第3話
鏡に映るショートヘアが寝癖であらぬ方向に飛び出ている。
何も気にせず、このまま学校に行ければいいと思わずにはいられない。それでも、どうにかしてその寝癖を元の位置に戻すのは、あたしもしょせん外見を気にするクラスメイト達と同じだということだ。
歯ブラシを口に加えながら、盛大な溜め息を吐く。
「お前って、家と学校じゃ態度が全然違うんだな?」
「ん゛?」
歯ブラシを加えたまま振り返ると、寝崩れて大胆な寝癖をこさえて、ぼんやりと立っている原田君がいた。
口をゆすいで再び振り返ると、原田君は数秒前と変わらぬいでだちで立っていた。
「おはようー、原田君。よく眠れたぁ?」
学校での口ぶりで、原田君の問いかけを無視する形で問い掛けた。
「おう、おはよう。お陰さまで……」
「それは良かったぁー。洗面台どうぞぉ」
あたしは原田君から逃げるように洗面所を出ようとした。
「っておい。無視かよ?」
「何のことだか分からないのぉ。じゃ、お先にぃ」
洗面所を出るとオッサンがあたしを探しているところだった。
こんな狭い家の中にいて、ストーカーされているような奇妙な気分だった。
「オッサン、おはよう。よく眠れたみたいだね? 二日酔いにはならなかった?」
「おはよう、ひかげ。昨日はたっぷりと寝たから今朝は気分がいいよ」
そう明るく言うオッサンの顔色は確かに昨日よりもよかった。それでも、不健康な生活をしていたのは昨日今日の話ではないようで、頬のこけはその存在を強調している。
「一緒に朝ご飯食べようか」
大きく頷くオッサンの姿は、まるで子供のようで微笑ましく思うどころか、切なくさせた。
あたしは自分の子供をあやすように柔らかく微笑んだ。
「パパ、ママ。おはよう」
ダイニングに入ると朝食を作っているママとすでに起きて新聞を広げているパパにいつも通り挨拶をした。
オッサンにとって都合の悪い事実はどうやら聞こえないようになっているらしい。あたしがオッサンと呼んでいることついては、全く触れない。オッサンの言うところの『ひかげ』がそう呼ぶとは思えない。オッサンの昨日のあの様子を見れば、『ひかげ』がオッサンと親しい仲であることが分かる。初めはオッサンの奥さんかと思っていた。でも、そうでもないようだ。オッサンの口振りから『ひかげ』はもう亡くなっていると考えられる。原田君は離婚していると言っていた。亡くなったとは言っていない。だが、離婚した後に命を失ったということも考えられるのではないか。もしくは、離婚したことで精神的にまいってしまっているオッサンにとって、離婚イコール死なのではないか。
しかし、オッサンの元奥さんと間違えられたと考えた場合、いくらなんでもあたしじゃ若すぎやしないか。オッサンの奥さんは若妻だったのか。それに、原田君が『ひかげ』と言っていたのを聞いた。母親に向かって呼び捨てをするだろうか?
と、考えていくと『ひかげ』はオッサンの娘と考えるのが一番無理がない気がする。
「ひなた? どうしたの、あなた。突っ立ってないで早く座りなさい」
「ああ、うん」
座りもしないで考え込んでしまっていたようだ。いつの間にか原田君も席に着いていた。
「ねぇ、ママ。あたし欲しいものがあるんだけど、お小遣い前借りして貰っちゃダメ?」
「何に使うの?」
「本」
「ひなた。前借りしないで、パパのところで手伝いしないか? お駄賃やるぞ」
「ホント? やるやる。じゃあ今日、放課後お店にいくね」
パパのお店は駅の近くの古びたビルの一室だ。パパは一人でそこを切り盛りしているので、忙しくなるとあたしが駆り出される。
「パパも助かるよ」
あたしは、本を読むのが好き。図書館で借りてもいいけれど、根本的に同じ本を何度も読むので、所有していたほうがいい。だから、お小遣いだけじゃ足りなくなってしまうことが度々あるのだ。
あたしと原田君が家を出るのに合わせて、オッサンも家を出た。
「父さん。ちゃんと家に帰ってろよ」
「大丈夫だよ。これから家に帰る」
オッサンは原田君の言うことを大人しく聞いている。立場が逆になってしまっている。
オッサンは恐らく仕事もしていないんだろう。こんな状況じゃ、まともに仕事も出来ないか……。
オッサンと別れて、原田君と並んで駅へと向かった。
「原田君。先に行ってくれてもいいよぉ?」
「何で?」
「だってー、学校の人に見られたら何かと厄介なことになると思うけどぉ」
「この辺にうちの学校のやつはいないだろ。別に急いでいく必要もないしな」
どうやら原田君は、あたしと学校に行くつもりらしい。気を遣ったつもりで言ったのに。
「ねぇ、原田君。聞いてもいーい?」
「ひかげのことだろ? あんだけ間違えられれば気になるよな」
あたしが聞く前に先回りしてそう答えた。
「うん。やっぱ気になるぅ」
恐らくオッサンはまたあたしの前に姿を現すだろう。オッサンとどう接すればと考えると、最低限なことくらいは知っておきたい。あたしがオッサンの前でどう接するのかはあとで考えるとして。
「ひかげは俺の妹だよ。3ヶ月前に死んだんだ」
原田君は真っ直ぐ前を見据えたままそれだけ言った。それ以上言うつもりはないようだ。というよりも、それ以上言えないのかもしれない。オッサンのようにどっぷりと『ひかげ』の幻影を追い求めるまではいかないまでも、『ひかげ』の死はまだ原田君には消化し切れていないのだ。
「そっか、ありがとうー」
「は?」
「え、なーに? あたし変なこと言ってないよねぇ」
あたしの言葉で不思議な顔をした原田君を見て、あたしも不思議な顔で彼を見た。
「お礼言われる意味が分からない」
「ああ、そういうことかー。あのねー、まだ傷も癒えていないのにぃ、話してくれてありがとうーって意味だよぉ」
ぼそりと、そうか、と口にしたあと原田君は話さなくなった。
特にあたしとしても普段お喋りをしない人と無理に喋りながら一緒に歩いていても反応に困るので、黙々と歩くことに異論はなかった。
「原田君。ここからは別々にー。あたしは別の車両に乗るからぁ。じゃあねー」
「今井っ」
「ん?」
一方的にそう言って歩き出したあたしを、原田君は呼びとめた。朝の混雑する時間帯。あたしと原田君の間を迷惑そうな顔をしたサラリーマンが横切って行く。
「昨日、怒鳴ったこと俺は謝らないぞ。あれは、お前が完全に悪いと思ってるからな。でも、ありがとな。父さんが……、迷惑かけてごめん。もう、父さんが今井に近づかないようにするから」
「いいよぉ。気にしてないからー」
にこりと笑って、手を振った。そして、原田君に背を向けて歩き出した。
原田君はああ言ったけど、多分それは無理な話だと思う。オッサンのあのあたしを見る切羽詰った表情を見る限りでは、これでおしまいとはならないだろう。またあたしを、イヤあたしの向こう側に見えるひかげを追ってくるだろう。
それをイヤだとは思わない。あたしといるだけでオッサンの気が休まるのなら、いくらでも一緒にいてあげようと思う。それは、なにか変な感情ではなくて、あたしがパパに対して持っている感情と似ているようでほんの少しだけ他人行儀な、そんな感じのものだった。
オッサンは今、家で一人ひかげのことを考えているんだろうか。
あたしと同じ顔と正反対の意味の名前を持つ少女が一体どんな女の子だったのかということに、特急電車が通過する風を全身に受けながら、思いを馳せていた。




