うっかり感染編
『向かい合うとき』
子狸「王手」
前足を器用に使って駒をつまんだ子狸さんが、ズビシィィィッと将棋盤に自陣の玉を打ちつけた。
巫女「うーん……」
対局している巫女さんが、悩ましげに盤面を見つめる。
開戦と同時に単身突撃してきた玉将をあえて放置してみたのは、この子狸がいつか失策を自覚してくれるかもしれないという期待があったからだ。
敵陣深く切り込み、ついには敵将の喉元に刃を突きつけた王さまを、子狸さんは誇らしげに見つめている。言った。
子狸「わかるか? シャル」
巫女さんは二つの名前を持っている。
ひとつはユニ・クマー。
そしてもうひとつの名前が「シャルロット・エニグマ」だ。
簡単に説明すると、世に名だたる三大国家は巫女さんの研究成果を「国際指名手配犯の手柄です」とは言えなかった。
それゆえに巫女さんが学会に送りつけた論文は第三者の手によって別名義となっている。
シャルロット・エニグマというのがそれだ。
とある勇者がやらかしたため現在はユニ・クマーと名乗っている巫女さんであったが、子狸さんの言葉を訂正する気にはならなかった。もう何回か説明したのだが、だんだんわけがわからなくなってきたらしく混同が進み、ついには「いつも家にいるひと」とか微妙にイラッとくる呼び方をしてきたからだ。
すでに勝敗が決したと言っても過言ではない盤面を見つめながら、巫女さんは言った。
巫女「何かな、市民。考え直すなら今の内とだけ言っておく……」
しかし子狸さんの自信は揺るがなかった。
子狸「いいや、その必要は感じないな。お前にはわからないだろう……。いいか、コイツはおれ自身なんだ。とうとう追い詰めたぞ……? いさぎよく降参するんだ」
投了を勧めてくる子狸さんを、巫女さんはまじまじと見つめた。
じつに不思議な生きものだ。玉将で王手を掛けるという異様な状況に少しも疑問を覚えないのだろうか……。
ついっと自陣の王将を押し進め、子狸さんの玉将をぺいっと盤面から剥がしとる。
子狸「んっ!?」
まさかの逆転劇に子狸さんが長考に入った。
子狸「……なるほど。定石というわけか。そう来るとは……」
巫女「いや、どうかな……。検討に上がったこともないんじゃないか……?」
子狸「だが、これでもうおれの軍に詰みはない。さあ、どうする……」
巫女「なにぃ……?」
どちらかが完全に滅びるまで決着はないということだ。
それすら計算尽くだったと言い放つ子狸さんに、巫女さんは挑戦的な眼差しを向けた。
睨み合う一人と一匹が、不意にぱっと視線を転じた。
子狸「勝負はお預けみたいだな」
巫女「わたしの勝ちだよ」
ふたりが目を向けたのは、居間の窓だ。
同世代の少年少女と比べて優秀な魔法使いである子狸と巫女さんは、退魔性の劣化も順調に進んでいる。
退魔性の損傷が著しいということは、つまり魔法に対する嗅覚が敏感になるということだ。
いま、ふたりは魔法の感染条件を満たしている。
感染経路を開く伝搬魔法は、殲滅魔法にも使われる強力な性質だ。
魔法による補正を期待できるため、術者によってはある程度まで射線を無視できる。
しかし今回は殲滅魔法さんの出番はなさそうだった。
子狸と巫女さんの耳朶がふるえた。
伝搬魔法は糸電話みたいに遠くから声を伝えることもできる。
??「同志ポンポコ、聴こえるか?」
子狸さんを同志と呼ぶのは、巫女さんが立ち上げた環境保護団体のメンバーのみ。
覚えのある声に、巫女さんがはっとして言った。
巫女「同志アグーっ」
アグーさんは幹部の一人だ。
目端の利く中年男性で、王国を中心に活動している。
アグーさんは巫女の呼び掛けを無視した。
幹部「同志ポンポコ、返事を」
子狸「こんにちは、同志アグー」
巫女「!?」
巫女さんが凄い勢いで子狸を見た。
彼女がこの子狸を同志ではなく市民とか呼ぶのは、同志よりも友達が大事だとか何とか言われたからだ。
それなのにアグーさんのことは同志と呼ぶのか。なんとなく腑に落ちないものを感じる巫女さん。
そんな彼女をよそに、子狸さんとアグーさんは交信を続ける。
幹部「こんにちは、同志。となりにだらしない袖をした娘がいるね?」
子狸「はい。いつもこうです」
巫女「ちょっと。聞こえてる、聞こえてるー」
アグーさんは、巫女の抗議を無視した。
幹部「すまない。面倒を掛けたな。こうした形で連絡をとるのは不本意だが、私はこの国で派手にやり過ぎた。へたに接触はできない」
巫女さん旗下の幹部が出入りしていると知れれば、ばうまふベーカリーは営業停止の措置を取られかねない。
こうして遣り取りするのも、できれば避けたかったくらいだ。
幹部「騎士に見られるのはマズイ。手短に伝える。現在、そこの袖を回収する手筈を整えている。具体的な日程は未定だが、二ヶ月は掛からないだろう。そのように伝えてくれ」
巫女「聞いてる、聞いてるー」
子狸「しばらくしたら何かある、と……」
巫女「ほら、もー。すでにあいまいじゃんかよー」
巫女さんは不貞腐れた。
巫女「あなたたちはさー、なんでこちらのポンポコさんを頼るんでしょーね? もうちょっとわたしのことを信頼してくれてもいーと思うんです」
幹部「信頼?」
その発想はなかったとばかりにアグーさんが言った。
しかし巫女さんの言葉はするりと胸に落ち、腑に馴染んだ。彼女の言う通りだ。
自覚はなかったが、自分は同志ユニ・クマーに頼るという選択肢をはじめから除外していた。
豊穣の巫女は生粋のトラブルメイカーだ。
王種を味方につけるとか豪語して南海の孤島に向かったのに気付けば王都で孤立していたりと、数奇な運命を辿っている。
やはり無理なのでは……。アグーさんは思った。
へたに動き回られると、またわあわあと泣き喚きながら事件の核心に滑り落ちていきそうな予感がしてならない。
……無理だな。アグーさんは結論を下した。この巫女には前科が多すぎる。
黙って立ち去ろうとするアグーさんの背に、しかし子狸さんが声を掛けた。
子狸「同志アグー。あなたは牙を失ってしまったようだ……」
アグーさんはぎくりとした。
そんなことはない、と言おうとしたのに否定の言葉が胸につかえて出て来なかった。
アグーさんは、元々巫女さんと敵対していた組織の一員だった。
保護団体に誘われたときは寝首を掻いてやるくらいの気持ちでいたのに、巫女さんは放っておいても坂道を転がり落ちていく。
いつしか彼女をフォローすることが当たり前になってしまった。
巫女「とつぜん何を……」
話の雲行きが怪しい。巫女さんは長い袖をわさわさとやって子狸さんの口をふさいだ。
しかし、すでに放たれた言葉は返ってこない。
アグーさんが決然とした面持ちで言った。
幹部「……巫女よ。あなたは、いつでも返り討ちにしてやると言ったな」
巫女「あ、時効です。時効」
アグーさんが反骨精神に満ちあふれていたとき、巫女さんは度量の大きさを見せつけるためにはったりを口にしていた。
当時はいつ何時、誰の挑戦でも受けるくらいの心構えでいたが、それは気の迷いだ。
よくよく考えてみれば、時と場所を選んで貰わなければ困る。
幹部「いいや、そんなことはない。時効なんてことはないんだ……」
子狸「どうかな? それを決めるのはあなただ。同志」
子狸さんが止まらない。
巫女「また悪い癖が出たっ。悪い癖だ!」
素早く回り込んだ巫女さんが子狸さんの顔面を長い袖でわさわさとやった。
しかしアグーさんとて、もはやあとには退けない。過去と決別するように宣戦を布告した。
幹部「そうさせて貰おう!」
巫女「こんちきしょー!」
魂の叫びを上げた巫女さんが子狸さんの背中にしがみついた。
二対一なら、この子狸の悪路耐性を活かさない手はない。
二人揃ってはじめて使える合体技もある。
先ほど殲滅魔法さんの出番はないと言ったが、あれは嘘だ。
巫女さんとアグーさんは同時に詠唱に入った。
巫女&幹部「タク・ロッド・ブラウド・グノ……!」
同格、同性質の魔法は打ち消し合うというルールがあるから、もっとも確実な防御手段は相手と同じ魔法を使うことだ。
しょせんは机上の理屈であり、口で言うほど簡単なことではない。
しかし巫女さんにはそれが可能であった。
巫女&幹部「ドミニオン!」
バウマフさん家の床と壁を突き破って屹立したのは土の棺だ。
それらは巫女さんをおぶった子狸に届くよりも早く単なる土くれへと変貌し、光の粒子へと還元された。
土棺が穿った壁の穴から家の外へと躍り出た子狸さんが、巫女さんを背負ったまま力場を駆け上がる。
家の土台を失って崩壊していくばうまふベーカリー。
巫女さんが非難するように叫んだ。
巫女「同志アグー! あなたに土魔法の使い方を教えてあげたのはわたしだよねぇ!」
勝ち目はないぞ、と。
彼女には魔法使いとしての天稟がある。
何ができて、何ができないのか。その見極めが上手い。
さらに彼女の場合、魔法の譲歩を引き出すすべに長けていた。
イメージをすれば、感覚的にどこで妥協すれば良いのかがわかる。
だから彼女は「巫女」と、そう呼ばれる。
しかしアグーさんにとって、この戦いは失った牙を取り戻すためのものだった。
負けるからやらない、といった性質のものではない。
幹部「治癒魔法がある以上、敵を倒すよりも封じたほうが有効、か。……あなたは天才だ、豊穣の巫女。しかし、だからこそ……」
――戦って得たものでなくてはならない。
多勢は無勢に勝る。これは魔法使いにも適用される戦闘条件だ。
覆すのは容易ではない。できるとすれば、それは高速詠唱技術を修めた騎士くらいだろう。
二つの魔法が衝突したとき、打ち勝つのは開放レベルで勝るほうだ。
火力、速度といった要素は、魔法にとって状態の違いでしかない。
クッキーとビスケットが対決したとして、どちらが偉いかを決めるのは不毛でしかないということだ。
子狸「ディグ!」
一度手元から離れた魔法は遠隔操作できる。
崩れ落ちていく我が家を隠れみのに仕込んでいた圧縮弾を子狸さんが解き放った。
迫りくるそれらをアグーさんは防ごうともしなかった。
同志ポンポコの使う攻撃魔法は威力が抑えてある。
ふつうの圧縮弾が投石だとすれば、子狸さんのそれは大豆の質感に近い。あまり大きな違いではないが、覚悟を決めて正面から受ければ耐えられるくらいの差はある。
圧縮弾の滅多打ちに晒されながら、アグーさんは笑った。手加減をされている。失礼な子供だ……。しかし、ありがたい。
数の上での不利は覆しがたい。だからあえて受けた。
巫女&幹部「タク・ロッド・ブラウド・グノ……!」
再度の詠唱。
連絡を取り合う姿を騎士に見つかると面倒なことになると思っていたから、アグーさんは目視できるぎりぎりの距離に居た。
喚声を追ってくる豊穣の巫女に対し、アグーさんは対抗策を模索している。それゆえに単純な構図の撃ち合いになった。
そして決断を下した。
前に出るしかない。
じつはずっと考えていたことだ。
(先に潰すべきは、やはり同志ポンポコ……お前のほうだ)
巫女さんと敵対した人物の多くは、子狸さんを高く評価する傾向があった。
いつも厄介なポジションにいるし、巫女さんが危機に陥ったとき、彼女を決してひとりぼっちにはしない。
そこを見誤るから、鉄壁の防御を誇る巫女さんにつけ入る隙を与えることになる。
駆け出したアグーさんが屋上を伝って家から家へと飛び移る。
身体が軽い。まるで羽根のようだ。
同志ポンポコに言われるまで気付かなかったが、知らず知らずの内に自分自身を縛りつけていたようだ。
しかしそれも今日で終わる。
コッペパンみたいになった腕に、しっかりとフランスパンを握る。
食パンみたいになった子狸さんがフランスパンを高々と掲げた。
アグーさんは失敗したドーナツみたいに口元を歪めた。
(お前もか? 同志よ……)
ついに肉薄した両者が、ぽこぽことフランスパンで叩き合う。
巫女さんはちょっとお洒落にデニッシュパンだ。
子狸さんに加勢した彼女が、フランスパンを叩きつけてくる。
交差するフランスパン。
熾烈な争いを繰りひろげるパンたちを、王都のひとが戦慄した面持ちで見つめていた。
王都「“パンデミクス”……これがお屋形さまの……本当の力なのか……!」
~fin~