うっかり補習編
――灼熱の補習が幕を開けようとしている。
放課後。
人もまばらな教室に、アイ先生が立つ。
教壇から見渡す光景は、切り立つ崖から谷底を見下ろすことと似ている。
底の見えない深い闇がひとの形をとるかのようだ。
迷彩を解いたバウマフくんが染み出すように姿を現した――。
アイ先生が一つ頷く。
なるほど、教官の忠告は正しかったと認めざるを得ないだろう。
ひとりの生徒をとくべつ扱いするのは間違っているというのがアイ先生の持論であったが、とくべつ扱いしなければ未来が開けない生徒もいるということだ。
勉強になった。学ぶべきことは多い。学問に果てなどないのだ。
しかし、今はまだ――
生徒の「可能性」を信じてみたかった。
アイ先生の挑むような眼差しに、子狸さんは不敵に笑った。
子狸「ふっ。起立」
子狸さんの号令に、いささか成績に難があるクラスメイトたちは忠実に従った。一斉に席を立ってぺこりと頭を下げる。
あまり素行のよろしくない生徒もちらほらと混ざっていたが、彼らは子狸さんに表立って逆らおうとはしない。
磨き抜かれた魔法技能と、あくなき戦闘意欲。そして犯罪者予備軍としか思えないスキルの数々を身につけているバウマフ先輩は、番長グループにも一目置かれる生徒だった。
これから補習を受けるわけだが、子狸さんに浮き足立った様子は見られない。
懐かしい時間が戻ってきた。感慨深いとすら言える、この補習こそが子狸さんにとっての日常だ。
着席した子狸さんが、アイ先生の言葉をひとことも聞き漏らすまいと身を乗り出す。
凄まじい集中力だ。抜き身の刃を突きつけられるような闘志に、アイ先生は気圧される。
バウマフくんの授業態度は熱心のひとことに尽きる。
圧縮弾の扱いひとつ取っても標的への振り分けなど暗算をこなしているようなのに、どうして簡単な割り算でつまずくのか。その謎に迫るときがやって来たのだ。
よしっ、と並々ならぬ意気込みを見せるアイ先生が口を開こうとした、まさにそのときだ。
すらりと教室のドアを開け、飼育係のアレイシアンさんが入室してきた。
テストで軽々と満点を叩き出した彼女が、いったい何故ここに? アイ先生は戸惑いを隠せない。
勇者「…………」
勇者さんは無言だ。
てくてくと教壇の前を横切り、惜しくも無記名という悲しい結果に終わった子狸さんをじっと見下ろす。
子狸「…………」
勇者さんの直視に耐えられず、子狸さんは目を逸らした。
言い訳はしたくなかった。自分の力が足りなかった。それだけのことだ。
勇者さんは子狸さんのマフラーの端を掴むと、くいっと軽く引っ張った。
うなだれた子狸さんがしょんぼりと肩を落として席を立つ。
きびすを返した勇者さんに、子狸さんがとぼとぼとあとに続く。
バウマフくんを連行していこうとするアレイシアンさんに、アイ先生がおっかなびっくり声を掛けた。
先生「あの、アレイシアンさま。これから補習なのですが……」
ぴたりと足を止めた勇者さんが、ぽつりと呟きを落とした。
勇者「無間地獄……永遠に終わることはない……」
先生「う……」
アイ先生がうめいた。内心の葛藤を見透かされたような気がしたのだ。
迷いがある。バウマフくんを何とかして既存の枠組みに収めようとしているのだが、それは本当に正しいことなのか。
もっと個性を大事にしてあげるべきなのではないか……。
たたらを踏む担任教師を、勇者さんはじっと見つめている。
――答えなど、最初から無いのだ。
この子狸に補習など時間の無駄でしかない。時間はもっと有効に使うべきだ。
勇者さんは隙あらば子狸さんを飼い慣らそうと画策している。
この子狸を打ちのめし、屈服させることに生き甲斐を見出しつつあった。
いったいどこで道を間違えたのか。それはわからない。
だが、勇者の進む道には困難が待ち構える。
それが運命と呼ばれるものだとしたら、この勇者のLuk値は低いと言わざるを得ないだろう。
校長「しかし救いはある。どんなものにも」
校長先生が現れた。
子狸「……!」
子狸さんがはっとした。
校長先生は、学校の頂点に君臨する存在である。
かくしゃくとしたおじいさんで、いつも管楽器のサックスを持ち歩いている。
サックスキャラの登場に子狸さんは緊張した。
王都「フーッ!」
いつも子狸さんの横にいる青いのも警戒を露わにしている。
校長先生はにこりと笑った。
校長「アレイシアンさま。その子に必要なのは機会ですよ……」
アイ先生が目を見張った。
校長先生は気難しい人物だ。
いつもイライラしていて、早歩きで校内を行ったり来たりしている校長が笑っているのをはじめて見た。
勇者さんは、あまり校長先生と話したことがない。避けられている、と感じていた。
姉妹たちの証言によれば、校長先生はアリア家の人間を恐れている、らしい。
しかし王立学校の頂点に登りつめるほどの人物だ。只者ではあるまい。
勇者さんは校長先生の目を見て、きっぱりと言った。
勇者「いいえ、必要ないわ」
校長「困りましたな……」
言っても聞かない勇者に校長先生は苦笑した。
内心で舌打ちする。なんなんだ、この身勝手な女子生徒は……。
そもそも貴族が自分の学校に在籍していること自体が気に入らない。
何とかして学校から追い出したかったのだが、どうも一筋縄では行かないらしい。
面倒なことだ……。
しかし、これ以上、勇者と魔王が仲良くなるのはもっと面倒だ。
手遅れかもしれないが……。釘は刺しておくべきだろう。
校長先生は慎重に勇者さんと子狸さんの仲を引き裂こうとした。
校長「……アレイシアンさま。ご学友は選ぶべきですよ。あなたは優秀な生徒だ。そのような落ちこぼれに関わることが、あなたの将来に役立つとはとても思えませんな」
先生「校長!」
自分の教え子を落ちこぼれと断じる校長先生に、アイ先生が待ったを掛ける。
しかし校長先生は、横から口を挟んできたアイ先生をぎろりと睨んだ。
校長「黙っていなさい。落ちこぼれは落ちこぼれ。これからがんばれば良い。それを……耳触りの良い言葉で誤魔化そうとするから、当事者である筈の彼らが誤解する。見誤るのだ」
校長先生の教育方針は苛烈を極める。
生徒の自主性に期待をするべきではないと考えている。
しかしその考え方は、勇者さんのそれとは決して相容れないものだ。
ダメならダメで良いではないか。勇者さんはそう考えている。
勇者「安い一般論ね」
不快そうに眉をひそめる校長先生に、勇者さんはきっぱりと告げた。
勇者「少しくらい寄り道しないと、何を目指せばいいのかもわからないわ」
勇者さんのそばには、いつも負け狸さんが居てくれた。
だから彼女は身をもって理解していた。
――ヒーローには引き立て役が必要なのだ。
誰も彼もデキる人間になってしまっては、人生のハードルは高くなるばかりだ。
低いハードルをいかにして華麗に飛び越えるかが人の優劣を分ける。
劣等生代表の子狸さんが大きく頷いた。
子狸「無駄な努力なんてないんだ」
このふたりの間には大きな意識の食い違いがあるようだった。
校長「ふむ……」
校長先生にとって、この勇者&子狸連合の主張は受け入れがたいものだった。
長年、生徒たちの巣立ちを見守ってきたから、個性などというあやふやなものを頼りにしてもろくな結果にならないことを知っている。例外はあっても、それが少数派であることを知っている。
校長「バウマフくん、これを見なさい」
そう言って校長先生は、肌身離さず持ち歩いているサックスを突き出した。
校長「良いかな? 曲というものは、幾つもの音が重なり合って奏でられるものだ。音の一つ一つに様々な役割があり――」
サックスを吹き鳴らす。お世辞にも上手とは言えない演奏技術だった。
校長「……わかるな? 世に名器と語り継がれるものは数あれど、欠陥を抱えたものをそうは呼ばない。これが社会というものだ」
なんとなく言いたいことはわかるが、何だかふわっとしていた。
王都のひとが呆れたように言う。
王都「無理があるだろ、そのサックスキャラ……」
校長「だまれ!」
校長先生がキレた。そんなことは言われずとも理解していることなのだ。
べつに好きでサックスを持ち歩いているわけではない。やむにやまれぬ事情あってのことだ。
しかし生徒たちの心には響いたようだ。
彼らは一斉に起立し、校長先生を称賛した。
生徒「校長先生!」
生徒「校長先生!」
子狸「校長先生!」
生徒たちに大人気の校長先生。
わらわらと群がってくる金づるに、校長先生は上機嫌だ。
校長「はァーッはっは!」
勇者「…………」
しかし勇者さんは冷たい目で裏切った子狸さんを見つめるばかりだ。
胴上げでもしようというのか、もろ足を刈ろうとしてくる子狸さんの前足をかわして、校長先生はアレイシアンさんの目を覗き込んだ。
校長「やはり父娘ですな。……その目。お父上とそっくりだ」
勇者「……そう」
校長先生は貴族ではないが、立場ある人間だ。
何かの拍子に大貴族と関わる機会があっても不思議ではない。
校長先生は感情を押し殺した平坦な眼差しで勇者さんを見てから、あっさりときびすを返した。
校長「では、私はこれで……」
大貴族の子女が本気で子狸を連れ出そうとするなら、それを止める権限は自分にはない。
校長という立場から、考え直しては貰えないかと意見するのが精いっぱいだ。
子狸「校長先生~!」
意地でも胴上げしたいらしい。背後から低空タックルを仕掛けてくる子狸を、校長先生は素早く力場を踏んで回避した。
空中で短くサックスを吹き鳴らし、教室を脱出する。
子狸「……足元にお気を付け下さい」
校長「……ああ」
急におとなしくなった子狸さんに見送られて、廊下を早歩きで去っていく。
放課後ということもあり、廊下を行き来する生徒はまばらで、窓から差し込む夕日が濃い影法師を落としていた。
校長「くくく……」
校長先生は低く嗤った。
校長「父娘だ。やはり父娘だな……。よく似ている。あの目だ。この私を見下す、あの目……! そして……」
手に持つサックスの輪郭がぐにゃりとゆがんだ。
校長「おっと」
校長先生が気を鎮めると、サックスはしゃんとした。
まだだ……。まだ早い。慌てるな。そう自分に言い聞かせて、校長先生は歩調をゆるめた。
廊下の向こうに誰かが立っている。
どう見ても生徒ではない。不審者だろうか?
……だが知ったことではなかった。校長先生は、べつに子供が好きで教師になったわけではない。不審者におくれを取るような生徒に用はないのだ。
古狸「…………」
校長「…………」
不審者(仮)のわきを、校長先生は何事もなく通り過ぎた。
交差した一人と一匹の影が、より濃く廊下に輪郭を落とし、一瞬の交錯を交えてから離れていく。
古狸「お前の自由にはさせん……」
小さな呟きが聴こえた気がして、校長先生は振り返った。
しかし、そこにはもう誰も居なかった。
気のせいだろうか? 校長先生は首を傾げて歩き去っていく。
まわりに誰も居ないことを確認してから、校長先生は口元をゆがめた。
ひどくいびつで、陰惨な笑みだった。
校長「もう少しだ……。アーライト・アジェステ・アリア……あの日の屈辱を……私は一度たりとて忘れたことはない……」
水面下では何か色々と問題が発生しているようだが、今日も王国は平和だった。
~fin~