うっかり起床編
この世に普遍的な価値というものはない。
しかし、もしも誰しもが認める「美しいもの」があるとすれば、それは一人では絶対に手に入らないものになるだろう。
ひとは誰だって自分が可愛い。命を惜しむのは当然のことだ。
それなのに取り返しがつかない筈のものが、まるで無価値であるかのように散りゆく戦場だから、きら星のように輝きを放つこともある。
魔物「…………」
先代魔王がパンを焼き上げた。
たったそれだけのことが今はこんなにも悲しい。
ひとは、なにゆえ争わなければならないのか――
命とは何か。その価値とは?
かつて魔物たちに問うた勇者がいた。
その問いに、当時の魔王は生卵とゆで卵の見分け方を授けた……。
最期の瞬間、ひとの本質は残酷に試される。
魔物たちの胸に去来した思いは、「何故」という二文字だった。
深くはツッコまなかった事柄が、今更になって何か重要な意味を孕んでいた気がした。
それは後悔だ。
全力で生きてきたつもりだった。悔いが残らないようにと、ドミノ倒しみたいに綿密な計画を練ってきた。
それでも何か見落としてきたことはなかったろうかと、今になって思う。
くるくる
くるくると
回る卵が
脳裏に焼き付いて
離れない――
乾いた靴音が室内に響く。
コツ……
コツ……
長い後ろ足をゆっくりと前後する父狸の身のこなしには隙がない。
新作パンを乗せたお皿が複数枚、失敗した衛星みたいに周囲を飛び交っている。
パン屋にしておくには惜しいとまで言われる、この大きなポンポコが先代魔王だ。
不敵に笑う。言った。
父狸「お代わりはたくさんある……」
『宴のしまつ』
魔物「…………」
魔物たちは悲鳴を上げ損なった。
言葉の意味を理解するだけの余裕がなかったからだ。
ばうまふベーカリーで定期的に開催される試食会は、魔物たちの意見を参考に至高のパンを追及する場だ。
通常であれば、一人につき一つのパンがノルマになる。
しかし今回、父狸はよほど自信があるのだろう。ノルマの増加を宣告してきた。
食べ残すという選択肢は、魔物たちにはない。
かつて魔王だった頃、この大きなポンポコは前衛と後衛の両方をこなせるオールマイティな魔法使いだった。
魔物たちの教育水準は現代のそれを大きく上回っている。だからこの大きなポンポコは、きっと将来の子狸さんがそうであるように、野球で言うところのエースで四番打者みたいな存在だった。
完璧超人というやつだ。
しかし完璧超人には完璧超人なりの悩みもあった。
戦いに明け暮れる日々。自分にしかできないことがあり、そしてそれはおのれの全てを投げ打ってでも成し遂げたいことだった。
いつ何があっても不思議ではなかったから、将来は父の跡を継いで森の愉快な仲間たちの一員になるのだろうと漠然と考えていた。
いつしか諦めていた夢。
忘れかけていた情熱がよみがえったとき、この大きなポンポコは生まれてはじめて魔物たちに頭を下げた。
パン屋になりたかった。小さな頃からの夢だった。
しかし、ずっとそれをひた隠しにしてきたから、父狸にはパン屋としての資質がことごとく欠けていた。
きっと魔法で補うことは可能だった。ごく一部の強力な魔物は「射程超過」と呼ばれる魔法を使える。これは簡単に言うと、この世界に存在する要素から該当する知識を引きずり出して再現する魔法だ。
例えば、この世界には内燃機関を積んだ自動車なんて当然ないわけだが、自動車を知る魔法使いがこの世のどこかにいれば、この世界には「自動車に関する知識」が存在することになる。
射程超過さんは、魔法使いが魔法に心を許していることを良いことに自動車の設計図を無断で拝借することができる。
魔法にとっての「距離」は近似の関係にあるかどうかで決まる。
似ているものは近いから、腕を伸ばせば簡単に手が届く。高度な魔法環境において、物質的な隔たりはあまり大きな意味を持たないのだ。
だが父狸は射程超過に頼らなかった。それは同業者への敬意と対抗意識から来る意地だろう。
パン工房に立つとき、この大きなポンポコははじめて魔王としてではなく同じ哺乳類として人間と同じ土俵を踏める。
そうした経緯を身近で見守ってきたから、魔物たちはこの場から逃げられない。それは勇者が魔王から逃げられないのと同じことだった。
希望は断たれ、絶望だけが真綿で首を絞めるように魔物たちの胸中にじわじわと広がっていく。
しかし本当にそうだろうか……?
暗闇にあがく魔物たちが一筋の光明を見出したとき――
子狸「そこまでだ!」
颯爽と現れた子狸さんが高々と鳴いた。
ぱっと顔を上げた魔物たちが一斉に子狸さんを見る。そこには多くの諦めと、しかし隠しきれない期待があった。
王都のひとも一緒だ。
王都「…………」
やはり無言である。
うっかり寝過ごすつもりだったのだろう。未練がましく装着しているナイトキャップが王都のひとの心情を雄弁に物語っていた。
巫女「また無駄な演出を……」
巫女さんは自らが置かれた苦境への自覚が欠けている。
勇者「おはよう」
勇者さんは意識的に事態を甘く見ていた。
子狸「ッ……」
二階の巣穴からのこのこと飛び出してきた子狸さんは、自分の家に女子が二人いるという予想だにしない展開に目を見張る。
勇者さんの誤解を招かないよう、二人が鉢合わせになることだけは避けてきた。
今日の試食会に勇者さんが参加することは聞き及んでいたし、居候している巫女さんが家にいることも理解はしていたつもりだ。
それについて何の対策もしなかった自分の見通しが甘かった。
しかし今は……
子狸さんは注意深く二人を見つめてから、きつく瞳を閉ざした。
この小さなポンポコは、最後の最後には魔物たちの側につく。
つまり極限まで追い詰められたとき、人間たちの手を取ることはないだろうということだ。
そこに例外はない。
子狸さんは思った。
(いつかは……)
勇者さんに話す日がやって来るだろう。
魔物たちのこと。そして自分の正体が魔王であるということ。
勇者さんは自分の正体を知らないから仲良くしてくれているが……
子狸さんは自嘲した。
(ぎ……出来レースだな)
欺瞞という言葉が出て来なかった。
いや、それすら気の迷いだ。
迷ったときは頭の中で三秒数える。魔物たちに教えられたことだ。
いったんは閉ざした視界が開かれたとき、子狸さんは全ての雑念から解き放たれていた。
勇者「おはよう」
返事をして貰えなかった勇者さんが繰り返した。
しかし雑念を捨てた子狸さんにとって、今や彼女は勇者さんと同じ姿、同じ声をしたエア勇者さんでしかなかった。
寝起きということもあり、見ることと聞くことを同時に行うことは困難な状況下にあるが――
深い集中状態にある。
魔物たちの手で英才教育を施された子狸さんは、安全性に最大限考慮した上で崖から突き落とされたこともある。
走馬灯の再現とかは肉体の構造上、不可能であることが判明した。
しかし魔法使いならではの感覚を鋭敏化、あるいは広角化する技術は体得している。
父狸「いい目だ」
子狸さんの目から見た実の父親は、この世でもっとも魔物に近しい存在だ。
どうしてこんなになるまで放っておいたんだと思うほど退魔性が劣化しており、その身に宿る魔力はほとんど人間としての原型をとどめていない。
目を凝らせば、魔物たちとの間に目には見えない血管みたいなものでつながっていて、どくどくと脈打つたびに魔力が変異しているように感じる。
子狸「父さん」
短く告げた、その言葉は切なく。
勇者「おはよう」
勇者さんの三度目の声を合図に、二人は同時に動いた。
上体を揺さぶりながら接近した子狸さんの輪郭が左右にぶれる。闇魔法による分身だ。
子狸さんの分身魔法は、一般的な騎士と同程度の高い水準にある。
二体の分身が散開し、テーブルの周りをぐるぐると回る。
これに対し、父狸が生み出した分身は五体。子狸さんが知る限りにおいて最強の魔法使いが自分の父親だ。
光魔法と闇魔法は互いに拮抗する性質を持っている。
光と闇がスパークし、飛び散った粒子が食卓に降り注ぐ。
父狸は言った。
父狸「お前と同じ年頃には、おれは三体の分身を操ることができた。……少し甘やかしすぎたようだな?」
後半の言葉は魔物たちに向けたものだ。
自分が魔物たちよりも優れた先生になれるとは思っていない。彼らは魔法そのものであり、退魔性などというものは最初から備わっていない。
一方、人間の退魔性はどれほど劣化しても完全になくなることがない。劣化の計算式は引き算ではなく割り算で求められる。良質で重要な退魔性ほど必死に生き残ろうとするから、劣化が進んだ人間のそれは、どろりと濃く甘い蜜のような味がする。
子狸「くっ……」
子狸さんには答える余裕がない。
魔法の行使にはイメージを要する。外部からの干渉でイメージを逸脱した魔法は夢か幻のように霧散する。
だが子狸さんの退魔性もまた一流レストランのシェフが手掛けたかのように上質だ。ぴりりとスパイスが効いていて、魔法の舌をうならせ抑制をにぶらせる。
おれも、おれもと群がるから、ルールがどんどんあいまいになっていく。
相手が極上の霜降り肉みたいな退魔性を持つ父狸だったから尚更だった。
肉薄する。
二匹のポンポコが踊るように位置を入れ替える。
後ろ足を軸に旋回した二匹が、あたかも目には見えない刃を交えるかのようだ。
子狸「ディレイ!」
持久戦は分が悪いと察した子狸さんが前足を左右に広げて力場を展開する。
地を這うように迫る父狸の後ろ足を飛び上がって回避すると、逆上がりの要領で身体を持ち上げてもう片方の力場を蹴る。
子狸「はぁっ!」
空中で一回転した子狸さんが器用に後ろ足を力場に引っ掛ける。
刻むように力場を駆け下り、そして着席した。
子狸「今回は自信作みたいだね」
父狸「まぁな」
魔物「…………」
魔物たちは目線を戻した。
巫女「え。何だったの、今の軽いバトル」
巫女さんの指摘に、母狸さんがのろけた。
母狸「よくああやって遊ぶの。気にしないで。子供みたいなひとだから……」
父子の幻影が周囲をぐるぐると回り続けている。
勇者「…………」
勇者さんは、じっと子狸を見つめている。
その視線に気付いた子狸さんが表情を引き締めた。
子狸「お嬢」
勇者「なに」
子狸「おれは……君に何かを伝えなくちゃいけない。けど、今は……思い出の中にしまってある。そう、大切な何かをね……」
勇者「忘れたの?」
子狸さんは推し進めた。
子狸「宝箱さ」
そう言って子狸さんは力なく笑った。
それは、胸を締め付けられるような寂しげな笑みだった……。
~fin~