Turning Point
深夜。
子狸さんの巣穴からにょきっと触手が出てきた。
床を這い、するすると階段を降りていく。
一階に辿り着いた。
素早く継ぎ目を探り当てると、開閉式になっているフタを少し持ち上げて内部に侵入する。
隠し部屋みたいになっている地下室では、一人の少女がすやすやと寝入っている。
数々の文化重要財を爆破した容疑で騎士団に追われている国際指名手配犯、豊穣の巫女ユニ・クマーだ。
いささか不透明な活動を行っていた地下組織を潰したことで微妙に民衆の支持を受けている彼女だが、法治国家において捜査権もないのに汚職を暴くのは許されざる行いだった。
もちろん汚職は良くないことだが、一網打尽にするためにあえて泳がせていた可能性だってある。甘い汁を吸っていた騎士団にその予定がなかったことは、しょせん結果論でしかないのだ。
そんな巫女さんの枕元に、するすると触手が這い寄る。
巫女さんは健康的な女の子だ。
真夏ということもあり、薄着で寝ている。
お腹が冷えないよう巻いた布団から、にょきっと素足が伸びていた。
触手の先端がぶるぶるとふるえ、ぱかっと上下に分かれた。
にょきにょきと生え揃った歯列をガチガチと打ち鳴らし、具合を確かめてから、巫女さんの耳元で何やらボソボソと囁く。
王都「勝てる勝てる、勝てるよ……。諦めんな……。王国最強の騎士なんてどうってことないよ……」
この触手が、いったい何者の手によるものなのかはわからない。
だが、はっきりしていることもある。
バウマフさんちのひとに小細工は通用しない。だからこうして多方面に触手を伸ばし、コツコツと地道な活動を行うのだ。いつの日か、努力が実を結ぶと信じて。
巫女「ん……」
寝苦しそうに眉根を寄せた少女に、触手は囁き続ける。
王都「やれるやれる、お前ならやれるさ……。子狸さんを苦しめる全てをこの世からなくしてしまおう……」
悲しい夢でも見ているのかもしれない。
閉ざされたまぶたから涙が零れる。
小さな唇から漏れた声は不安と悲哀に濡れていた。
巫女「一人は……嫌だよ……」
彼女を安心させるように触手は囁く。
王都「おぉ、そうだとも……。お前は一人ではないぞ……子狸さんがついている……いつだってそうだった……」
にたりと裂けた触手の囁く声がどこまでも優しい。
王都「王国最強の騎士、アトン・エウロを倒せ……。学府を倒せ……。巫女よ、巫女よ……お前にならそれができる……。子狸さんと魔力を共有するお前にしかできないことなのだ……」
忍び寄る魔の手が
底の見えない深い闇が
あどけない少女をいざなうかのようだった……。
*
明くる日の早朝の出来事である。
さも当然のような顔をしてバウマフさんちの朝餉に居座る勇者さんが、きょとんとして巫女さんの奇行を見つめていた。
巫女「そぉいっ、そぉいっ」
居間の床にマットを敷いて、腹筋をしている。彼女の足首を固定し、闘争心を煽っているのは子狸さんだ。
子狸「どうしたっ、動きがにぶいぞ! もうバテたのか!? 見ろっ、お嬢が呆れているぞっ。お前はしょせんその程度なのかという目だッ」
巫女「こなくそっ。負けるっ、もんかー!」
勇者「…………」
誤解のないよう言っておくが、勇者さんは生まれてこのかた一度も筋トレなんてしたことがない。
だから彼女が腹筋できるかどうかは未知数の領域だった。
勇者さんはひとまず一人と一匹を野放しにして、食事を続行した。
いつも無駄に豪勢なごはんを食べているアリア家のアレイシアンさんであったが、だからと言って平民の料理が舌に合わないということはない。
しょせん味覚は好みの問題だ。
もちろん贅の限りを尽くした大貴族のごはんに及ぶべくもなかったが、たまに食べるぶんには新鮮味があってむしろ美味しいと感じることすらあった。
食事中の勇者さんは口数が極端に少なくなる。
バウマフさんちに常備してある専用の小さなお椀によそったごはんを、もくもくと食べる。
母狸さんが湯飲みに注いでくれた食後のお茶をこくこくと飲み、ひと心地ついてから、勇者さんは満を持して言った。
勇者「あなたたち、なにしてるの?」
その頃には、巫女さんはすでに力尽きていた。
床に大の字になってぜえぜえ言っている。
口を利く元気もなさそうだ。
勇者さんはダメ元で子狸さんに視線を振る。
子狸「…………」
子狸さんは後ろ足一本立ちになって瞑想していた。ぴたりと合わさった前足が、きっと宇宙の真理を体現していた。
元より子狸さんに期待していなかった勇者さんは、泰然自若の佇まいを見せる王都のひとをスルーして母狸さんに目を向ける。
勇者さんの無言の問い掛けに、母狸さんは困ったように笑った。
母狸「ユニちゃんも女の子ですから。負けられない戦いもあるのでしょう……」
言葉を濁したような言い方だ。
勇者さんは小さく首を傾げ、ちょうど仕事がひと段落したらしくパン工房から出てきた父狸に目線を投げる。
テーブルについた父狸は、なぜか自分の家に入り浸っている大貴族の視線に気付いて、少し戸惑ったような顔をした。空気を読むように目が素早く動き、得心したように頷く。魔物たちの相互ネットワーク、こきゅーとすの記事を読んだのだろう。
父狸はしかめっ面になって言った。
父狸「私は、女の子は少しぽっちゃりしているくらいでちょうどいいと思うがな」
母狸「あなたっ」
お年頃な巫女さんのプライベートに言及した夫を、母狸さんが咎めた。
しかしこの大きなポンポコにも家長としての責任があった。
よそさまの娘さんを預かっている以上、好きにしろとは言えない。
父狸「無理なトレーニングは身体に負担が掛かる。今のところはさして厳しいものではないようだが、エスカレートするようならおれも黙ってはいないぞ」
母狸「そうねぇ……」
夫の言うことにも一理ある。
しかし同じ女性として、巫女さんの気持ちもよくわかる母狸さんはあいまいに首を傾げた。
勇者「……?」
何やら通じ合っているらしいポンポコ夫妻の会話にも、勇者さんはぴんと来なかった。がくがくとふるえる両腕を突っ伏して立ち上がろうとしている執念の巫女さんに問い掛ける。
勇者「けっきょく、あなたは何がしたいの?」
巫女「へへっ……」
巫女さんは自嘲するように笑った。
巫女「ついこの間、ちょっと無茶をしてね。いや、違うか。違うな……わたしは知ってたんだ。知っていて、自分を誤魔化していた……認めるよ」
悲痛な告白に身を委ねようとする巫女さんを、子狸さんが押しとどめた。
子狸「ユニっ、もういいっ。言うなっ」
巫女「いや、言わせてくれ。自分の蒔いた種だ。責はわたしが負う。当然の報いさ」
ついに立ち上がった巫女さんが、天井を眺めて瞑目する。
巫女「リシアちゃん、わたしね……」
全てを受け入れると決めた彼女の表情は崇高ですらあった。
押し隠された苦悩が、人としての尊厳を昇華し天上へと至る階梯を踏みしめるかのようだ。
巫女さんは言った。
巫女「わたし、太ったんだ……」
目尻から零れた涙がきらりと光った……。
*
順を追って話そう。
少しぽっちゃりした巫女さん。
魔法使いの天敵は肥満だ。理解はしていたつもりだったが、どこか他人事でしかなかった。
元々、サバイバル生活に身を置いていた彼女は、これまでとくに意識することもなくスマートな体型を維持していた。
だから、しょせんファッションとしてダイエット戦士を標榜していたに過ぎなかったのである。
ところがバウマフさんちでの居候生活は、巫女さんの体質を劇的に変化させつつあった。
野外で作れる料理など、たかが知れている。ときとして魔物たちの襲撃に対応しなくてはならなかったから、満足な食事よりも生き残ることを優先せざるを得なかった。
食べ過ぎると動けなくなってしまうから、無意識のうちに自分をセーブしていた面もあった。
早い話が、母狸さんの手料理は美味しすぎたのだ。そして、あたたかすぎた……。
――今、巫女さんは生まれ変わりつつある。
真のダイエット戦士として覚醒した巫女さんを待つのは、かつてない戦場なのか。それとも……。
勇者「……そう」
巫女さんの熱いモノローグを聞き終えた勇者さんの反応は淡泊だった。
子狸さんのベッドに腰掛け、山腹のひとの身体をつねったり伸ばしたりしている。
勇者さんは言った。
勇者「わたしは太りにくい体質だから、よくわからないけれど……」
巫女「太りにくい体質?」
なんだそれはと、巫女さんが面白くなさそうな反応を示した。
カッと目を見開き、高みから見下ろすように勇者さんのお腹に照準を合わせる。
太りにくい体質などというものは、この世にはないのだ。
食べれば、太る。それこそが、何もかもがあいまいなこの世の中で、たったひとつの真実だ。
これでもかと言うくらいにお腹を凝視してくる巫女さんに、勇者さんは恥じらいらしきものを見せた。
勇者「こら、やめなさい」
さりげなく腕を動かしてお腹を隠そうとする勇者に、巫女さんはしてやったりの笑みを浮かべた。
やはり……! この勇者は小食だが、あのような自堕落な生活を送っていて無事でいられる筈がないのだ。
思わぬところで同志とめぐり合えたものだ……。巫女さんは内心でほくそ笑んだ。
巫女「そっか……」
不意に真面目ぶった顔をした巫女さんだが、それはフェイクだ。
ぎらりと眼差しを鋭くし、勇者さんのお腹へと素早く手を伸ばす。
巫女「とった!」
だが、巫女さんの手が勇者さんのお腹に届くことはなかった。
子狸「そこまでにしておけ」
子狸さんが前足を器用に使って巫女さんの手首を掴んだのだ。
巫女「なにっ……!?」
瞠目した巫女さんに、子狸さんは力なく首を横に振る。そこには子狸さんらしからぬ諦観があった。
子狸「……お嬢には腹筋がないんだ。食後はそっとしておいてやれ」
巫女「!? そんなっ……ばかな……」
信じられないといった面持ちで見つめてくる巫女さんに、勇者さんは何をばかなことをと嘆息した。
勇者「真に受けないの。そんなことないわ」
子狸さんの表現は大袈裟に過ぎる。ただ、腹筋を酷使する理由がなかったから必要以上の筋力はないという、たったそれだけのことだった。
それなのに子狸さんに憐れみの眼差しを向けられて、勇者さんは少し不安になってきた。
勇者「……なんなの、その反抗的な目は」
子狸「…………」
子狸さんは何も言わなかった。
まぶたを閉ざし、深刻そうに押し黙る。
鉛にも似た後悔を押し出すように叫んだ。
子狸「コニタ!」
五女「なんだ」
勇者さんには常にアリア家の狐と呼ばれる五人姉妹が付き従っている。
この五人姉妹こそが、剣士としても魔法使いとしても中途半端な勇者さんの生活を支えるアリア家の切り札だ。
迷彩を破棄して現れた五人姉妹の末妹に、子狸さんは当然として巫女さんも驚かなかった。
たまに忘れそうになるが、勇者さんはれっきとした大貴族の子女だ。護衛が居ないほうがおかしいのだ。
五女のコニタは子狸さんに対してやや反抗的ながら、一緒に旅をしていたときから一目を置いている。
餌付けをされたと言えばそれまでだが、この一人と一匹の間には勇者さんを見守る会に所属する同会員としての切っても切れないきずながあった。
子狸さんの声には苦渋がにじんでいる。
子狸「……わかっているな?」
五女がハッとした。
五女「マフマフ。しかし」
子狸「ダメだ。これ以上は待てない」
いずれは、と思っていた。
期待があった。勇者さん自身が立ち上がってくれるのではないかという期待だ。
……けれど彼女は、今も変わらず自堕落な日々を送るばかりだ。
子狸さんはゆっくりとまぶたを開き、勇者さんを見据えた。
子狸「お嬢」
勇者「なに」
子狸「……君は勇者だ」
勇者「そうね」
子狸「おれがなぜこんなことを言うのか? いまは言えない。けど……」
勇者さんには内緒にしているが、子狸さんの正体は魔王だ。
何度か自白しているし身内に暴露されたこともあるが、子狸さんは過去に囚われなかった。
――勇者は、魔王に打ち勝たねばならない。
魔王が誰であれ、だ。
子狸さんの苦悩は深い。
子狸「このままじゃダメだ。……おれが、君を鍛える」
倒されるために、鍛える。それは矛盾だ。
しかし、それがこの世界のルールだった。
千年間、連綿と受け継がれてきたバウマフ家のおきてだった。
勇者「あなたが? わたしを?」
勇者さんは目を丸くしている。
無理もないだろう。とつぜんの申し出だ。
しかし子狸さんにとっては、ずっと考えていたことだった。
勇者さんが意外に感じると言うならば、それは彼女の怠慢だ。
重々しく頷いた子狸さんに、勇者さんの表情がすとんと落ちる。
勇者「見くびられたものね」
勇者さんが立ち上がって、子狸さんの目を正面から見つめる。
あざ笑うように言った。
勇者「たったの一度でも、わたしはあなたを上と見なしたことはない」
……それでいい。いや、それでこそだ。子狸さんはにやりと笑った。
勇者さんの手が素早く走り、不遜な子狸の頬をつまんだ。ぐいぐいと引っ張って言う。
勇者「あなたには、しつけが必要なようね」
いきなり対立しはじめた一人と一匹を、巫女さんはおろおろと見比べている。
なぜこのふたりは、たまに自分のほうが上だと主張しはじめるのか。
巫女さんからしてみれば、どっちもどっちだ。
巫女「ぼ、暴力反対! 仲良く、仲良く。ねっ」
割って入った巫女さん越しに、子狸さんと勇者さんの視線がぶつかり合う。
いや、正確には巫女さんの頭しか見えなかったのだが、それは大きな問題ではなかった。
子狸さんが吠えた。
子狸「勝負だ!」
巫女「うおっ、うるせー!」
耳元で怒鳴られた巫女さんがカチンと来て子狸さんをベッドに投げ飛ばした。
脇固めに移行しながら子狸さんの説得に入る。
巫女「暴力は良くないと思うなっ」
すかさず勇者さんも加勢した。回り込んで子狸さんの両頬をぐいぐいと引っ張る。
勇者「どうしていちいちわたしに逆らうのっ」
早くも劣勢に立たされた子狸さんが、ここからの逆転はないと認めた。
子狸「ふっ。一人ではなく二人……これが人間の強さ、か……」
自分が間違っていたとは思わない。
勇者さんの体力ゲージはバーが短すぎる。
その確信が揺るぐことは、きっとこの先もないだろう。
だが、足りないものは補うことができる。
そう、仲間さえ居れば。
子狸さんは満足そうに微笑んだ。
自分とは異なる「答え」に辿りついた勇者さんが誇らしかった。
彼女なら、きっと……
自分の意思とは無関係に輪郭がゆがんだ前足を、子狸さんはそれとなく布団に隠した。
――残された時間は、あまりにも少なかった。
~fin~