うっかり策謀編
雲一つない青空。
風は穏やかで、春の陽気に心は浮き立つ。
絶好のピクニック日和だ。
こんな日くらいは諍いを忘れて、昼下がりに競馬場でのんびりするのも良いだろう。
なんだかわくわくしてきた。午後の予定を考えながら、蛇のひとは陰鬱な声で囁いた。
蛇「首尾はどうだ……?」
蛇のひとは、魔王軍のナンバー2と目される強力な魔物だ。
さすがに王種には及ばないが、単独で一国を滅亡に追いやることも可能だろう。
王種は強すぎて人間ではどうしようもないため、あれこれと理屈をつけて魔王軍とは距離を置いている。
はっきり言って蛇のひとからして人間では太刀打ちできないのだが、それを認めるのが悔しい人間たちは「イケるイケル諦めんな。諦めなければ勝てる。どうして今諦めた。諦めたから負けたんだ」と主張している。
蛇のひとは「都市級」の魔物だ。
これは「人間と敵対している魔物の脅威度を表す値」としては最上位のもので、「国家級」「世界級」という分類は存在しない。何故なら、騎士団の公式見解によれば諦めなければ勝てるからである。
ただし時として妥協することも必要だ。それは子狸さんを見ているとよくわかる。妥協を知らない人間は、とめどもなく理想を追いかけるから誰もついていけなくて授業中に強い既視感に苛まれる。
珍しく授業に参加した子狸さんが「時空がループしている……?」とか言い出した頃、蛇のひとは騎士団の一個小隊と相対していた。
首尾を尋ねた蛇のひとに、一人の騎士が進み出る。
騎士「上々だ。しかし聞きたい。エルフの子供など攫って、いったいどうするんだ?」
蛇のひとは強力な魔物だから、彼の「お願い」を断ることは人間にとってとても難しい。
蛇のひとが、すっと目を細めた。
見られている、と意識した騎士の身体が緊張に強張る。
蛇のひとは言った。
蛇「お前たちは知らなくとも良いことだ。……が、いいだろう」
ただ働きをさせてしまったから、忍びないと思ったのだろう。蛇のひとは今この場で思いついた動機を惜しげもなく晒した。
蛇「エルフどもの精霊魔法は未解明な部分が多い。いざとなったとき……では調べようというのは間抜けのすることだ。お前たちも少しはおれを見習うことだな……」
嘘である。
人間の国に属する騎士が、エルフの子供を攫った。蛇のひとが欲しているのは、その事実だ。
そして……
狡猾なる蛇の王は思った。
(今日のレースはカタい。そのぶん倍率は低いが……堅実でいい。その堅実さがいい)
内心を悟られぬよう、蛇のひとは急かした。
蛇「安心しろ。約束は守る。そういうものだからな……。グラ・ウルーにはうまく言っておこう……」
騎士「そ、そうか」
騎士は安堵の吐息を漏らした。
グラ・ウルーというのは、馬のひとの本名である。
騎士たちが蛇のひとのお願いに耳を貸したのは、お馬さんの散歩コースが密接に関わっていた。
魔王軍最強の戦士と謳われる魔人に正面切って意見できるものはごく限られる。蛇のひとは、その数少ない一人だった。
全長は十メートルを下るまい。見上げるほどの巨体が鎌首をもたげてこちらを見下ろしている。
騎士たちは知っている。この猛悪たる毒蛇から、国は自分たちを守ってはくれない。
対抗できるとしたら、それは勇者くらいしか居なくて、けれど彼女はここから遠く離れた王都に居る。
都市級に真っ向から戦いを挑める勇者を、国はお膝元から手放しはしないだろう。
人は妥協せねば生きていけない。
騎士「約束のものだ。確かめてくれ」
そう言って騎士は、肩に担いだ大きな袋を放り投げた。
たっぷりと砂を詰めた袋だ。ここまで担いでくるのは骨が折れた。
蛇のひとの大きなあぎとが凶悪な険を帯びる。
蛇「……なんのつもりだ?……ニンゲン……」
すると騎士は、大仰に肩をすくめてから仲間たちと視線を交わした。
騎士「ああ見えてエルフはすばしっこくてな。昨日も鬼ごっこをしたんだが、逃げられちまった」
蛇「……なんの話をしている?」
騎士「まぁ聞けよ。あいつら、こっちの言葉をまだろくに覚えてないくせに、おれのことをおじさん、おじさんと呼びやがる。お兄さんと呼べと教えたんだが……。まあ、つまりだな」
その言葉を合図に、騎士たちが一斉に散開した。
人は妥協せねば生きていけない。
だが、譲ってはならない一線もある。
騎士は吠えた。
騎士「掛かって来やがれ!このうすのろ!」
戦端が開かれた。
蛇のひとの巨体が迫る。
蛇「お前たちに選択肢を与えたつもりはない……」
それは、今日のレースが必勝と言えるほどであることと同じくらいの確かさだった。
その筈だった。
蛇「もう少し賢いと思っていたのだがな」
蛇のひとをうすのろ呼ばわりするだけあって、騎士たちの戦速は常人の域にはとどまらない。
兵は拙速を尊ぶ。拙速は巧遅に勝り、一瞬の判断が生死を分かつ戦場では成功するよりも失敗することのほうが多い。
完璧な結果などない。遅きに失する、そればかりだ。
だから速く。
速く、速く。
もっと速くと、先には立たぬ後悔が、だから背を押し、急き立てる。
どこまでも速さを追い求めた戦士が、この世界の騎士だ。
残念だ、と呟いた蛇のひとを、十数もの光槍が串刺しにした。
槍魔法の貫通力は、他の追随を許さない。
全身を厚い鱗で覆われた蛇のひとは、頑強という面では魔王軍で並ぶものが居ない。槍魔法に圧縮弾ほどの柔軟性はないが、高い耐久性を持つ魔物に対してはもっとも有効な手段だった。
しかし蛇のひとは、そもそも人間が勝てるパラメーターにはなっていない。
突き刺さった光槍が砕け散ったとき、蛇のひとはまったくの無傷だった。
エフェクトは入ったものの、ダメージ判定が通らなかった。それゆえの結果だった。
槍魔法がまるで通用しないというなら、何をしても無駄ということになる。
騎士たちは諦めるべきだった。
それなのに彼らは躊躇うことなく次撃を問う。
何をしても無駄なら、本当に無駄かどうか試してみるのが騎士だ。
魔法を使えば使うほど、人は魔法に近しくなる。
戦いに身を沈めたとき、魔法使いは際限なく成長していく。
しかし現実は神話のようには甘くない。
人間の身体は、怪物を倒せるようには出来ていない。
そのあたりの基本的な事項を無視した勇者さんだから、ちやほやされて何か勘違いしてしまったのか、偉い人が嫌がる勇者像を地で行く結果になってしまったのだ。
講演に招かれてキメ顔で「わたし一人の力ではありません」とか言っている場合ではない。
歴史に名を残すことはないだろう、ただの人間たちが戦っている。
彼らは物語の主人公にはなれない。たまの休日を酒場で過ごし、執拗に魔物に絡まれる上司を見て「ああはなりたくねーな」と思い、過酷な訓練の毎日に体力が尽きた演技ばかりがうまくなる。
仕事が中心の生活だ。曜日の感覚はとうに擦り切れ、今日の日付も即答できない。結婚記念日は記憶の彼方に押しやられ、子供の運動会は千鳥足だ。うだつの上がらない人間だ、下らない人生だと自分でも思う。
この先、生きていてもきっとヒーローにはなれない。子供のときに夢見ていたような、新しい人生の幕開けなんて死ぬまで訪れない。けど心のどこかでは期待をしている。
下らない人間だ。自分でもそう思う。
そんな人間にも、守りたいものはある。譲れない矜持がある。
騎士「騎士がガキ攫ってどーすんだ!ばーか!」
当然のことを言われて目を丸くした蛇のひとが、牙を剥いて笑った。
蛇「それでこそだ!」
なんの前触れもなく、一人の騎士が気絶した。
蛇のひとは都市級の魔物だ。都市級の魔物と、そうではない魔物の間には隔絶した力差が横たわっている。
できること、できないことが、はっきりしているということだ。
蛇のひとは素早く詠唱し、その詠唱に要した時間を別の魔法で押しつぶした。
魔法は「異世界の法則」だ。
魔法にとって「時間」は「一つの物体」に過ぎず、包括的な事象ではなかった。
だから「詠唱に要した時間」がなかったことになったとしても、「詠唱した」という事実は残る。
食パンの耳を先に食べてしまっても、サンドイッチを作る分には問題ないということだ。
また一人、騎士が倒れた。
蛇のひとは、目が合った人間をただの一瞥で戦闘不能に追いやる。
百も承知の事柄だ。
対処法は目を合わさないこと。それ以外にはない。
だからと言って目をつぶるのは悪手だ。視覚を閉ざしてしまっては魔法が作動しない。肉弾戦でどうにかなる相手ではない。
目を逸らしても同じことだ。詠唱を破棄できる蛇のひとは、可視光線を自在に操れる。
眼前に現れた映像が、騎士たちの意識を閉ざした。
これが都市級。魔王軍のナンバー2だ。
勇者だけが都市級を打倒しうる。だから勇者ではない人間が、都市級に勝てる設定になっていない。
蛇のひとは感想を述べた。
蛇「弱すぎる」
一人、残った。
一人では魔物に勝てないとわかっていたから、騎士は多対多の戦闘技術に重きを置く。
騎士団の戦力のかなめとなる高速詠唱は、一人では使えない。互いに詠唱を補い合う技術だからだ。
勝てない。しかしそんなことは、戦う前からわかっていたことだ。
たった一人でも、騎士は獰猛に笑った。
騎士「ははっ……!」
蛇のひとも嬉しそうだ。
二股に割れた舌を突き出し、質問タイムに突入する。
蛇「犬じに、だな。今、どんな気持ちなんだ?……おれは生まれつき強かったからな。弱い生きものが負けを覚悟で戦いに挑む……どのような気持ちなのか……興味がある……」
もうそれしか出来なかったから、騎士は軽口に応じた。
騎士「そうだな……。言葉にするのは難しいが……」
彼はもったいぶって言った。
騎士「……案外、どうにかなるんじゃないか。そんな気持ちだ」
蛇「!」
蛇のひとが素早く後退した。
空から降ってきた何かが、騎士を取り囲むように地面に突き刺さった。
白い、サソリの尾に酷似したそれ。
あとを追って着地したのは、八脚の足を持つ蜘蛛型の精霊だった。
蛇「ちっ……」
蛇のひとが露骨に嫌そうな顔をして舌打ちした。
精霊の上には、精霊を使役するもの……エルフが上品に腰掛けている。蛇のひとを見つめ、ため息を吐いた。
エルフ「メノゥ。また悪さをしているのですか」
エルフたちは、魔物のことを「メノゥ」と呼ぶ。
このとき、蛇のひとは事件の全貌を悟った。
罠だ。はめられた。
最初から連中はそのつもりだったのだ。
また自分が悪者になっている……!
蛇「そうやって、さも自分たちは人間の味方であるかのように装うのだな……。浅ましいぞっ、エルフども……!」
魔物たちのエルフ嫌いは有名だった。
その理由は定かではないが、とある子狸が「アザラシみたいだ」とか言って懐きはじめていることと無関係ではあるまい。
すかさずエルフは言い返した。
エルフ「あなたたちの執念には脱帽です」
精霊の召喚は、レベルに応じて一定のコストを消費する。
蛇のひとと同格の精霊であれば、これはレベル4ということになる。
蜘蛛型の精霊はレベル1だ。
はっきり言って蛇のひとの敵ではない。
しかし、もはや勝てば良いという問題ではなくなっていた。
よりどちらが愛らしく
そしてピュアな精神の持ち主であるか。
戦いは次なるステージへと移行した。
果たして蛇のひとは身の潔白を証明できるのか。
闇の中、ひそかに息づく小鬼たちの目がきらめく……。
帝国「いいダンジョンだ……」
王国「午前中にここまで掘り進めよう」
連合「ふっ。エルフどもめ……今に化けの皮を剥がしてくれよう」
〜fin〜