嘘と青
10年ぶりに小説を書きました。
お題:「世界で一人だけ、嘘をつくと花の香りがする人間」
明日の会議の資料を作成しなければならないのに、俺はなぜか都内から神奈川方面へ車を飛ばしていた。
午前一時二七分。
高速道路は空いていて、流れるライトたちが流線型のように、時には弧を描いて夜に消えていく。
俺はなぜこの道路を走っているのだろうか。その理由を考えたが、10個ほどの理由が頭に浮かび、そのどれもが嘘のような気がしていた。
どこにもいかなければならない場所などないのに、俺は車を走らせている。
花の匂いがしている。さっきから車内は俺の知らない花の匂いにみちている。かすかに記憶が刺激される。引っ張られる。過去へと。
その花の香りが、学生だった頃の思い出を呼び起こしている。
実家のベッドに俺は座っていた。隣には由利がいた。高校二年のときに付き合っていた彼女だ。彼女とは一年の時も同じクラスだったが、俺らは付き合うまでろくに会話をしたことがなかった。彼女と初めてまともに会話をしたのは鳥取砂丘だった。なぜ鳥取砂丘だったのだろう。そこに意味はない。運命もない。ただの偶然でしかない。しかしながら、周りはそれをロマンチックだという。
俺は一人旅をするのが好きで、バイトでためた金で十二月の鳥取砂丘に一人で向かったのだ。友人たちは俺のことを変なやつだと言ったが、冬の砂漠に惹かれてしまう自分の心を、俺は少しも変だと思わなかった。
十二月の鳥取砂丘は、一面の銀世界だった。砂漠一面に雪が降り積もり、何も知らない人ならばそこが砂丘だとは誰も信じられないだろう。ただただ延々と続く雪景色が広がっていた。
そんな雪が広がる砂漠の上で俺は由利と偶然に出会った。お互いにまさかそんな場所でクラスメイトに出会うことはないと思っていた。そしてそれは、その年代特有の感性によって、お互いにとても運命的なものに昇華されて、互いの心のなかに入り込んだ。要するに俺達は、雪のふる広い砂漠の上で、互いを求めながら歩き続けてようやく求め合うようにたどり着いたと錯覚してしまったのだ。でも仕方ないだろう。それはあまりにも運命的で、偶然に過ぎた。
それから俺達は、そうであるのが当たり前のように交際を始めた。どちらからそれを言ったのかは覚えていない。ただ当然の成り行きのように感じたし、その偶然を逃すほどに、お互い満ち足りている人生ではなかったのかもしれない。
実家のベッドの上で、俺達はまるでお互いの中にある言葉を全て絞り出さなければ死んでしまうのではないかと言うほどに、何もかもをさらけ出して語り合った。好きなアーティスト、俺は『キタニタツヤ』(彼女はヨルシカ)。好きな小説、俺は村上龍の『空港にて』(彼女は宮川輝の青が散る)。好きな瞬間、『俺は朝が始まるときに青じらむ空気』(彼女は人が感情を顕にする瞬間)。
幾千の未来があるかのようで、それでもどこにも行けないような俺等は、指を絡ませてキスをした。たおやかに倒れるように。柔らかに支えるように。それはたしかにあったことで嘘ではないと思う。俺たちは何度も語り合って、何度もキスをして、何度も愛し合った。ただの子どものように。
お互いにベッドで顔を寄せ合うときに、俺はとたんに不思議な気持ちになった。なぜ俺たちはこんなことをするんだろう。彼女の目を、唇を、それに惹かれる自分を不思議だと思った。
いつだったか思い出せないが、彼女がふと言ったことをいまだに覚えている。
「夜にしか咲かない花があるんだよ」
彼女はそれを得意げに言った。などと言うことはなく、気だるさとまどろみの中で、なんとなく間を埋めるために出した言葉のように思えた。
たしか彼女はその花の名前を言っていたような気がするけれど、何故かそれは思い出せなかった。
ぼうっとする思考の中で、赤いサイレンが一般道の方に走っていくのが見えた。俺は今という現実に引き戻される。
未だに車内は花の匂いがしている。
幾つかのライトの群れが生き物のように、夜には存在している。高速道路、コンビニエンスストア、月、誰も見ない電光掲示板。全てが通り過ぎたり、眼の前を一定間隔で走っている。車の中ではヨルシカの新曲が流れている。その曲名を俺は知らない。
「私ね、行ってみたいところがあるんだ」
後部座席から独り言のような声が聞こえた。夜にしか咲かない花があるんだよ。あの時の声よりも大人びたそれは、しかしあの時と変わっていないようにも聞こえた。
「冬の夜の鳥取砂丘」
海老名パーキングエリアを横目に通りすぎてそのまま俺達はこのクソ寒い中で二人で鳥取砂丘へ向かった、と言えるほど俺は子供でも変人でもなかった。
明日の資料を作成しなければならない。それを考えている、どこにでもいるような社会人に過ぎない。パーキングエリアの空いている駐車場に車を止めて、俺達はどちらも動こうとせずに、沈黙を保ち続けていた。
「誰の子供かわからないの」
彼女が最初にそれを破った。花の香りがしていた。
「一人で育てようと決めてたんだけれどね、」
俺はどこにもいけないまま、パーキングエリアを出ていくトラックのテールランプを見ていた。
「でも、ほら、流れちゃった」
後部座席に敷いたタオルから血が滴っていた。バックミラー越しに見える車内の暗闇では、それは一つの絵画のようにも見えた。それは血でもないように見えたし、彼女に与えすぎた水が流れ出ているようにも見えた。
「愛してたのに」
花の匂いが強くなる。ジャスミンのような強い香りが鼻を突く。
彼女から連絡があったのは午後七時すぎだった。残業をしながら明日の会議の資料を作り始めようとダラダラとしていたときだった。
「会いたいです」
それだけのラインのメッセージだった。それより一つ前のやりとりは、3年前で途切れていた。
俺は三年前の同窓会の夜に訪れた彼女の住むマンションの部屋を、かろうじて覚えていた、今もそこに住んでいるのか。本当に住所と部屋番号は合っていたのか。自信がないように思えたが、インターフォンを鳴らせば彼女の声が聞こえた。
「入って」
玄関のドアノブに手をかけると、施錠されておらず、俺は躊躇しながらも中に入ることにした。
明かりは灯っていなかった。カーテンが開いていたので月明かりと、かすかな街の明かりが、リビングに入り込んでいた。
目が慣れるまでそこに何があるのかわからなかった。
「いるのか?」
俺がそう声をかける。
返事はなかった。
「帰るぞ」
そう行って戻ろうとしたときに
「いるよ」
床にある黒い影が返事をした。
由利の声のするものがそこにあった。
「綺麗でしょ」
それはそう言って
「月明かり」
と、なぜか自嘲するように笑った。
俺は手探りで電気のスイッチを探り当て明かりをつけた。
薄いワンピースを着た彼女のやけに膨らんだ腹と、足元や床に垂れている血が目に飛び込んだ。
「来てくれてありがとう」
やけに強い花の香りがそこからしていた。
「どこでも良いから連れて行って。夜の海とか」
彼女はそう言って笑った。俺はスマホを手に取り、救急車を呼ぶことにした。いや、警察を呼んだほうが良いのだろうか。
「お願い。誰にも……。もう、伝えないで」
彼女は月明かりの中で蠢くようにそう言った。
俺は一一〇番が入力されたスマートフォンの通話画面をタップする。
「こちら警察です。事件ですか、事故ですか」
少し苛立ったような男の声だった。なぜかそれは俺の心の柔らかい部分を雑に撫でるような、不快な響きだった。
俺は少し考えた後で、
「夜にしか咲かない花って知ってますか?」
と言った。
「はあ? あのね、事件なの? 事故なの? いたずらだったらね、電話番号から判るし、業務妨害に──」
俺は通話を終了させる。
「鳥取砂丘へ行くか」
俺はなぜかそう言っていた。
夜のパーキングエリアはトラックの寝床のように静かで、安らかだった。
ときおり地鳴りのようなエンジン音が遠くから微かに聞こえて、何処かから来て何処かへと消えていく。
「俺さ、明日仕事なんだ。資料を作らなきゃいけない」
何気なくそう言った。言い訳のようにも、真剣なようにも聞こえた。
花の香りがしていた。
「私たちに明日なんてないよ」
彼女はそう言った。
「はじめから、明日なんてなかったんだよ」
黙り込む。
明日がなかったなら、俺達はどうすれば良いのだろう。どこへ行けば良いのだろう。明日がないのなら、俺達はどこへ言ったって意味なんてないんじゃないだろうか。
そんな、彼女が欲しがらない言葉ばかりが次から次へ浮かんでは消えた。
俺はエンジンを鳴らして、パーキングエリアを後にした。
目的地なんかなかった。明日もなかった。はじめからそんなのはわかっていた。
なぜ俺が高校時代に付き合っただけの彼女と流産した子供を連れて、夜の道を走っているのか。
理由なんて答えられそうになかった。
ただ、それはあとから付いてくるものだった。
『大抵の物事はあとになって理由がわかるものなんだ』
子供の頃に読んだ本か、見たアニメか、どこかで聞いたような台詞が浮かんだ。
俺はそうやって生きていた気がする。
なにか行動をして、あとになってからその行動をした意味や理由がわかる。
今日のこの行動の意味を、将来の俺はどう思うのだろう。何に気づくんだろう。そこに意味があるのかどうか。今の俺にとってはどうでも良かった。
「あっ」
眼の前を走るトラックのテールランプを見ていたらふと思い出した。
「月下美人だ」
唐突に思い出したその名前を口に出す。
後部座席から問うような息遣いが聞こえたような気がした。
「由利が昔言ってた、夜にしか咲かない花の話」
そうだ、月下美人という花だった。
「夜にしか咲かない、サボテンのような花」
彼女は曖昧な声音で「そうね」とだけ返した。
俺達は海岸に来ていた。田舎町であろうその夜の海岸にはもちろん誰も居なかった。
「ここが世界の果てだよ」
と俺は言った。
特にその言葉に意味はなかった。でも彼女はその言葉を喜ぶような気がした。
「そうね」
と彼女は言った。月下美人の香りがしていた。
停めた車から、夜の波打ち際を見る。
波が揺れていた。
砂浜を行ったり来たりしていた。
そこから先は行き止まりというように、俺達と俺達じゃない何かの境界線をゆるく曖昧に引き直しているように見えた。
波の音は強く、何かを揺さぶるような気がしていた。
「もしかしたら、ここが始まりかもしれないな」
俺はふと、波を見ながらそう呟いていた。
彼女は「え?」と言って、こちらを見たような気がした。
「世界の果てってゴールラインのように見えて、ここがスタートラインなんじゃないか
「ここからすべての場所へ向かうことだって可能なんじゃないか?」
そんなアホなことを言いながら俺は後部座席へ移動する。
「別に何があったとか、どうでもいいし、由利がどうしたいとかわかないけどさ」
彼女のそばに縮こまるように身を寄せて座りながら、
「夜にしか咲かない花が、昼にも咲くかもしれないじゃん」
何の慰めにもならない能天気の高校生のような言葉を吐く。
俺は彼女のお腹に手を当てる。そこには何かが消え去った後の残酷な空洞が残っていた。
それは布越しでもやけに冷たく感じた。
行き着くところまで行き着いた田舎町の夜の暗い海で、彼女が失った青い花。
俺達はどこにも行けない。
そんなことは二人ともわかっていた。
ただそこにはかつての感傷的な残骸のようなものが残っているだけだった。
彼女の手を取る。それは作り物のように綺麗で冷たかった。
「そうだね」
と彼女は言った。
強烈な匂いに包まれていた。
まるで砂浜は砂漠のようで、そこに咲く月下美人はきれいに花を咲かせたサボテンのように思えた。
波打ち際の中、俺は彼女のお腹を撫でていた
すべてが終わってしまったそこに、失われてしまった未来の花に、誰かが愛と水を与えなければいけない気がした。
でもそれは俺でなくても良いような気がしたし、俺でなければいけない気がした。理由なんて後から 分かればよかった。
「早く明日が来ると良いね」
冷たい花が最後に匂いを発していた。
最後に行き着いた白い砂漠のような場所。
失われた青い花。
何かが冷たく零れ落ちていた。
俺達にはそこしか居場所がなかった。




