うっかり解放編
『譲れないもの』
Misson!
魔物たちを撃退せよ
勝利条件:子狸の捕獲
その日、校内は混乱の坩堝にあった。
詳しい状況はわからない。把握している人間がいない。
突発イベントだ!
王立学校では、ときとしてまったく意味のわからないミッションが発生する。
そして、それらは内容の如何を問わずして、とある子狸を捕獲することが事件の解決へとつながる。
そうしたとき、真っ先に事態の回収に動くのが子狸さんの担任教師だった。
このとき、まだ勇者さんは転入してきていない。
出席日数を犠牲に世直しの旅に出た子狸さんのこのこと戻ってきたのが、およそ一ヶ月前の出来事だった。
この時点で既に学年の枠組みを超越したクラス替えが内定している子狸さんであるが……
今は、まだ。
教官「バウマフ!どこだ!いたら返事をしろ!」
子狸さんの担任教師は、妙齢の女性教諭だ。
奇しくも子狸さんが入学した年に赴任した新米教師が、今や立派な荒事専門のベテラン教師である。
彼女は、酔っぱらって校内に侵入した魔物の群れを丁重にお帰り頂くほどの実力者だった。
しかし過去の経歴を抹消されているためか、いささか職場の人間関係に難がある。
子狸さんの才覚に逸早く気がつき、根気良く観察してきた彼女を、魔物たちは敬意を評して「教官」と呼ぶ。
教官「バウマフ!どこだ!ここか!?」
ちなみにバウマフというのは、子狸さんの家名である。これは人間で言うところの「苗字」に当たり、先祖代々継承されてきた名前の後ろにつく偉大なる称号であった。
近くにいれば、たいてい「待てと言われて待つバカはいませんよ」とか言ってひょっこりと姿を現してくれるのだが、生徒の成長を信じている教官は念入りに壁の中に埋まっていないか調査する。
子狸さんの高い技量を以ってすれば、コソ泥みたいに風景に溶け込み一体化することも可能だ。旅の途中、気配を殺すすべを体得したらしい。成績にまったく関係ない分野で優秀な実績を収めるポンポコなのだ。
廊下をひた走る教官。気ばかりが焦る。こんなことなら職員会議に出席せず、とりあえず捕獲しておけば良かった。だが放課後に生徒の身柄を拘束するのは躊躇われる。
教官「!」
はっとした教官が飛び退いた。
次の瞬間、校庭に面した窓ガラスが破砕する。
派手に飛び込んできたのは、骨格標本みたいな魔物。骨のひとだ。
歴戦の佇まい。具合を確かめるように、開閉する片手に視線を落としている。骨のひとは言った。
骨「パン食い競争だと……?」
魔物のステータスは、相対する人間の退魔性によって上下する。
この日の職員会議では、運動会のプログラムについて話し合った。
先の大戦で大打撃を受けた王都は復旧のさなかにある。だからと言って校内行事を見送るわけには行かなかった。
運動会の見学は有料制であり、父兄による確実な収益を見込める。だから王立学校は、生徒たちの健やかな生育の機会と、そして入場料金を惜しんだのだ。
この国は、今、苦境に立たされている。
だからこそ、みんなで助け合うなどという幻想を捨て、ひとりひとりが高い意識を持って貯金残高という現実に立ち向かわねばならなかった。
だが、それすら魔物たちにとっては些事だ。
人間と魔物は別の生きものだ。それが全てだった。
生きる世界が違う。
見える世界が違う。
今年のパン食い競争には父兄も参加してもらう。たったそれだけのことが、魔物たちにとっては何か別の意味を持つかのようだった。
骨のひとは言った。
骨「……本当に必要なことなのか?それが」
地を這うような低い声。
まだ日は沈んでいない。にも拘らず、立ち昇る妖気が視界を濃く塗りつぶすかのようだった。
教官は、にっこりと微笑んだ。
教官「どけ」
いらえは無用。
ある一定以上の領域に達した魔法使いは、魔法の行使に際して他者の観測を必要としない。
口内に溶けるような淡い詠唱は、彼女が骨のひとを生徒と見なしていない証左だった。
駆け出す。
指先に幾つもの光が灯り、それらはたちまち矢となった。
緩急を交えながら接近し、弧を描くように手を振る。放たれた光の矢が空中で膨張し、槍となって降り注ぐ。
反撃を予感した教官は、戦果を確かめるよりも早く複数の力場をばら撒いた。
魔物は、人間よりもうまく魔法を使う。魔法の才能という面では、およそ天才と称される人間なら一般的な魔物と互角に撃ち合えるといったところだろう。
だから教官は撃ち合いを選択しない。
半数の光槍が進路を変え、校舎の壁を切り刻んだ。見晴らしの良くなった廊下から、教官は身を投げる。
反撃の圧縮弾を、前もって設置しておいた力場が阻んだとき、彼女は既に次の詠唱を終えていた。
天地逆転した視界の中、落下をはじめた壁材が重力に抗うかのようにゆっくりと沈んでいく。
減速魔法と呼ばれる、運動速度を緩和する魔法だ。
骨のひとの圧縮弾は、幾つかは切り刻まれた壁材に着弾していた。
粉塵を掻き分けるように、ぬっと骨のひとが顔を出す。
至近距離。両者の視線が交錯する。
骨のひとはあざ笑うように言った。
骨「つらいよな?先生は。下に生徒がいたら怪我をするかもしれない。見え透いているぞ……」
だが魔物もつらかった。
魔法の行使には詠唱が欠かせない。だから魔法の撃ち合いとは詠唱の応酬であり、言葉を交える隙がない。
しかし魔物は、どちらかと言えば、詠唱よりも人間を罵るほうが好きだった。
手を伸ばせば届く距離。近接戦闘で用いられる魔法は限定される。
ここで教官が接近戦を選択したなら、骨のひとは悠々と攻撃をかわして更なる暴言を浴びせただろう。
しかし教官は、ひと時の舌戦に応じることを選んだ。
魔物との戦いは、人間のそれとは異なる。
知覚範囲が拡大し、冴え渡る感はあたかも未来を見知るかのようだ。
多くは語らないが、これは魔法の仕様上の欠陥みたいなものだった。
魔法に手足が生えて動き出したのが魔物だから、優秀な魔法使いは魔物がどう動くのか感覚的にわかってしまう。
魔物たちは、ぎりぎりまで人間を追い詰めて、たくさん魔法を使わせたい。甘く囁く暴言の数々は、彼らなりの不器用な接し方だった。
だから魔物との戦いに適応した人間は、その不器用なアプローチを跳ね除けるすべに長ける。
教官は言った。
教官「そうでもないさ。わたしは英雄にはなれないだろうが……」
魔物と相対したとき、魔法使いの五感は研ぎ澄まされる。
不意に苦笑した教官が、骨のひとから視線を外した。
教官「英雄の先生にはなれるかもしれない」
骨「!」
反射的に彼女の視線を追った骨のひとが目を見張った。
別棟の屋上に立った子狸さんが、こちらに前足を向けていた。
子狸「……!」
射線が通ったのは、ほんのわずかな時間だ。
まばたきほどの一瞬を、切り取るように子狸さんは正確無比な狙撃を放った。
風を巻いて穿たれた圧縮弾は、針の穴を通すような正確さで骨のひとのろっ骨の隙間を通過し、校庭の木に登って下りられなくなった子猫を優しくすくい上げた。
教官は瞑目し……
教官「ディレイ!」
骨「ちぃーっ!」
激しく舌打ちした骨のひとが手刀を繰り出す。
これを教官は突き出したひじで逸らし、同時に旋回した足で力場を蹴った。
戦いは空中戦に移行した。
力場を蹴って追う骨のひとに、教官は宣言する。
教官「わたしは急いでいる」
そう言って片手を閃かせると、彼女の指先に光が灯った。
詠唱はなかった。
骨「チェンジリング……!」
警戒した骨のひとが、空中でたたらを踏んだ。
魔法の行使には詠唱が不可欠であると言ったが、あれは嘘だ。
戦闘に特化した魔法使いは、幾つかの制約を己に課すことで詠唱を省略できる。
ただし、省略できる魔法の対象は限られており、一人の魔法使いにつき一つの魔法しか認められない。
この技術を「チェンジリング」と言う。
そして、訳あって発光魔法をチェンジリングの対象に選ぶ人間は極めて少ない。
いや、そんな人間はまず居ないと考えられていた。
もしも、そんな魔法使いがいるとしたら……
骨のひとは緊張した。
……目の前にいる、この女教師は、自分の天敵になりうる。
わざわざ手札を晒したのは、対処法がほとんど無きに等しいからだ。
発光魔法は、おそろしく戦闘に適した魔法である。
教官は言った。
教官「わたしのチェンジリングは、通常よりも制約が一つ多い。その制約が、今……解放された……」
眼下の校庭では、子猫を抱き上げた低学年の子たちが喝采を上げている。
如何なる風の気まぐれか、小さな命が今、奇跡的な生還を遂げたのだ。
み〜と頼りなげに鳴いた子猫が、屋上を見上げる。
内緒な、とでも言うように、子狸さんは前足を口に当てる。
やれやれと肩をすくめて、そのまま名乗り出るでもなく去って行くのであった。
〜fin〜