私が医者になった日。
高槻詩織の人生は、常に正解を選び続けるゲームだった。
地方都市の公立高校から、現役で国内トップクラスの医学部に合格した時、街は彼女を神童と呼んだ。分厚い参考書のページをめくる指先は、確信に満ちていた。この知識は、私を特別な人間にしてくれる。私を、この退屈な街から、論理的思考のできない人間たちから、引き離してくれるための翼なのだ、と。
医学を志した動機を問われれば、いつも淀みなく答えた。
「人の命を救う、尊い仕事だからです」
それは嘘ではなかったが、核心ではなかった。
本当の理由は、もっとどす黒く、傲慢な衝動。学校でくだらない噂話に興じるクラスメイトを、テレビで声高に似非科学を語る文化人を、そして何より、学ぶことを放棄した大人たちを、見下し、視界から抹殺するためだった。
医師という知性の頂点に立てば、彼らと同じ空気を吸わなくて済む。彼らの愚かさに心をかき乱されることもなくなる。それは詩織にとって、一種の聖域への逃避だった。
医師国家試験にも危なげなく合格し、研修先に選んだのは、高層ビル群に囲まれた大都市の大学病院。最新の医療設備が整い、全国から自分のような「選ばれた」人間が集まる場所。
ここでなら、私の知性は正当に評価される。ここでなら、本当の私になれる。高揚感を胸に、新品の白衣に袖を通した初日。その自信は、音を立てて崩れ始めた。
研修医オリエンテーションでの自己紹介。帰国子女で二ヶ国語を操る者、親が世界的な外科医である者、学生時代に国際的な医学雑誌に論文が掲載された者。自分を支えてきた「地元では一番」というプライドが、いかに脆く、矮小なものだったかを突きつけられた。
彼らの語る言葉、纏う空気、その全てが、詩織が今まで出会ったことのない「本物」の色をしていた。自分は井の中の蛙だった。いや、蛙であることすら、まだ許されていないのかもしれない。
最初の壁は、驚くほど単純な手技だった。採血。教科書で血管の走行も、穿刺の角度も、合併症も、全て暗記していたはずなのに。生身の患者を前にすると、指が震えた。硬く浮き出た血管を狙っても、針は滑り、皮下組織を彷徨う。「痛っ…」。患者の小さな呻き声が、鼓膜を鋭く突き刺す。
「すみません、すみません…もう一度だけ…」
焦りが視界を歪ませ、額に滲んだ汗が目に入る。結局、見かねたベテラン看護師が「あ。あー…先生、代わります」と静かに声をかけてきた。彼女は詩織から注射器を受け取ると、患者に優しく声をかけながら、一瞬で目的の血管に針を進めた。患者が「ああ、ありがとね、やっぱ、慣れてる人は違うねえ」と安堵の息を漏らす。詩織は、その光景を壁の染みになったような気持ちで見つめることしかできなかった。
それからというもの、全てが空回りだった。上級医からの指示が一度で理解できない。カルテの記入に人の倍以上の時間がかかる。カンファレンスで担当患者のプレゼンテーションをすれば、「はい。で、君の意見は?教科書に書いてあることを読んでるだけじゃないか。自分の言葉か。」「患者の顔を見ているのか?」と、矢のような質問に立ち尽くす。
周囲の同期たちは、器用に立ち回っているように見えた。指導医に可愛がられ、看護師とも談笑し、着実に経験を積んでいる。彼らと自分を隔てる、透明で見えない壁。その壁の正体に、詩織は気づき始めていた。
『私は、詐欺師だ』
白衣という権威ある衣装を纏い、患者から「先生」と呼ばれているだけの、空っぽの人間。
お勉強をしたから、「たまたま」この建屋にいるだけ。「たまたま」白い布切れを着て、人のためだとか、給料のためだとか、それらしい目的をひとりでにでっち上げただけ。幼き日のささやかな野望に、私は「たまたま」食われかかっているだけ。だから……いつか、この化けの皮は剥がされるはずだ。お前は無能だと、ここにいるべき人間ではないと、指をさされる日が来るはずだ。
その恐怖が、四六時中、心臓を冷たく掴んでいた。
夜、誰もいない医局で一人、モニターの光に照らされながら、詩織は思考の迷宮に迷い込む。
(そもそもだ。そもそも、私はなぜここにいるんだ?人を助けたい?本当に?)
苦しむ患者を前にすると、「助けたい」という感情が確かに湧き上がる。だが、その直後に、もう一人の自分が冷たく囁くのだ。
(それは偽善じゃないのか?『助けてあげよう』だなんて、なんて傲慢で、上から目線なんだ。お前は人を見下すために医者になったんだろう?その根性が、今になって聖人のフリをするのか?もしかして、『見下すため』に「お勉強」をしてきた悪魔の私が、今もなお、この胸の奥に潜んでいるのではないか?)
かつて抹殺したかったはずの「愚かな人々」。彼らはここにはいない。ここにいるのは、病という理不尽に苦しむ、ただの弱い人間たちだ。彼らを前にした時、自分の動機がいかに不純で、独りよがりだったかを思い知る。
(もう、やめようか。これはただの仕事だ。そう割り切ればいい。感情移入するから苦しいんだ)
そう考えようとしても、ICUでか細い呼吸を繰り返す老婆の姿や、自分の子供の病状を涙ながらに訴える母親の顔が浮かんで、心を鈍らせることができない。割り切れない自分にも、割り切ろうとする冷酷な自分にも、同じだけの嫌悪感を抱いた。
(こんな中途半端な覚悟なら、私がこの席にいるべきじゃない。もっと純粋な志を持った、有能な誰かに譲るべきだ。辞めて、他の仕事を探すべきだ。私は、他人が座るはずだった席を取り上げた上で、遊んでしまっているのだ。他人の努力を、わざわざ人生をかけて自腹を切ってまで、踏み躙ってしまっているのだ。)
思考は際限なくループし、身体は正直に悲鳴を上げ始めた。食事が喉を通らなくなり、ベッドに入っても天井の模様がぐるぐると回り、眠れない夜が続いた。集中力は著しく低下し、カルテの簡単な入力ミスを上級医に指摘されることも増えた。動悸が激しくなり、自分の心臓の音が耳について離れない。
私は、ものを知った気になっていただけなのか。
それとも、本当に何も知らないのか。
そもそも、「知る」とはどういうことなんだ?
もう、何もわからない。わからないことが、わからない。
その夜も、詩織は当直だった。緊急の呼び出しもなく、仮眠室のベッドに横たわったが、やはり一睡もできなかった。午前4時。鉛のように重い体を引きずって医局に戻り、意味もなく窓の外を眺めた。
コンクリートの巨大なビル群が、まだ深い藍色の闇に沈んでいる。昨日と今日の境界線が曖昧な、静寂の支配する時間。
やがて、東の空の縁が、わずかに白み始めた。濃紺のキャンバスに、一滴のミルクを垂らしたように、柔らかな光が滲み出す。それはやがて紫色に、そして燃えるようなオレンジ色へと、刻一刻と表情を変えていく。
そして、ビルとビルの稜線の向こうから、太陽が顔を覗かせた。
圧倒的な、生命力の塊。
昨日何があろうと、誰が絶望の淵にいようと、この世界に何が起ころうと、全く意に介さず、ただ昇ってくる絶対的な光。
その無慈悲なほどの美しさが、詩織の瞳に突き刺さった瞬間。
彼女の中で、張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。
「……あ…」
声にならない、乾いた息が漏れる。
優秀だった過去の私。選民思想に凝り固まっていた愚かな私。無力な現在の私。偽善と自己嫌悪にまみれた私。未来を思い描けない私。
その全てが、朝日の光に容赦なく暴き出されていく。隠す場所など、どこにもない。
「……あ、ああ……っ」
視界が急速に滲み、熱い滴が頬を伝った。止めようとしても、止められない。それは嗚咽に変わり、喉がひきつり、空気を求めるように口が開く。医局の硬いデスクに突っ伏し、詩織は子供のように声を上げて泣いた。
誰かを助けたいわけでも、誰かに助けてほしいわけでもない。ただ、涙が溢れて止まらなかった。
「仮面」が溶けて流れ落ちていく。その下から現れたのは、傷だらけで、道に迷い、自分が誰なのかさえ分からなくなった、ただのちっぽけな一人の人間だった。
都市を焼き尽くすように広がる朝焼けの中、詩織の慟哭だけが、夜明けの静寂に響いていた。