白の証明 4
気がつくと俺は大学の裏門近くの公園のベンチに座り込んでいた。あまりにも景色と同化していたのだろうか。ふと、横に目をやると黒のブチの猫が丸くなって寝ている。足元には警戒心が強いはずのハトがウロウロしている。今、目の前では夕陽が少しだけ沈んでいた。ここに、3時間以上はこうしていたことになる。
(・・・)
俺は思い返していた。昨日までのこと、今日のこと、地下駐車場。
―桟切と
電卓のことを。
いつまでもここにこうしてはいられない。俺はベンチから立ち上がった。隣で寝ていた猫はそれに気がついてすぐに逃げ出す、薄情な奴め。
ずっと同じ姿勢でいたせいか尻と腰が痛い。うん、と伸びをして幾分楽にはなったが、足取りは重かった。それでもそうだ。俺は得体の知らない連中と関わったせいでせっかく入った大学を辞めなくてはいけなくなったのだから。これからどうしよう。
足は自然と駅に向かっていた。駅は大学生で溢れていた。つい先程まで、同じコミュニティに属していた人間たちで溢れていた。
電車がやってくる。俺はそれに乗り込んだ。大学を辞めたいと思ったことならたくさんある。今日だって、この電車に乗り込んだ時にそう思った。だけれど、辞めてはならない理由がそれなりにあった。これまでの努力という陳腐なプライドや、将来のキャリア、とか体裁を保つため…とか。自分のアイデンティティを保つために大学に所属していた、いや、されていたのかもしれない。
最寄り駅に着く。ふと俺は思った。
「そもそも俺の部屋に入れるのか…?」
そう思うと自然と足が徐々に早足になり、走りだしていた。大学を無理やり中退させるような技術を持っている奴らだ、俺をひとり暮らししている場所から追い出すことも容易いはずだ…。
あっという間にアパートに着いた。俺は階段を駆け上り、隣人のガタガタとうるさい洗濯機を通り過ぎ、部屋の前へとたどり着いた。特に変わった様子はない。恐る恐る鍵を差し込んでみる。
ガチャ
鍵は何の抵抗もなく素直に開いた。恐る恐るドアを開いてみるが特におかしなことは起こらない。玄関に入り、靴を脱ぎ、部屋を見渡す。こちらも特に変わった様子はなく、自分が朝出て行った状態のままだ。俺は思わず安堵のため息をつき、ベッドへと倒れこんだ。ここだけは俺の安らげる場所のままだった。
「これからどうしようかな」
大学に行く必要がなくなったのだから、もうここに済む必要もない。両親のいる田舎に帰るしかない。その時、両親になんて言えばいいのだろうか。あー、怒られるだろうなぁ、絶対。
天井を見ていると急激に眠気がやってきた。おかしなことばかり今日は起きているし、走ったり人と喋ったり、疲れることが多かった。
「少し寝よう。起きたらまた考えればいいよね…」
と、俺は誰もいない空間につぶやいて瞳を閉じた。想像以上に、深い眠りの中へと俺は落ちていった。
何か音が鳴った気がして俺の意識はこの場所に戻ってきた。部屋の中は真っ暗でとっくに陽は落ちていたようだ。意識は戻ったものの、強烈な眠気のため、覚醒にまで至らない。もう一度目を瞑り、深い眠りへと俺は…
ポーン♪
今度はしっかりと音が鳴ったのを捉えた。この音は部屋のチャイム音だ。どうやら誰か来たようだ。俺は重い身体を起こし、目をこすりながら電灯を着けた。時刻は20時。こんな時間にいったい誰が何の目的で?普段なら居留守の俺も、今日の出来事を思って用心しながらそっと玄関に立った。ドアビューで誰かを確認してみるが薄暗くて良く見えない。どうやら、覚悟を決める必要があるようだ。
「どなた…ですか?」
俺は恐る恐る聞いてみた。
「おおぅ!生きておったか!良かったよかった!ワイや、桟切や!忘れてはおらんやろ?」
その声に俺は聞き覚えがあった。というか、絶対に忘れられそうにも無かった。そう、このドアの向こう側にいるのは桟切だ、俺をこんな目に遭わせた二人のうちの一人。
俺は勢い良くドアを開けていた。そして、バツの悪そうに頭を掻いている桟切が着ているアロハシャツの衿を掴み、背後の壁に押し付けていた。自分にもこんな力があるのには驚いたが、俺は怒りでいっぱいだった。
「よく、ここに来れたな、桟切。おまえらのせいで俺がどうなったかわかっているのかよ!」
そういうと俺はもう一度桟切の衿を強く掴んで揺さぶった。桟切は自分より小柄の俺の力強さに驚いた様子だったが、恐怖心は全く無いようだった。むしろ、想定の範囲内とでも言いたげなくらい余裕を保ったようなニヤケ顔だった。
「ま、まぁ、アンさんが怒るのはよくわかるで。だから、とりあえず、ワイが謝りに来たんや。落ち着いてくれへんかな、話がしたいんや」
「おまえと話すことなんかあるか!警察に付き出してやる!今すぐ、一緒に来い!」
俺は怒鳴っていた。桟切は相変わらず、困ったように頭を掻いていた。そして今度は真面目な顔でこう言った。
「だからな、その件でお前と交渉したい思うて来たんや。アンさんがワイらの話を聞いてくれたら、アンさんの退学は取り消しになるかもしれへん」
「…」
桟切の真面目な顔は妙な説得力があった。俺は掴んでいた手を離すと、桟切に部屋に入るように首を振って支持をした。桟切は「おおきに」と言うと、また元のニヤケ顔で俺の部屋に上がった。
「お邪魔するで」
部屋に入ると、桟切に座るようにまた無言で支持する。桟切は言われなくても堂々と俺の座布団の上にあぐらをかきはじめた。俺は自分を落ち着かせるために、温かいインスタントコーヒーでも入れようと簡易な台所に向かった。
「あっ、お構い無く、ワイの分はいらんで!」
「誰がおまえに茶を出すかよ」
そう言うと、桟切は「コワイコワイ」と呟いた。ポットにお湯は入っていたのですぐにコーヒーは用意できた。俺は桟切の正面に座る。桟切は俺がこんなにも怒りでいっぱいだというのに余裕を保ったままだった。
「アンさんの部屋、殺風景やな。テレビもあらへんし、オーディオもあらへん。あるのは机とこのテーブルと小難しそうな本棚とベッドだけやないかー。もっとインテリアには期を使ったほうがいいと思うで」
俺は返事をしないでコーヒーに砂糖を入れる。桟切も俺から返事が返ってくるのを期待していないようだった。桟切は話を続けた。
「無駄話は聞きとうないようだし、本題に入るで。ホント、すまんかった」
桟切はそう言うと土下座をした。土下座されるなんて自分の細くて薄い人生の中で初めてのことだった。なんだか、恥ずかしくなってしまって、「やめてくれよ」と言いたくなったが、自分のされた仕打ちを思い返すと自然と口には出なかった。桟切は頭を上げ、あぐらにもどして続けた。
「ただな、ワイらもアンさんを好きであんな目に合わせたのちゃうで」
「そんなのはわかっている。お前らの犯罪行為の口封じのために俺はあんな目に合わされたんだからな。今は難しくても、必ずお前らを警察に届けて罪を償ってもらうからな!」
「たしかに、ワイらのやっていることは悪いことかも知れん。だがな、ワイらにはどうしてもそうしないとならない事情があったんや」
俺は桟切の顔を見てみた。桟切はいつの間にか真面目な顔になっていた。こうやってみると、なかなか凛々しい顔立ちをしていた。
「事情って、金がないだけだろ?金がないなら奨学金借りたり、報奨金目指して勉学に励んだり、アルバイトして学費を払えばいいじゃないか」
「たしかにその通りや。だがな、ワイらにはそんな時間はないんや。ワイらはあのことについて研究せねばならん。しかも、この大学在籍中にやらねばなんや。そのためにはアルバイトも勉学に励む時間もあらへん」
俺は桟切が何を言っているのかよくわからないが、奴の真面目顔を見ると嘘でもなさそうに思えてくる。
「なぁ、桟切。研究ってなんだ?お前らの研究は大学の講義とかでできることじゃないのか?」
「そうや。一般人には理解出来へん」
「何について研究しているんだ?」
桟切は少し間を置いてこう言った。
―共通認識や
共通認識?言葉は聞いたことがあったが、内容についてはっきりとは応えられそうもなかった。返答に困っているうちに桟切は続けた。
「ワイらは『世界の本当の姿』について研究しているんや。ただ、そのほとんどについては電卓に委ねられている、奴はホンマもんの天才やからな。ワイがそのサポートをしたりしているわけや」
正直、イマイチ桟切の言っていることはわからなかった。
共通認識?
世界の本当の姿?
「わからなくても無理ないで。解釈が難しすぎるのでな。例えば、や。アンさん、あれは何かわかるか?」
桟切はそう言うと俺の机の上を指さした。
「電気スタンド…だけど。それがどうかしたの?」
「そうや、電気スタンドや。でもな、電気スタンドが電気スタンドたる所以ってなんだかわかるか?」
俺は桟切が何を言っているのかさっぱりわからなかった。電気スタンドは電気スタンドだ。
「よくわからないけど…部屋全体の照明に使われるのでなくて、机の上とかベッドの横とか、照明が届きにくいような場所を照らすために使ったり…手頃に明かりをつけられるっていうのも電気スタンドの特徴じゃない?」
「半分正解や」
「半分?」
「あぁ。もうちょっと深く聞くで。じゃあ、その電気スタンドから放たれる照明っていうのは何色や?」
「光の色…?そんなの蛍光によって違うけど、あれは白だよ、たぶん。」
「白っていうのはどんな色のことや?」
俺はだんだんとイライラしてきた。こいつはさっきから何を言っているのだろうか。ひょっとして俺はただ、こいつらに茶化されているだけなのかもしれない。
「どんな色って…あの色だよ、あれ」
俺は部屋の壁紙を指さした。部屋は白の壁紙で統一されている。若干、使用感があり、くすんでいるように見えるが。
桟切は相変わらず、真面目な顔で壁紙を見つめていた。そろそろ元のニヤケ顔に戻って、俺を笑いものにしてもいい頃だと思うのだが。桟切は再び話をはじめた。
「あれが白って色なんやな。でもな、ワイが知りたいのはどれが白っていうことじゃなくって、『白の概念』なんや。アンさんは答えられるか?」
俺はもう完全に意味不明だった。それと同時に再び怒りが湧いてきた。こんなことを聞いてこいつは何がしたいんだ?からかっているに決まっている。白の概念?なんにも書かれてないでまっ更な状態で膨張色なのが白だろう。
そう思った俺はあることを思い出し、立ち上がった本棚に向かった。そして『高校の美術』という本を取り出し、めくって必要なページを見つけた。それを桟切に見せる。
「これを見ろ、桟切」
そこにはこう書いてあった。
白
16進表記 #FFFFFF
RGB (255, 255, 255)
CMYK (0, 0, 0, 0)
HSV (-°, 0%, 100%)
マンセル値 N9.5
この意味が俺にはさっぱりわからなかったが、これが白というもの概念だ。
「なるほどな」と桟切は言った。だが、桟切は納得した顔はしていない。俺は怒りで爆発寸前だった。それでも桟切は続けた。
「たしかに、この得体の知れない文字列も『白』という色の『存在証明書』の一つや。この文字列の意味を理解さえすれば、この『文字列=白』というということをワイらは頭に思い浮かべることができる。世界中の人間が「ハロー」を聞かれたら挨拶の際に発する言葉のひとつとして頭にイメージすることができるというのと一緒や。
つまりや、ワイらは『言葉、文字、記号』を共有する、認識することによって初めて『白』という存在を互いに知ることができる。だがな、こうとも考えられる。ワイらがこの『白』という概念を互いに認識していなかったら、この世界に『白』は存在しないことになる、いや、できなくなる」
なんとなく、桟切の言っていることは理解できた。しかし、俺の頭の中は桟切の言葉を追いかけるのに必死で、自分で舵を取ることはできなかった。桟切は続ける。
「この世界に、言葉や文字、記号を持つことが出来る生き物はどれくらいいると思う?答えはワイら、人間だけや。生物学上で言うと霊長類ヒト科ヒト目ヒトという生き物だけや。他の生き物は言葉も文字も記号も持たん。つまり、奴らは同じ種同士でも共通の認識を持つことができない。そして、ワイら人間は『言葉、文字、記号』を共通することによってこの世界と繋がることができる。なぜなら、それを証明してくれる仲間がいるからや。もっと言えば、ワイらだけがこの世界を創れたんや。だがな、他の生物は違う。奴らは互いに全ての物事を共通して認識することができへん。奴らは永遠に自分と世界を繋げることができない。なぜなら、それを証明してくれる仲間がおらへんからや。奴らは世界を持てない」
桟切の言い方には迫力があった。少なくとも、ここまで迫力のある物言いができる人間にはあったことがない。話の内容は半分も理解できたら良いと思ったが、桟切の話し方には中身よりも大切な事があることを立派に証明していた。俺の怒りいつの間にか収まっていた。
「他の『言葉、文字、記号』を持たない生き物が己の目で映しだした世界は思考回路にどう映ると思う?映るのは混沌、カオスの世界や。いや、世界やあらへん。ただの動く絵や」
俺はだんだんと頭が痛くなってきた。桟切のいいたいことも、もはやよくわからない。
「それが『共通認識』ってもんや。それを持つことができたからこそ、ワイらは世界を認識できた。もっと言うならば、アンさんがワイのことを観ることができたし、ワイもアンさんのことを見れた」
コーヒーはいつの間にか冷たくなっていた。気がつくと30分が経過していた。桟切の話は一区切りついたようだった。やっと俺も言葉を発する機会ができたようだ。
「桟切、お前らが何をやっているかはなんとなく…だけどわかったよ。だけど、お前らの『世界の本当の姿』っていうのは何のことなんのことだ?世界は俺達がこうやって互いに共通認識してれば存在するならば、ここが本当の姿なんじゃないか?」
桟切は少し考えているようだった。そして言葉を選んだように発した。
「その前にワイからもアンさんに質問させてくれや。アンさん、今日、あの地下の『研究室』にやって来たようやけど…どうしてあの空間に来れたんや?いや、認識することができたんや?」
俺は桟切がおかしなことを言っていることにすぐに気がついた。あの空間のは地下駐車場だった…しかも消失してしまっていた。それもこいつらの力によるのだろうか。
「あのな、研究室って言うならもう少しまともな場所を使ったらどうだ?あそこはどう見たって、ただの『地下駐車場』だったじゃないか。っていうか、あの駐車場が無くなっていたが、あれもお前らのせいなのか?もうトンデモSFみたいのはやめていい加減にトリックを…」
俺は桟切の顔が見る見る硬直していくのに気がついた。何やらまずいことでも言ってしまったのだろうか。と、突然桟切は上半身を大きく傾けて、俺の両肩をまたしても力をいれて掴んで言った。
「地下駐車場…?アンさん、ホントにそう見えたのか!?」
俺は意味がわからなかった。ただ、「うん」と頷くことしかできなかった。
「あの認識世界が崩れたやと?いや、そんな馬鹿な…」
俺の肩にかかる桟切の手の握力は強かった。しかし、俺は痛さよりも桟切の言葉がすごく気になった。
―認識世界が崩れた?