テアトルムの幕開け
最初に感じたのは、風だった。
風に匂いがあることを、秀は生まれて初めて意識した。草の青臭さ、遠くの炊煙、土の湿り気。それらが混ざり合って一つの「世界の匂い」になっていた。体がないというのに、感覚だけはある。不思議な話だ。
視点は、丘の上にあった。
見下ろすと、城壁に囲まれた中規模の町が広がっている。赤茶色の屋根が並び、石畳の大通りに人々が行き交っている。馬車が走り、露天商が声を張り、子供が笑って走り回っている。ファンタジーの世界だ、と秀は思った。剣と魔法の、中世ヨーロッパ風の。
テアトルム。
ビブリオラが言っていた世界の名前を、秀は心の中で繰り返した。劇場、という意味だろうか。ラテン語だったなら。
(試しに動いてみるか)
そう思った瞬間、視点がすうっと動いた。意識を向けた先へ、視点が滑らかに移動する。まるで映画のカメラのように、町の上空を飛び、路地の角を曲がり、市場の喧噪の中に降りていく。
体がないというのは不便なようで、案外悪くない。
疲れない。腹も減らない。どこへでも行ける。
秀は少し笑った。笑うための口もないのに、笑った気がした。
市場の中を漂っていると、一人の少年が目に入った。十三、四歳だろうか。ぼろぼろの服を着て、果物屋の屋台をじっと見ている。腹が減っているのは目の下の影りと、視線のねばりからわかる。
少年はすうっと屋台の横に近づき、店主が別の客に対応している隙に、素早く林檎を一つ掴んだ。
走った。
「こら! 泥棒!」
店主の怒声が飛んだ。少年は路地に飛び込み、塀を飛び越え、あっという間に雑踏に紛れた。追ってくる様子がないと確認すると、狭い路地の奥にしゃがみ込んで、盗んだ林檎をかじった。
瞳が細くなった。
美味しいのか、それとも泣いているのか、判別がつかなかった。
(この子だ)
秀は思った。根拠はない。ただ、この少年の人生が気になった。直感というやつだ。前世でも、人の才能を見抜くときはこういう感覚があった。
少年はしばらく林檎をかじり続け、芯まで食べると、立ち上がって歩き出した。秀はその後をついていく。
町の外れに近づくと、古い木造の建物があった。壁はあちこち崩れ、屋根は半分以上が抜けている。それでも中には人の気配があった。子供の声。数人分。
少年が扉を押し開けると、七、八人の子供たちが振り返った。
「レイン、遅かった」
「腹減った」
「何か食べるもの持ってきた?」
少年はレインというらしかった。問いかける仲間たちに、レインは服の中から隠していたらしい小さなパンをいくつか取り出した。それだけではとても足りないが、子供たちは声を上げて喜んだ。
レインは笑った。
さっきの路地で見せた、泣いているような目とは違う。この笑顔は本物だ、と秀は思った。
(なるほど。こういう子か)
孤児院か、あるいは行き場のない子供たちの群れか。レインはその中の兄貴分らしい。自分の分を削って、仲間に与えている。
秀はしばらくその様子を見つめていた。
子供たちが食事を終え、床に転がって眠り始める。レインは最後まで起きていて、崩れた壁の隙間から空を見上げていた。星が出ている。
その横顔に、秀はなぜか、かつてのメンバーたちを思い出した。
デビュー前の零が、よく深夜の練習室で一人残って空を見ていた。翔が、「スグルみたいになりたい」と言いながら必死に練習していた夜。蓮が黙って隣に座って、ただいてくれた時間。湊がいつも「絶対うまくなる」と強がっていたこと。
(皆、元気でいるかな)
秀は思った。
答えは出ない。ここからでは見えない。
でも不思議と、大丈夫だと思えた。




