サラの朝と夢の話
レインを追いかけながら、秀の視点はときおり他の人物へと流れた。
テアトルムという世界を知るには、一人だけを追っていても足りない。ビブリオラが言ったように、秀は視点を自由に動かすことができた。意識を飛ばせば、町の別の場所にいる別の人物が見える。
ある朝、秀は市場の近くの小さな食堂に視点を飛ばした。
そこに、一人の少女がいた。
十七、八歳だろうか。赤みがかった茶色の髪を後ろで束ね、油の跳ねた前掛けをしている。朝の仕込みで手は油まみれだが、鼻歌を歌いながら野菜を刻んでいた。楽しそうに見えて、どこか遠くを見ているような目をしていた。
サラ・ミレア。
食堂の主の娘で、厨房を一人で切り盛りしている。父は病気がちで寝たきりになって久しい。兄は三年前に出稼ぎに行ったきり音沙汰なし。サラが食堂を守り、父を養っている。
「今日は何人来るかな」
サラは独り言を言いながら、刻んだ野菜をスープの鍋に入れる。
窓の外を見て、また目が遠くなった。
秀は彼女の部屋を見た。昨夜、眠る前に彼女が手に取っていたものが気になっていた。
本だった。
それも、ぼろぼろになるまで読み込まれた、ハードカバーの大きな本。表紙には「大陸の地図と歴史」と書いてある。本のあちこちに、紙の栞が挟まれていて、余白には小さな字で書き込みがあった。
サラは毎晩その本を読んでいた。
夢があるのだ、と秀は気づいた。
外の世界を見てみたい。この食堂ではなく、本で読んだ大陸の別の場所に行ってみたい。でも行けない。行くためのお金もなく、父を置いていくこともできない。
それでも、本を読む。地図に書き込む。夢を消さないために。
(よく知ってる、その感じ)
秀は思った。
デビュー前に、まだ何者でもなかったころ。東京の小さなレッスン室で汗を流しながら、いつかステージに立てるかもしれないという可能性だけを信じていた。あのころと、サラの目は同じだ。
夢を持つ人間の目は、どの世界でも同じに見える。
食堂に最初の客が入ってきた。サラはぱっと顔を上げ、満面の笑みを向けた。
「いらっしゃいませ! 今日のスープは根菜の塩麹仕立てですよ」
客が「美味しそうだな」と言って席についた。サラは厨房に戻り、また鼻歌を歌い始めた。
その背中を見ながら、秀はレインとサラ、二人の人生を並べていた。
二人とも、十分な才能がある。
二人とも、今は閉じた場所にいる。
この先二人の人生がどう動いていくか、秀には予測できなかった。できないから、面白かった。




