うっかり再起編
「死」という難解な概念を魔物たちは持たない。
悠久の時を生きる彼らだから、心の摩耗を嫌って予測が困難な激流に身を置きたがる。
それゆえに彼らは人間たちに憎まれることを願った。
愛し、愛されるのは一握りの人間でいい。それ以上は重すぎる。魔物たちはそのように考える。人間とは生きる時間が違うからだ。
悪しきを為すこの意思だけが彼らの存在を立証するものだった。
しかしここで矛盾が生じる。
長きに渡って人間たちを見つめ続けてきた魔物たちは、いつしか一つの真理に辿り着く。
可愛いは正義。
可愛ければ何をしても赦される。
――歴史の裏で伝えられてきた物語がきっとある。
魔物に歩み寄ろうとする人間が現れたように、きっと魔物たちも心のどこかでそれを願っていた。
けれど認めるのは悔しかったから、気付かない振りをした。
生まれながらに完成した生きものである魔物に「幼体」の設定が存在するのはそのためだ。
青いひとたちの幼体は、淡い体色の小さな姿をしている。
青いひとたちが「水色」呼ばわりされると激怒するのは、それが未成熟な幼体を揶揄する言葉だからだ。
それは、人間の受験生が「滑る」とか「落ちる」といった単語に過敏な反応を示すこととよく似ている。
降りしきる雨の中、道端に捨てられた幼いポーラ属が寒さにふるえている。
それでも生きようと、まだ満足に動かせない触手を伸ばして懸命に地を這っていた。
運命に抗おうとする小さな命に、ふと影が差す。
勇者さんだ。
彼女は魔物たちの天敵とも言える存在だった。
その身に宿る退魔の宝剣は、魔物たちの強靭な外殻を容易く切り裂く。
勇者「…………」
勇者は人類の代表者だったから、どうあっても魔物を赦すことはできない。
今はまだ幼い魔物も、成長すれば人間を襲う。
もしも赦してしまえば、それは自分の存在を否定するようなものだった。
勇者さんは迷わなかった。
周囲に誰も居ないことを確認してから、しゃがみ込んでお皿を地面に置く。
お皿の中には、人肌に温められたミルクが注がれていた。
おそるおそる伸ばされた水色の触手がミルクに着水する。
心なし鮮やかな体色を取り戻していくポーラ属を、勇者さんはほっとしたように見つめていた。
放課後の出来事である。
言うまでもなく、クラスメイトたちの帰宅ルートは調査済みだ。
とある子狸の介入により子供たちへの買収工作が失敗に終わった勇者さんの、乾坤一擲の策――
名付けて「気になるあの子の意外な一面」作戦は決行に移された。
今回のターゲットは副委員長である。
同性であり、クラスメイトたちに一定の影響力を持っていることから、副次的な効果を期待できると判断してのことだ。
勇者さんは「不愛想だけどいざというときは頼りになるクールな勇者、でも非情には徹しきれない面もある」ポジションを虎視眈々と狙っている。
理想を言えば施しを与えるのは子猫が望ましかったのだが、べつに家で飼う気はさらさらない勇者さんは、予測されてしかるべきクラスメイトの自宅訪問イベントで齟齬を来しかねないリスクを避けた。
仲良くなったあと、「あの猫ちゃん元気?」とか言われても困る。繰り返すが、べつに飼う気はないのだ。世間一般で庇護の対象とされる愛玩動物を、勇者さんはとくに可愛いとは思わない。
また、その点に関して魔物たちは非協力的だった。ちゃっと行って子猫を攫ってくるだけの簡単なミッションだったが、自分たちのほうが可愛いと言って譲らない。
作戦の決行を登校時ではなく放課後としたのは、副委員長に考える時間を与えるためだ。そうすることで、こちらも彼女の反応を窺うこともできる。勇者が魔物を救うのだ。それなりのリスクは生じる。
魔物たちとの綿密なシミュレーションにより計画は完璧と思われた。
だが、ほんのささいな不備がダムの決壊を引き起こすように、事態は意外な方向に進むことになる。
きっかけは勇者さんのひとことだった。
勇者「……寒い。帰りたい」
ミルクを舐めていた水色がぎょっとした。
大きな屋敷でぬくぬくと育てられた勇者さんは、寒さに免疫がなかった。
彼女の父は厳格な人物だったが、まったく必要性のない仕打ちをするような人物ではない。
冷酷とも言える態度で接する一方、一家が遊んで暮らせるほどのお小遣いを定期的に与えてもいる。
雨に濡れる演出も必要なのだと魔物たちは力説していたが、本当にそうなのかと疑問が残る。
だから、勇者さんはたったの数分が待てなかった。
勇者「この計画は失敗ね。帰りましょう」
『勇者さん、心の向こうに』
ざあざあと雨が降っている。
さくっと帰ろうとする勇者さんを、水色に身をやつした山腹のひとがじっと見つめる。訴えかけるような視線だ。
勇者さんは、何故か目を離すことができなかった。雨の中、立ち尽くす。
勇者「わたしは……」
無性に切なくなって、語尾がふるえた。
――こんな筈ではなかった。
言葉にはできなかった思いがあふれて虚しくなる。
いったい自分は何をやっているのだろう……。
勇者さんの長い髪を雨水が伝って落ちる。
冷たい雨が少女の華奢な身体を苛むかのようだ。
と、そのとき。
そっと差し出された傘が、項垂れる勇者さんを救った。
魔法の傘だ。初歩的な魔法で雨を遮ることができるから、この国で「傘」と言えば、それは斥力場を展開する盾魔法の使い方の一つでしかなかった。
子狸「お嬢」
いつの間にか背後に忍び寄った子狸さんが苦渋の表情で佇んでいた。
勇者「……なに」
いつもはまっすぐ子狸さんの目を見つめる勇者さんの瞳が、このときは不安そうに揺れていた。
子狸さんは意を決して言った。
子狸「いつまでも過去の栄光に縋ってちゃダメだ」
勇者「過去の栄光!?」
勇者さんはびっくりして大きな声を出した。
だが事実だった。
魔王を倒したことで勇者さんは救国の英雄になった。
そして、それは勇者の存在意義が失われたことを意味する。
都市級に対抗できる人間は勇者しかいないが、たった一人しかいない勇者が各地で頻発する魔物の襲撃に対応するのは不可能だ。
だから彼女は、王国の首都である王都の近隣からは離れられない。
それなのに、おそらく……魔王が倒れた今、魔物の群れが王都を襲撃することは、ない。
人間国宝級の仕事を遣り遂げたのに、勇者さんの力はもう必要とされていないのだ。
彼女は十代目の勇者で。
それ以前の歴代勇者は、魔王を倒すと人々の前から姿を消した。
けれど勇者さんは、これ以外の生き方を知らない。
やっと自分の価値を、自分を誇れる道を見つけたのに。
ざあざあと雨が降っている。
じっと見つめてくる子狸さんに、勇者さんは反論できない。うつむき、八つ当たりをするように胸の内を吐露した。
勇者「何かが……間違っているような気はしていたの。でも、その何かが……わたしには、わからない……」
彼女は大貴族の生まれだ。
だから平民とは価値観が異なる。
貴族の「常識」は平民のそれには当てはまらない。
お金の使い方にしてもそうだ。
勇者さんは「お金を惜しむな」と教えられて育った。
大貴族が私財を貯め込めば、国の経済はそこで滞ってしまう。
お金を使えば使うほど国は豊かになり、大貴族はさらに儲かる。
それなのに、子狸はお金を大事にしろと言う。
小さな子供に、お金があれば幸せになれると教えるようなことはするなと言う。
では、お金があれば幸せになれると思っている自分は何なのだ?
勇者さんは、ずっと我慢してきたのだ。
勇者「あなたは、良いわ。下心がないから、何をしても許されるんでしょ……? わたしは、あなたと同じことをしても、誉めて貰えない。傍から見れば、やってることは同じなのに……!」
子狸「…………」
子狸さんは黙して語らない。
ついさきほど寒いから帰ろうと言い出した少女が、小さな子供みたいに癇癪を起こしていた。
きつく握りしめた両手は白い。視線がふらふらとして定まらないのは、理不尽なことを言っていると自覚しているからだ。
きっと間違っているのは自分なのだろう。その思いが彼女をますます追い詰めてしまう。
勇者「なんで……! 何をしても、うまくいかない……! あなたは……ずるい……」
ぽろぽろと零れる涙は、雨と見分けがつかなかったから、せめて泣いていることを悟られまいと言葉尻がしぼんだ。
しかし王都のひとには筒抜けだった。ついに泣かしてやったという達成感がある。それは魔物に備わった本能のようなものだった。本能なので仕方ない。
本音をぶつけて少しはすっきりしたのだろう。勇者さんは荒れ狂う感情の制御に努める。
ひどいことを言ってしまった。もしかしたら子狸は傷付いたかもしれないが、謝れば許してくれるだろう。
そういうひとだ。そういうひとだから……自分とは違うのだ。勇者さんはそう思った。
子狸さんは内心で苦笑していた。下心がないとは、随分と見くびられたものだと思う。ないわけがない。ただ、維持することが難しいだけだ。
子狸「お嬢、ありのままでいいんだよ」
勇者「ありの、まま?」
勇者さんはきょとんとしている。
子狸さんは頷いた。
子狸「お嬢が、本当は優しい子だっておれは知ってる。このシチュエーションなら……どうして子猫を連れてこなかったんだ? 風邪をひいたら可哀相だからだろ」
辻褄が合わなくなるからだ。
しかし勇者さんは見栄を張ってこくりと頷いた。
子狸「だから、無理をしなくていいんだよ。ありのままでいいんだよ」
勇者「ありのまま……」
勇者さんは、ちやほやされたい。
その相手は貴族ではダメなのだ。いかにも貴族という感じの傲慢な、それでいて無駄に優秀なので領民に慕われている領主から「アレイシアンさまはご立派になられましたなぁ。いや、これも定めですかな。小さな頃から常人とは異なる何かを秘めていると思っておったのです。はっはっは」とか太鼓腹を揺らしながらヨイショされてもちっとも嬉しくない。
無知蒙昧な平民たちの尊敬の眼差しだけが自分を高みに連れて行ってくれると信じている。
子狸さんの言葉は、勇者さんの胸の奥に強く……強く根付いた。しっくり来るものがあったからだ。
勇者さんは、ちやほやされたい。しかし、それだけではなかった。
自分よりもはっきりと劣っている、有象無象の三流、格下からの称賛を勇者さんは欲している。
勇者さんはアリア家の次女だ。家を継ぐのは長子の姉と決まっている。
貴族の言葉が心に響かないのは、彼らが管理する側の人間であり、自分の下にはつかないからだ。
勇者「……そう。わたしは、ありのままの自分でいればいいのね」
振り出しに、戻った。
~fin~