婚約破棄された夜、私は彼の隣を降りました
「エレノア・ベルシュタイン。君との婚約を破棄する」
王都の春を祝う夜会で、私の婚約者であるアレクシス伯爵令息は、集まった貴族たちの前でそう宣言した。
その瞬間、夜会が凍りついた。
演奏は途切れ、貴族達は話をやめてこちらに注目する。
そんな中、アレクシスは堂々と立っている。
まるで、自分が正しい事をしているかのように。
彼の隣には、淡い桃色のドレスを着た令嬢が立っている。
男爵家の娘、リリア・モントローズ。
彼女は困ったように眉を下げ、彼を見つめていた。
「アレクシス様、そんな大きな声で言ったら注目されてしまいます……。
エレノア様に申し訳ありません」
そう言いながら、彼女は彼の腕を離そうとしなかった。
私は二人を交互に見た。
驚きはあった。
悲しみも、もちろんあった。
けれど、それ以上に強く感じたのは、ああ、とうとうこの日が来たのか、という諦めだった。
「理由をお聞きしても?」
「君は冷たい女だからだ」
私の問いに、アレクシスは待っていたとばかりに声を張り上げた。
「リリアが困っていても助けようとしない。彼女が私と親しくしていることを知りながら、嫉妬して嫌がらせをする。そんな女を妻に迎えるわけにはいかない」
周囲がざわめいた。
そして私も驚いた。
なにしろ嫌がらせなどしたことがない。
ただ軽く、「婚約者が居る人にベタベタくっ付くのは、貴女の為にも止めるべきです」とか「夜遅くまでアレクシス様と会うのは……様々な噂が立つのでやめた方がいいかと」ぐらいしか言ったことがない。
もちろん、怒鳴りつけたりとか暴力を振るったこと、陰口を叩いたことも一度もない。
私は思わず、リリアの顔を見た。
彼女は唇を震わせている。
まるで今にも泣き出しそうだった。
「私は、エレノア様に嫌がらせなどされておりません。ただ、私が至らないばかりに……」
「リリア、君は優しすぎる!」
アレクシスは彼女を庇い、私を睨んだ。
その姿を見て、胸の奥がすっと冷えていく。
ああ、そう言えば。
この人は、最近いつもこうだった。
リリアが何かに失敗すれば、私が冷たくして自信を失ってしまった所為。
リリアが欲しいものを手に入れられなければ、私が先に買い占めてしまっていた所為。
リリアが彼と親しくすれば、私が嫉妬しているせい。
何が起きても、彼女は悪くない。
そして私は、いつだって悪者だった。
事実無根なのに。
何度もアレクシスには説明したのに。
彼は聞く耳を持たなかった。
それでも、婚約者なのだから。
そう自分に言い聞かせてきた。
いつか彼も分かってくれると、どこかで期待していたのだ。
「……分かりました」
私は静かに答えた。
その言葉は自分の口からスッと出てきた。
アレクシスが一瞬、言葉を失う。
「何?」
「婚約破棄を……お受けします」
会場が更に静まり返った。
誰かが動く音すら聞こえない。
当事者の2人は、何故か呆然としていた。
彼は、私が泣いて縋るとでも思っていたのだろうか。
それとも、リリアを責め立てると期待していたのだろうか。
いずれにせよ、彼はひどく拍子抜けした顔をしていた。
「待て。君は自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「ええ。……アレクシス様との婚約を解消するということです」
「そんなに簡単に……!」
「簡単ではありませんでした」
私は彼の言葉を遮った。
「ずっとあなたの為に生活していたものを、捨て去るのですから」
彼は口を閉じた。
私は一礼した。
「これまでありがとうございました。どうか、リリア様とお幸せに」
それだけ告げて、私は踵を返した。
背後から、アレクシスの声が追いかけてきた。
「エレノア! 逃げるのか!」
振り返らなかった。
今さら、何を話せばいいというのだろう。
分かってほしかったことは、何度も伝えてきた。
聞いてもらえなかった言葉を、最後の最後にもう一度繰り返す気にはなれなかった。
夜会の扉を出ると、春の夜風が頬を撫でた。
涙が一粒だけ零れた。
私はそれを指先で拭った。
一粒でも。
泣くくらいには、好きだったのだ。
きっと変わってくれると信じていたのだ。
だが、今日はっきり分かった。
もう無理だと。
彼といても自分は幸せになれないと。
だからこそ、もう終わりにしたかった。
◇
翌朝、父は朝食の席で私に尋ねた。
昨日、遅くまでアレクシスの家に怒鳴り込んでいたのに、今朝はやけに静かだった。
「本当に、それでよかったのか?」
私は紅茶のカップを置いた。
「はい」
「……彼のことを少しは好いていたのだろう」
「……はい」
父はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、食後に私を応接間へ呼び、静かに告げた。
「お前が望むなら、しばらく王都を離れてもいい。叔母上が暮らしている海辺の町に行ってみるか?」
叔母は母の妹で、数年前に夫を亡くしてから、海沿いの小さな町で暮らしている。
貴族の位は持ってはいるが、当主の座は彼女の息子にあり、彼女自身は単身静かに暮らしていたはずだ。
幼い頃、一度だけその家を訪ねたことがあった。
潮の香りと、窓辺に干された白い布。
市場で買った焼き菓子を、叔母と半分ずつ食べたことを覚えている。
この時は、自分が貴族だと言うことを忘れて、1人の少女として生活を楽しむことが出来た。
そんな日々が甦り、気づけば口を開いていた。
「行ってみたいです」
答えた自分の声が、思いのほか明るかった。
父は少しだけ目を細めた。
「ならば、そうしなさい。お前の人生は、お前が決めていい」
その言葉を聞いた瞬間、また泣きそうになった。
私はずっと、アレクシスに選ばれることばかり考えていた。
彼に嫌われないように。
彼の隣にふさわしい女であるように。
以前から彼がリリアを庇ったときも、彼女に笑顔を向けたときも、自分が我慢すれば丸く収まると思っていた。
けれど、婚約がなくなった今、私は何を我慢する必要があるのだろう。
答えは、まだ分からなかった。
それでも、少なくとも一つだけ確かなことがあった。
私はもう、誰かに選ばれるためだけに生きなくてもいいのだ。
これからはもう少し。
自分のために生きてみよう。
そう思った。
◇
王都を発つ日、思いがけない訪問者があった。
アレクシスの妹、マリアンヌである。
彼女とは、婚約者の妹という立場を越えて、何度も一緒にお茶を飲んだことがあった。
お互いに本当の姉妹のように仲良くなった、大切な存在だ。
「お姉様、本当に行ってしまわれるのですか?」
「ええ。少しの間だけね」
「兄が、ひどいことをしました」
マリアンヌは悔しそうに唇を噛んだ。
握りしめた拳もふるふると震えている。
「申し訳ありません。私、兄を止められなくて」
「あなたが謝ることではないわ」
「でも……」
彼女は俯いた。
少し経って顔を上げた時、彼女は少し怒っている顔をした。
私ではなく、彼女の兄に。
「兄は、きっと後悔します」
私は苦笑した。
「そうかもしれないわね。でも、私はもう一度彼のもとへ戻ったりはしないわ」
マリアンヌはその言葉を聞き、少し目を閉じる。
そして静かに問いかけた。
「お姉様は、兄を嫌いになったのですか?」
私はすぐには答えられなかった。
もちろん嫌いだ、と答えられたら良かった。
でも。
彼との日々が。
まだ険悪な関係になっておらず、お互いのために切磋琢磨していたあの日々が。
今の感情の邪魔をする。
嫌いになれたなら、もっと楽だっただろう。
好きだった気持ちは、婚約破棄の一言で消えてくれるほど都合のいいものではない。
だから、自分の気持ちを正直に答えた。
「……まだ、分からないわ。でも、彼と一緒にいる自分を好きではなくなってしまったの」
私は窓の外を見た。
「だから、離れるの」
マリアンヌはしばらく黙っていたが、やがて私の手を握った。
「お姉様が、幸せになれますように」
「ありがとう」
マリアンヌはそれだけ言って、静かに帰った。
まるで自分の存在が、私の邪魔になると思っているかのように。
馬車に乗り込む直前、私は一度だけ王都を振り返った。
あの街には、楽しかった思い出もある。
アレクシスと初めて舞踏会で踊った夜。
彼が贈ってくれた花を、嬉しくて何度も眺めた日。
その思い出まで憎む必要はない。
ただ、それらを抱えたまま、私は前へ進めばいい。
考えに没頭していると。
いつのまにか馬車は走り出していた。
◇
あれから数ヶ月が経った。
海辺の町での暮らしは、思い描いていたよりもずっと地味だった。
朝は市場へ出かけ、叔母の買い物を手伝う。
昼には近所の女性たちと食事を作り、夕方には海岸を歩く。
叔母の息子さんには一度挨拶したっきりで、あとは叔母の小さな家で、2人で暮らした。
貴族の娘としての作法が役に立つ場面など、ほとんどない。
市場では値段を間違え、魚の種類を覚えられず、叔母に笑われることもあった。
それでも、不思議と苦痛ではなかった。
誰かの機嫌を損ねないように言葉を選ぶ必要がない。
何かを失敗しても、すぐに別の誰かのせいにされることもない。
自分の失敗なら、自分で謝ってやり直せばいい。
それだけのことが、こんなにも気楽だったなんて知らなかった。
ある日、私は市場の帰りに、道端で荷車を押している青年を見かけた。
車輪が石の隙間に挟まり、彼は困ったように額を押さえている。
思わず私は声を掛ける。
「お困りですか?」
「ええ。情けないところを見られてしまいました」
青年は苦笑した。
「押してもらえれば助かるのですが、女性に頼むのも申し訳なくて」
「では、通りがかった人を呼びましょうか」
「それはありがたいです」
二人で近くの店に声をかけ、店主にも手伝ってもらうと、荷車はあっさり動き出した。
青年は何度も礼を言った。
「助かりました。私はノアと申します。町の仕立屋で働いています」
「エレノアです」
名乗ってから、貴族だとバレたら大変なことになるかな、と思った。
だが、ノアと名乗った青年は自分の名前に何もリアクションをしてこなかった。
「エレノアさん。よければ、今度お礼をさせてください」
「大したことはしていませんから、お気遣いなく」
そう答えると、彼は少し考えてから笑った。
「では、今度お会いしたときに、世間話でも。お礼というより、私がそうしたいのです」
私は思わず笑ってしまった。
「それなら、喜んで」
それだけの出会いだった。
特別なことは何もない。
けれど、その日の帰り道は、いつもより少しだけ足取りが軽かった。
◇
王都で私が婚約を破棄されたという話は、思ったより早く海辺の町まで届いた。
それと同時に彼らのその後も聞こえてきた。
叔母が王都から来た知人に聞いたところによれば、アレクシスとリリアは、婚約破棄からひと月も経たないうちに結婚の話を進め始めたらしい。
だが。
アレクシスの両親は、あまり喜んでいないという。
男爵家との縁組そのものが1番の問題なのではない。
(そこも問題かもしれないけど)
リリアが社交界で振る舞ううちに、彼女の言動が少しずつ周囲の反感を買い始めたのだそうだ。
ある夜会では、親しくなった令嬢の装飾品を褒めた直後、自分も同じものが欲しいと何度もねだったという。
それも、「あのくらいならすぐ手に入るでしょう」と宣ったらしい。
別の席では、招待客の一人が着ていたドレスを羨ましがり、アレクシスに買ってほしいとせがんだらしい。
アレクシスが渋っていたら、「私が着た方が似合う」と叫んだと言う。
これだけでも大問題だ。
貴族としても、人間としても。
しかし、更なる問題はアレクシスだった。
彼はリリアの願いを断ることができなかった。
彼女が欲しがるものを与え、彼女が不機嫌になれば機嫌を取る。
そして、思いどおりにならないことがあるたびに、周囲の人間に不満をぶつけるようになった。
以前は私が間に入っていた場面でも、今は誰も彼を助けてくれない。
当然だ。
わざわざ彼に怒られたい人間などいないのだから。
彼が私に求めていたのは、婚約者という立場だけではなかったのだろう。
自分の振る舞いを咎めず、リリアを優しく受け入れ、何かあれば黙って折れてくれる人間。
そんな自己都合に塗れた、頭お花畑の人間を求めていたのだろう。
その時はおそらく、婚約者ではなく幼馴染として。
婚約者をリリアに優しく譲り、仕事面をしっかり引き受けるだけの存在。
そんなの奴隷以下じゃないか。
そんな役目を永遠に引き受ける人間など、どこにもいない。
やがて、アレクシスの両親は二人の結婚に難色を示した。
彼は激しく反発したそうだ。
それでも、彼の両親は首を縦に振らなかった。
理由も端的で納得のいくものだ。
家同士の付き合いを考えれば、社交界で周囲と衝突ばかりする相手を迎えることには慎重にならざるを得ない。
そんなことを続けていたら。
リリアの方から申し出があり、婚約解消となったらしい。
家からの圧力が厳しくなり、贈り物が減った彼に見切りを付けたのだろう。
なんともくだらない結末だ。
私はその話を聞いても、胸がすくような気持ちにはならなかった。
◇
秋が近づいた頃、私のもとへ一通の手紙が届いた。
差出人はアレクシスだった。
手紙には、短い文章が並んでいた。
自分は間違っていたこと。
リリアとの関係が思っていたようなものではなかったこと。
私がいなくなってから、どれほど不自由を感じたかということ。
そして、最後にこう書かれていた。
――一度だけでいい。会って話がしたい。君の気持ちが変わっていないのなら、もう一度、やり直す機会をくれないだろうか。
私は何度か読み返した。
かつてなら、この言葉をどれほど待ち望んでいただろう。
彼が間違いを認めてくれたら。
私の気持ちを理解してくれたら。
そうすれば、すべてを許して、また笑い合えると思っていた。
けれど、今の私は違った。
彼が反省したことを、まったくの嘘だとは思わない。
私と過ごした日々を懐かしんでいることも、きっと本当なのだろう。
ただ、彼が後悔していることと、私が彼と再び人生を共にしたいかどうかは、別の話だった。
私は返事を書いた。
彼を責める言葉は、一つも書かなかった。
幸せだった時間への感謝と、今は別々の道を歩みたいという気持ちだけを伝えた。
最後に、彼の幸せを願う一文を添えた。
それで十分だった。
返事を出した翌日、私は町の仕立屋へ向かった。
店先では、ノアが布を広げていた。
「エレノアさん。こんにちは」
「こんにちは。今日は何を作っているのですか?」
「冬用の外套です。寒くなる前に仕上げないと」
彼はそう言って、布の端を整えた。
私はしばらく作業を眺めていた。
「ノアさん」
「はい?」
「今度、お休みの日に一緒に海岸を歩きませんか?」
言ってから、頬が熱くなった。
これまで私は、誰かに好かれるために自分を変えようとしてきた。
けれど今は、自分が誰と一緒にいたいのか、自分で考えてみたかった。
ノアは驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「ぜひ。実は……私から誘おうと思っていたところです。暑さも落ち着いたので是非に、と」
「そうなのですか?」
「ええ。でも、断られたら少し寂しいと思って、なかなか言い出せずにいました」
私は笑った。
ふと窓を見ると。
そこには穏やかな海が広がっていた。
そこでまた、手紙を思い出す。
彼との日々も。
かつての婚約者が今、何を思っているのかは分からない。
私を失ったことを悔やんでいるのかもしれない。
それでも、もう彼の後悔を確かめるために生きるつもりはなかった。
私は私の人生を歩いていく。
失敗することもあるだろう。
誰かと喧嘩をすることも、悲しい思いをすることもあるだろう。
それでも、自分で選んだ道ならば、きっと自分の足で歩いていける。
婚約破棄されたあの夜、私は大切なものを失ったと思っていた。
けれど、今なら分かる。
失ったのは、彼と結ばれる未来だけではない。
彼に選ばれなければ幸せになれないという、思い込みだったのだ。
私は海から吹いてくる風を胸いっぱいに吸い込んだ。
そして、隣で笑う青年に、もう一度微笑みかけた。




