひとの間には、きっとすれ違いがあったのだろう。
殿下さんは緑のひとのことをもっとよく見ていればこんなことにはならなかったし、緑のひとは家出する前にもっと殿下さんに甘えてみれば良かった。
子狸さんがぽつりと言った。
子狸「殿下さんのそういうトコ、緑のひとと似てますよねぇ」
殿下「え……?」
ハッと顔を上げた殿下さんだが、子狸さんは「この辺りかな~」とのんびり呟くばかりだ。
殿下さんが問い質すひまもなく、立ち止まった子狸さんがギャンッギャンッと前足を構える。
子狸「こぉぉぉ……!」
独特の呼吸法で息吹を吐いた子狸さんが、カッと目を見開いた。
子狸「ドミニオンっ!」
じつはこの子狸、魔法の果実を生成できる稀有な魔法使いだったりする。
とはいえ、無条件に生成できるわけではない。
魔法の果実は人間たちの願いや祈りを凝縮したものだから、例えば大規模な合戦場などが生成しやすい環境ということになる。
王都は旧魔都だ。初代勇者が魔王を打ち倒した地である。
当時の人間たちに国という概念はなく、彼らの生息域がひろく分散しているのは魔物たちにとって都合が悪かった。
だから人智勇に優れた一人の人間に勇者という正当性を与えた。
殿下さんは、初代勇者の末裔だ。
ここ王宮はかつての魔王の居城であり、強大な魔物と人間たちがしのぎを削った場所でもある。
とはいえ、ここ千年間は平和そのものだ。
魔どんぐりの生成を試みる子狸さんだが、なかなか輪郭がぶれて定まらない。
子狸「くっ、キツイか……?」
子狸さんは慎重に魔法を連結していき、魔どんぐりの安定と定着を目指す。少しでもタイミングが狂えば四散してしまいそうだ。
子狸「後ろの正面っ、ドロー!」
最後に加速魔法を叩き込んで、ようやく魔どんぐりはモノになった。
ちなみに加速魔法とは処理速度を底上げする魔法だ。処理速度を上げるということは、余計な部分を廃棄するということでもある。例えるとすれば、ドット絵でグラフィックを表示するようなものだ。
本来は別次元の生きものである魔物たちが動物たちと触れ合えるのは、この加速魔法でテクスチャーの描写スペックを三次元に落としているからだ。
掴み取った魔どんぐりを、子狸さんは誇らしげに掲げた。
殿下「相変わらず無駄に多芸じゃのぅ」
殿下さんが珍しく素直に誉めてくれた。
*
子狸「よし、これでいいだろう」
罠を仕掛け終わった子狸さんが、その出来栄えに満足そうに頷いた。
無造作に地面に転がした魔どんぐりの上に大きなざるをかぶせ、つっかえ棒を仕込んだシンプルな罠だ。
殿下「さすがにこれには引っ掛からんじゃろ……」
子狸「まぁ、結果は見てのお楽しみですよ」
半信半疑の殿下さんに、子狸さんは並々ならぬ自信を覗かせた。
ふと目線を落とし、おや、と首を傾げる。
こんなところになぜ魔どんぐりが?
魔法の果実、魔改造の実シリーズとも呼ばれる大きな果実は子狸さんの大好物だ。かじるとさっぱりしていて、ほのかに甘い味がする。
無造作に転がっている魔どんぐりに、子狸さんの目は釘付けになった。
ふっ、と不敵な笑みを浮かべる。
(なんちゃって、ね)
フェイクだ。
自分で仕掛けた罠に引っ掛かるほど子狸さんは愚かではない。殿下さんにああ言ったのは、あくまでも保険だ。
子狸「……着地で足をひねったかな」
その場にしゃがみ込んだ子狸さんが、慎重に殿下さんの気配を窺う。
彼女は呆れたように言った。
殿下「変に格好つけようとするから怪我をするのじゃ。そなたは昔から余計なことをしては……」
お説教をはじめた殿下さんに、子狸さんがぎらりと眼差しを鋭くした。
子狸「もらった!」
魔どんぐりに飛びついた子狸さんだが、その拍子につっかえ棒を後ろ足で蹴飛ばしてしまった。
子狸「! しまった!」
あえなく捕獲された子狸さんがざるの中でじたばたと暴れる。
子狸「罠だ! 殿下さん、逃げるんだー!」
殿下「…………」
殿下さんは悲しそうな目で子狸さんを見つめている。ため息をついて、しみじみと言った。
殿下「そなたは変わらないのぅ……」
面倒くさそうに子狸さんの救出作業に移ろうとする殿下さんであったが、しかし彼女は子狸さんの忠告に従うべきだった。
子狸「ダメだっ、おれに構うな! 後ろだ!」
殿下「む?」
子狸さんの切迫した叫び声に、殿下さんは振り返って背後を見た。
殿下「なぬっ……!」
巻き上がった砂が、低学年児童くらいの像を結んでいく。
大「興味があるぞ。王族の晩ごはんとやらにな……」
小さな大きいひとだ!
殿下「遺跡の番人っ、エイラか!?」
エイラというのは大きいひとの本名だ。
五人の王種の中で、コイツにだけは関わってはならないと言われるヤツがいる。
気まぐれに人間へと試練を課し、もがき苦しむ様子を眺めて嬉しそうにする凶悪なる暴君。
古代遺跡の巨人兵、大きいひとがそうだった。
ざあっ、と迫り来る砂が波打つかのようだ。大きいひとは言った。
大「光栄に思え。このおれがお前に飼われてやろうと、こう言っているのだ……」
大きいひとは緑のひとに取って代わろうとしている。
しかしこの、今は小さいがでっかいのは、あまりにも評判が悪すぎた。
魔王軍の猛威に堪えかね、助力を請うてきた人間に無理難題を吹っかけ、言葉責めした過去の行状が尾をひいている。
素早く展開した近衛兵さんたちが、一斉に喚声を押し出した。
放たれた光線が幾条もの軌跡を描いて大きいひとを串刺しにする。
しかし身体に穴が空いたところで、大きいひとの生命活動には何ら支障がなかった。
弱すぎる。
大きいひとは人間の非力をあざ笑った。
大「お前らはクビだなぁー! だが安心しろぅ……お前らの給料はこのおれが有効活用してやるさぁ……」
近衛兵さんたちの悲鳴が砂に呑まれた。
ギンッと光り輝く輪っかが浮かび上がり、追って人の輪郭を結んだ砂の像が、片腕で宙吊りにしていた近衛兵さんを放り捨てた。
蠢く砂が近衛兵さんたちを束縛している。
彼女らの抵抗を物ともせず、大きいひとは空虚な瞳を殿下さんに向けた。
殿下「ひっ……!」
殿下さんが尻もちをついた。
生命の危機とは無縁な生活を送っていたから、圧倒的な強者を前にして的確な行動をとれる筈もなかった。
子狸「逃げろー!」
ざるを跳ね除けた子狸さんが突進した。
大「はっはァー!」
前足を振りかぶった子狸さんが喚声を放つよりも早く、視界が紫色に染まった。
ばつん、と感電した子狸さんがふらふらと大きいひとの横を通り過ぎる。のろのろと突き出した前足が虚しく空を切り、そのまま前のめりに倒れた。
殿下「ば、バウマフの!」
都市級の魔物が束になっても敵わない。それが王種だ。
都市級にすら相手にされない人間たちが、立ち向かうことが、まず愚か。
強大な王種が君臨する大陸では、人間たちは彼らの顔色を伺って生きるしかない。
王種に対抗できるとすれば、それは同じ王種のみ。
緑「…………」
樹上から飛び降りてきた緑のひとが、殿下さんを庇うように立ちふさがり、うなり声を発した。
殿下「え、エリザベス〜!」
殿下さんは泣いた。ぼろぼろと大粒の涙を零しながら、彼女はついに自分の非を認めた。
殿下「わらわが悪かったのじゃ〜!」
緑のひとは、ゆっくりと近付いてくる大きいひとから決して目を離さない。その代わり、小さく尾を揺らして言った。
緑「いや、いいんだ。……おれも少しおとなげなかったな。悪かった」
大「そいつは違うなぁ、緑の」
緑「なに……?」
感動の仲直りの場面に口を挟まれて、緑のひとは面白くなさそうな顔をした。
対照的に大きいひとは笑いが止まらないといった様子だ。
大「ペットに必要なのは愛嬌か? いいや、違うね……」
大きいひとの全身を激しい稲妻が駆けめぐる。まとわりつく紫電を踏み散らすように、ずしんと踏み出して持論を述べた。
大「他を圧倒するパワー。それさえあればいい」
思いやりだの、友情だのといったものは、しょせん不純物に過ぎないのだ。
緑のひとが獰猛に牙を剥いた。
緑「ならば、やはり正しいのはおれということになるな」
大「ほう……?」
今、ついに二人の王種が対峙した。
はたして王家の晩ごはんは、どちらに微笑むのか。
〜fin〜