狂った女
慣れないことはするものじゃありません。
原本の忠実な英訳。これがなかなか……
2ヶ月かかりましたが、皆さんに読んでいただきたく頑張りました。宜しくお願いします。
「これは実話なんだよ」
――友人のマチュー・ダントラン君は言った。
「僕はその鴨猟のはなしが出ると、前の戦争のことを思い出すんだ。聞く気あるかい?」
私は聞くことにした。以下はダントラン君のはなしである。
君はコーメイユの町のはずれに、僕が土地を持ってたのは知ってるよね?
それこそ前の戦争の頃、あのプロシア軍が押し寄せてきた頃は、僕はあそこに住んでいたんだ。
僕の家の隣には、まあ、狂った、というべき変な女が住んでいたんだ。
不幸に次ぐ不幸で、アタマがおかしくなってしまったんだねその女は。
何せ二十五歳の年の一ト月のうちに、父親、夫、生まれたばかりの赤ん坊さえ亡くしてしまったんだもの。
君も気をつけたまえよ。死神ってヤツはひと度どこかの家に入り込むと、もうその家の入り口を心得てしまうようで、すぐに同じ家を襲いたくなるらしい。ホントに気をつけたまえ。
話を戻そう。
まだ若かったその女は、ショックのあまり倒れてしまった。当然といえば当然だよね。
しかしその所為は壮絶で、六週間もの間、
「殺してやるう」
「殺せ、殺せえ」
とか、
「ギャアアア」
等と喚きちらし、ベットの上でのたうちまわってたらしい。
で、その激しい症状が終わると、彼女は一転して動かなくなってしまった。
ただしその大きな眼球だけは、別な生き物のように、ギョロギョロとせわしなく動き続けていたようだ。
仮に彼女を起こそうとするものなら、彼女はとんでもない喚き声をあげるので、誰も彼女をベッドから引きずりだすようなことはしなかった。まったく手がつけられないんだ。
ただ一人の年老いた下女が、下の世話をしたり、水を飲ませたり、小さな肉片を口に運んだりして、彼女の命を繋いでいた。僕はその頃の老下女と親しかったし、実際にその狂った女を何度か見たことがある。
絶望の底にあるであろう彼女の心の中にはいったい何が起きていたのだろう。
僕には今でもわからない。彼女は口をきけないんだからね。
死んだ人のことでも考えていたのかな?それとも悲しい夢ばかり見ていた?
まさか思想そのものが動かなくなってしまったのかもね。淀んだ淵の水のように……
君はどう思うんだい?
いいから続けろって?じゃあ眠そうな顔しないでちゃんと聞きたまえよ。
じゃあ続けるよ。
彼女は何と十五年もの間その部屋にじっとして動かなかった。十五年だよ。
僕と君はその十五年の間に再会した。でも、その頃はまだ、この女は間違いなく生きていたんだ。
さあ、そこでいよいよあの戦争が始まった。十二月の入りがけ、この町にもプロシア軍が攻めてきた。
その日のことは、僕は昨日のことのようによく覚えているよ。
石さえ凍って割れるような寒い寒い日だった。
僕は痛風にかかり、ひじ掛け椅子に座りながら、足の痛みをこらえていた。
ズッシズッシと重苦しい進軍の足音が聞こえ、窓のカーテンを開けて見ると、一糸乱れぬ、まるでオモチャのような兵隊の行進が果てしなく続いていた。
今でも痛風の発作が出ると、ズッシズッシと進軍の足音の幻聴がして、胸を圧するような苦しみを感じないわけにはいかないよ。
君はそんなことってあるかい?
ん?大丈夫かい。そりゃあ幸せだ。
そうこうしているうちに、ひときわ背のたかい帽子を被った将校が、民家へ兵隊の割り当てを決めた。
僕の家には十七人、隣の女の家には十二人。
その十二人の中には、年よりの、頑固で、意地悪そうな、卑しい顔の下士官が一人いた。
僕は件の女がどうなるのか不安になった。それでもその家には、病気の女がいることを承知していたらしく、幾日かは何事もなく過ぎた。
でも結局、その家の女主人があいさつに顔を見せないことに腹を立てた老士官は、老下女を詰問した。暇だったんだろうね。僕の家でも、体力をもてあました兵隊の相手には辟易したからね。
老下女は、老士官の無慈悲な目の光りにも臆することなく、成り行きを説明した。
過去に想像を絶する不幸があった為に、動けなくなってしまったこと。会話すら交わせなくなってしまったこと。そしてその状態のまま、もう十五年がたつこと。
見た目には頷いて聞いていた老下士官だが、内心では全く信用していなかったらしい。
酷い話だろ。
何とその卑しい下士官は、女が、その女ゆえの卑しい根性によって嘘をついて、プロシアの兵隊とは話をしない、顔を見るのも嫌がっているのだと判断してしまった。
どうだい君、酷いだろ。ちゃんと聞いてるかい?
続けるよ。
士官は癇癪を爆発させた。
どうしても会う、会わせろ、会わなければ容赦しない、って言ったそうだよ。兵隊ってどうしてそんなに馬鹿なんだろうね。奴らは自分の汚さを知っているから怖がりなのかもね。
結局下女が折れて、馬鹿老士官は、女と会うことになった。
老士官はいきなり喰ってかかった。凄い剣幕で女に訊ねた。
「おい、女。話したいことがあるから、起きて寝床から出てきなさい」
すると女は、焦点の合わないうつろな瞳を、一度士官に向けたがただそれだけ。そのあとは天井の一点を見つめるだけだった。もちろん何も言わない。
士官は言葉を継いだ。
「いい加減にしろ、三文役者が。そんな態度だったら私にも考えがあるぞ。嫌でも歩かなければいけないようにしてやる」
しかし彼女は全く身動きしなかった。彼のことなどまるで眼中にないようで、例によって例のごとくじっとしたままだった。
士官の怒りは最高潮に達した。芯の芯から侮辱されたと感じた。
「おい女、明日になってもその床から出ないようだったら……」
彼は意地汚い顔を赤らめながら部屋を出て行った。
その翌日、下女は途方に暮れながらも、どうにかして女に着物を着せようとした。しかし女は激しく身悶えしてそれを許さなかった。
そうこうしているうちに、士官が部屋に入ってきてしまった。
どうにもならなくなった下女は士官の膝にとりすがり、泣き崩れた。
「奥様は無理なのです。起きあがることなんて絶対に無理なのです。嘘なぞは申しません。奥様はそれはそれはかわいそうな方なのですから」
今から思えばあの老下女はホントに良い人だったと思うよ。ねえ君、そうは思わないかい。でもホントに酷いのはこれからだから、よくよく聞いておくれよ。
士官は下女の必死さに気圧され、もてあました形にはなったが、突然ハッハッ、と高笑いの声を上げた。
「起き上がらせなければ良いのだな?」
士官は部下を呼ぶと、ドイツ語でなにか命令を下した。
四人の兵隊が女のベットを取り囲み、四隅の角を持ち上げて、女を布団ごと外に運び出してしまった。
そのときの様子は、僕は家の窓から見てハッキリ憶えている。僕の家に居着いてたゴロツキ兵隊でさえ、酷い酷いって言ってたくらいだよ。
少しも形の崩れない布団の中には、狂った女がいつもどおりにじっとしていて、これからの自分の命運にもまるで無関心のように動かずにいた。
いま一人の兵士が、女の衣類を入れた包みを抱えて、一行についていった。
例の老士官は、尖った口ヒゲをなでながらこう言った。
「ひとりで起きれぬ、着物も着れぬ、歩けぬと言うのなら、歩かなければ助からぬようにしてやるまで」
一行の向かう方向の先にはイモービルの森があった。君も知ってのとおり、あそこは狼の森だ。
二時間ばかりして、兵士だけが帰ってきた。
以来、再び、その狂った女を見たものはいなかった。
兵士たちは女をどうしたのだろう、どこに連れていったのだろう。
僕には知る由もなかった。
それから間もなく雪が降り続ける季節がきて、野原の草や土も、厚い雪に埋もれてしまった。その冬はなぜか、狼がよく戸口まできてしきりに吼えた。
行方知らずの女のことはずっと僕の頭から離れなかった。
その頃よく君と会ったとき、何か悩みでもあるのか?って君に聞かれたけど、それは狂った女のことを考えていたんだ。時勢のことを考えて、君には話せなかったんだけどね。
何せ僕は、女の消息をつかもうとして、プロシアの官権に銃殺されそうになったこともあるくらいだ。
そうしてまた春がきて、あの忌まわしい軍隊は引き揚げていった。
女の家は窓も戸も締め切ったままで、路地には雑草が無秩序に生い茂っていった。
あの人の良い老下女は、冬の間に僕に全てを話し、冬の間に死んでしまった。
彼女は村はずれの墓地に僕が葬ってやった。
かの事件のことを口にするものはいなくなった。
しかし僕だけは、どうしても彼女のことを忘れることはできなかった。むしろ、絶えずそのことばかりを考えていた。
兵士共はあの女をどうしたのだろうか。あの女は森を越えて逃げたのだろうか。それとも誰かに捕まって、病院にでもぶちこまれたのだろうか。
しかし僕のこうした疑問を晴らしてくれる材料は、なに一つなかった。
時が過ぎ、僕は自分の生活の為に、骨を折らなければならなくなってきた。
さすがに僕も、彼女の身の上を気遣う気持ちが薄れてきてしまった。
ところがその秋のことだった。
鴨が群れをなして飛んできた。痛風の発作も一段落していた僕は、森に鉄砲を打ちに出掛けた。
くちばしの長いうぶな鴨を四羽簡単に打ち緒とした。そして次の一羽を打ち落としたそのときだった。
ヒラヒラと螺旋を描き落ちてきた鴨は、木の枝がおいかぶさった穴のようなところへスッポリ落ちてしまった。
僕は面倒だったがその穴に降りて行った。
獲物はすぐに見つかり、僕はふうっ、と一息ついた。
そして穴から出ようと足を動かした瞬間だった。
右足に、こっ、という感触があり、僕は足元を見た。
どくろが転がっていた。
突如として、あの狂った女の記憶が、僕の胸をどつくように蘇ってきた。
あの忌まわしい年のことだ。戦争だ。この森で命を落としたものも、一人や二人ではないであろう。
しかし僕は、このどくろこそ彼女に違いないと確信した。
そして一気になにもかもが瓦解した。謎はスラスラと解けた。
何を言いたいかわかるだろ君。
兵士達はこの森に彼女を放置したのだ。寒さに耐えられなくなったり、腹が減れば起きあがるしかなくなるだろう、とタカをくくったのさ。
僕は腹がたってしょうがないよ。だって彼女は起き上がれないんだぜ。いや、仮に起き上がったとしても彼女はこの森で死んでただろう。
あの下女は、彼女が死なないようずっと励ましながら監視していたんだ。彼女は死にたがっていたんだ。
ようするに、馬鹿な兵士達は彼女の願いを叶えてやったに過ぎない。彼女は死にたがっていた。
ああ腹がたつ。
彼女は大きな目をせわしなくギョロつかせ、天のお迎えをじっと待ってたに違いない。そしてそのお迎えは、狼の群れだったのだろう。
布団は鳥たちの巣の材料になり、残りの残骸は朽ち果ててしまった。
このどくろは間違いなく彼女であり、戦争の異常性のたまものである。
僕はこの痛ましいどくろを、あの老下女を葬った場所へ埋めてやった。また面倒をみてもらえたらいいな。
最後に一つだけ言いたい。
僕達の息子や孫の世代には、二度と戦争など起きませんように。
最近僕は、ひたすらそのことばかり念じているんだよ君。
糸冬