第4話 想定外の1歩
七月の最初の金曜日。蝉の声がまだ控えめな放課後。 体育館の裏にある水飲み場には、冷たい水の音とスニーカーの擦れる音だけが響いていた。
「先輩、さっきのスパイク、すごかったですね」
振り向くと、少し息を弾ませながら藤城祐希が立っていた。 いつものように、バレーボール部の練習終わりなのだろう。額にうっすら汗が滲んでいて、それでも表情は明るい。
「……ああ、見てたんだ」
村田洋一はペットボトルのキャップを閉めながら、わずかに驚いたように答える。
「たまたまですよ?部活の前に通っただけです」
藤城はそう言いながら、先輩の隣に立つ。 その横顔は、どこか誇らしげだった。
「やっぱり、かっこいいなって思いました」
「……そういうの、あんま言われ慣れてないんだけど」
洋一は少し目を伏せた。 照れているのを悟られたくなくて、水をもう一度飲むふりをした。
こんな風に褒めてくれる人は、今までほとんどいなかった。 ましてや女子で、こんなにまっすぐな言葉をくれるのは——
「……藤城さん、さ」
「はい?」
「いつも、そうやって俺に話しかけてくるけど……俺、そんなに面白くないし、話すのも上手くないし……なんで?」
藤城は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「……理由なんて、いりますか?」
その一言に、洋一の言葉が詰まる。
「私、先輩のこと、もっと知りたいなって思ってるだけです。だから、話すのが楽しいし、うれしいんです」
その声音に、嘘はひとつもなかった。
「……そっか」
それ以上の言葉は見つからなかったけれど。 けれど、確かに何かが動いた気がした。 自分の中で、彼女に対する線引きが、少しだけ曖昧になっていく——そんな感覚。
まだ名前で呼ぶことも、二人きりでどこかに行くこともない。 でも確かに、村田洋一の心のなかに、藤城祐希は少しずつ入り込んでいた。
想定外の一歩。それは、静かに、けれど確実に踏み出されたのだった。