旅立つ前夜
サラは三日間、迷った。
隊商の旅人が待っているのはわかっている。返事の期限も迫っている。それでも、厨房に立つたびに手が止まった。
父の顔を見た。
兄の手紙を読んだ。
地図の本を開いた。
閉じた。
「行きたいなら行けばいい」
四日目の朝、父が言った。寝床から起き上がることもできない父が、天井を見たまま、静かに言った。
「え……」
「わかるぞ、お前の顔を見れば。行きたくて仕方ないんだろう」
「でも父さんが——」
「マルクスが帰る。そう言っていた。半年もすれば帰ってくる。それまでのことなら、ご近所のフィネさんに頼めばいい。飯くらい自分で作れる」
「父さん、起き上がれないのに」
「寝たままでも食えるものは作れる」
父は言い張った。
「お前に飯を作ってもらうために生きてるんじゃない。お前が生きているのを見たいから生きてるんだ。行ってこい。この目で、お前が歩いていくのを見せてくれ」
サラは黙っていた。
長い沈黙の後、目が滲んだ。
「……行ってきます」
声が掠れた。
父は答えない代わりに、皺だらけの手をゆっくりと持ち上げて、サラの手を一度だけ握った。
秀はその場から動けなかった。
動けないのは身体がないからではなく、その場を離れたくなかったからだ。
父と娘の間にある言葉の少なさと、その隙間を埋める何か。それが何と呼ばれるものかは、説明できない。でも確かにそこにある。
翌朝、サラは荷物をまとめた。
着替えと、少しの食料と、地図の本。
食堂の鍵は隣のフィネさんに預けた。父の食事の世話も頼んだ。フィネさんは「任せておきな」と胸を叩いた。
隊商の集合場所に着くと、旅人が手を上げた。
「来てくれたか。良かった」
「よろしくお願いします」
サラは深く頭を下げた。顔を上げたとき、その目には涙のあとがあったが、もう泣いていなかった。
秀はサラの背中を見送った。
(行け、サラ)
声は届かない。届かなくても、言葉は出た。
隊商の荷馬車がゆっくりと動き出した。サラは一度だけ振り返り、ラメールの町を見た。それから前を向いた。
幌の向こうに、知らない景色が広がり始めた。




