うっかり落涙編
この日、ばうまふベーカリーでは新たな試みが為されようとしている。
――何かを得れば何かを失う。
対価を払わずして成果を求めようとするのは虫の良すぎる話だ。
今、損なわれようとしているものが、取り返しのつかないものではないことを祈るしかなかった。
そう、豊穣の巫女が抱える色紙に書かれているように。
役者は揃った。
この日――
ばうまふベーカリーでは、新たな試みが為されようとしている。
魔物「…………」
うつむき、無言で木目に視線を落とす魔物たちが、あたかも侵さざる聖域に足を踏み入れるかのように緊張していた。
しかしそれは一見して判別できるものではなく、傍目に映る彼らの姿は著しく覇気に欠ける。
腰からうなじに懸けて優美な曲線を描く背中は哀愁を帯びていたが、その実、ほんの僅かな脱走経路も見逃すまいとする獣じみた貪欲さを秘めていた。
逃げ出したい
逃げ出したい……
今すぐこの場から逃げ出して自由の翼を広げてみたい――
どんなことにも抜け道はある筈だ
夜空に輝く星々がそうであるように
絶望の只中にひときわ強く光を放つ
希望とは、そういうものだ
その希望を押しつぶさんと父狸が迫る。
死を司る神がそうするように、父狸は一枚一枚お皿をテーブルに置いていく。
背後から伸びる前足は、生命を刈り取る長柄の鎌だ。
お皿を置くたびに、父狸は耳に囁きを落としていく。
父狸「程々にな……?」
庭園「…………」
魔王の座を退いてからというもの、この大きなポンポコは次世代へとバトンを継ぐように表舞台より姿を消した。
魔物たちとの関わりを意識的に控えていたから、語り尽くせない言葉があった。
厄介事が片付いて、けれど今更になってという思いがあったから、魔物たちへと贈る言葉は端的になる。
配膳が終わった。
お皿の上に乗っているものは「パン」だ。
ばうまふベーカリーは「パン」を扱っている。
ベーカリーはベイクから来ている。「焼き固める」を意味し、同じ調理でも例えば魚を焼く場合はベイクとは言わない。
それなのに、巫女さんは一瞬ここがパン屋であることを忘れた。
率直な感想を漏らしてしまったのは、それが礼を欠いた行いであるかどうかの判断がつかなかったからだ。
巫女さんは言った。
巫女「えっ。虫?」
すかさず父狸が訂正した。
父狸「根を張るパンだ」
ばうまふベーカリーの新たな試み、その名は「根を張るパン」。
その形状を既存の言語で表現することは難しい。とても難しい……。
が、あえて誤解を恐れずに言うならば、巨大なダンゴ虫に寄生した何かが宿主を苗床に羽化する瞬間を奇跡的に捉えた衝撃映像のようだった。
勇者「…………」
衝撃映像を目の当たりにした勇者さんの表情がすとんと落ちた。
十代目の勇者、アレイシアン・アジェステ・アリアは、目には見えない不思議な力を持っている。
それは「異能」と呼ばれるもので、彼女は自分自身の心をある程度まで自在に操ることができた。
異能とは、人ならざる力。魔法とは異なる、魔物ではないもの。名付く――正しくを「異種権能」と言う。
三大国家の騎士団を率いて魔都へと攻め入り、光の剣を手に魔王を討ち果たした少女が、今――異種権能を発現した。
きっと勇者さんは、こうなることを予測していた。
かつてばうまふベーカリーを訪れた王国宰相は、この店のパンを「まるで魔物のようだ」と評した――
少し調べれば、おぞましい、いや、これは悲しいと表現するべきなのだろう……悲しい形状をしたパンを扱っていることはすぐにわかる。
それなのに勇者さんは、まるで「それが当然であるかのように」調査を怠った。
今日という日を待ち望んでいたかのような発言は、彼女が意識的に事態を甘く見ていたからだ。
約束をしたからだ。
旅の途中。もしも生きて帰れたならば、いつかは、と。
狐娘「…………」
淡い詠唱は細かな気泡が海に溶け込むようだ。
五人姉妹の姿がまるで蜃気楼のように掻き消えた。
アリア家に拾われ、勇者さんに養われて生きてきた彼女たちには、都合が悪くなると急な用事を思い出す高い志があった。
そうでなくとも、大貴族の子女であり救国の英雄でもある勇者さんを付け狙うものは多い。
勇者と、そうではない人間を明確に隔てるものとは何か。
天性の素質? 弛まぬ修練? いいや、違う。答えは「聖剣」だ。
もう一度言う。凄いのは武器なのだ。
だから勇者さんの資質を疑問視するものはどこかに、しかし確実にいる。
事実、勇者さんのステータスはある一面において幼児と酷似した数値を指し示すことがある。
奇しくも飛び入り参加した煮炊きイベントで、おたまを持つ手が酷使に耐えかねて職務を全うできなかったことが彼女の評価を不当に貶める一因となっていた。
けっきょく使い物にならなくなった勇者さんの代わりに前足を振るった子狸さんが、見るに堪えないとばかりに首を振った。
子狸「父さん……」
ぱっと顔を上げた魔物たちが一斉に子狸を見る。
子狸さんは言った――
子狸「このパンは出来損ないだ。食べられないよ」
父狸「ほう……?」
言ってみろとばかりに父狸が泰然と前足を組む。
朝から晩まで麦粉を練る前足は発達していてたくましい。
いったいどれだけのパンを焼いたのか。余人には計り知れない苦労もあったろう。挫折したことも一度や二度ではない筈だ。
それでも……
子狸さんは思った。
血を分けた肉親だからこそ、自分が言わねばならない。
他の誰にも。魔物たちにですらそうだ……
この役割を譲ることはできない。いや、譲るべきではない。
子狸さんは言った。
子狸「出しなよ。あるんだろ……? とっておきの隠し球が」
魔物「…………」
魔物たちは目線を戻した。
ふっ……。父狸は苦笑した。
父狸「パン屋の子はパン屋というわけか……」
血は争えないとか何かそうした意味なのだろう。
父狸は子狸さんの言いぶんを認めた。
父狸「そうだ。この根を張るパンは、まだ完成じゃない。続きがある」
そう言っていったんパン工房に戻った父狸が持ってきたのは、小さなクッキーだ。
小さな、人型のクッキーだった。
父狸「最初はこれを上部に飾り付けするつもりだったが、どうしても蒸気を吸って食感を損なってしまう。そこで……」
苦心した末に、父狸は斬新にもパン本体からクッキーを切り離すことを思い付いたのだ。
ダンゴ虫の足に当たる部分に人型のクッキーを惜しげもなく並べていく。
完成体へと移行した根を張るパンに、巫女さんが呆然と呟いた。
巫女「養分……?」
父狸「もうわかっていると思うが」
父狸は瞑目した。
父狸「……このパンは、ここにいる、とある魔物をモデルにしている」
耳を澄ませば、漏れ出でる嗚咽が聞こえた。
父狸は聞こえなかった振りをした。
父狸「そいつは、長い……とても長い旅に出ていた」
すすり泣く声がした。
父狸はやはり聞こえなかった振りをした。
父狸「百年が経ち、二百年が経っても、そいつは戻ってこなかった。事情があったんだ。とても複雑な……」
いよいよ平坦な口調を保つことが難しくなって、父狸はゆっくりと目を開いた。
木のひとが泣いていた。
ダンゴ虫を見て、泣いていた。
父狸も泣いた。木のひとの枝に前足を置き、それが最後に残された矜持であるかのように泣き顔だけは見せまいと歯を食いしばった。
父狸「ばかやろう……! 泣くやつがあるか……。お前は……お前はな……他の連中が……あいつらが……どれだけ……どれだけの……」
あとはもう言葉にならなかった。
肩を抱き合ってむせび泣く父狸と木のひとに、感極まった母狸さんが口元を手で押さえた。
母狸「……!」
ぽろぽろと零れる涙が、根を張るパンに光合成を促すかのようだった。
巫女「うんうん……」
事情はよくわからないが、巫女さんはとりあえず頷いている。
巫女「うん?」
なんかおとなしいなと思ってとなりを見ると、子狸さんが覆面ナイトキャッパーに変身していた。
巫女「おぉ……」
おぉとしか言いようがなかった。
王都のひとのナイトキャップを頭にかぶったらしい。よく見ると、目の辺りが気持ち悪いくらい濡れている。号泣、待ったなしだ。
勇者「…………」
愛の戦士・ナイトキャッパーは泣いている。愛を知らない勇者さんのぶんまで泣くのだと言わんばかりだ。
ナイトキャッパーの素顔を知るものはいないが、その正体は何を隠そう子狸さんである。
魔物たちのオリジナルは二十四人。
しかし子狸は、ずっと二十人くらいだと思っていた。
具体的な人数を聞いても、魔物たちはずっと明言を避けてきた。
そこに深い意味はないのだと思っていた。
魔物たちは、木のひとが旅に出ていることをずっと内緒にしていた。
もしも教えてしまったら、子狸さんは追いかけて行ってしまうだろう。
どこまでも。何があろうと連れ戻そうとするだろう。
だから言わなかった。
もしも、やっぱり連れ戻せなかったなら、きっと子狸は後悔する。
後悔して、魔物たちに詫びただろう。
だから言えなかった。
魔物「…………」
魔物たちは、無言でもそもそとパンを食べた。
根を張るパンは
少し、しょっぱい
涙の味がした。
彼らは空気を読める魔物だから、「そりゃ泣きたくもなるわ」とは言わないのだ。
『宴のあとに』
~fin~