第1話 始まりの距離
春の柔らかな陽射しが校庭に降り注ぎ、遠くで吹奏楽部の演奏が微かに聞こえる。中学校の入学式が終わったばかりの体育館には、まだ新しい制服の襟が固い一年生たちの緊張が漂っていた。
その空気の中、壇上に立ったのは、バドミントン部を代表する先輩──村田洋一。淡々とした口調で、でもどこか不器用な言葉で、自分たちの活動を語る。
「……うちは週に五日練習してます。朝練もあるけど、やればちゃんと上達します」
その言葉に、会場のあちこちからざわめきが起きる。運動部特有の厳しさを感じさせながらも、彼の真面目な姿勢が伝わる時間だった。
──あ、この人。
藤城祐希は、その壇上の姿を見ていた。スラリと伸びた背筋。感情を大げさに表すことなく、誠実さだけを滲ませたあの話し方。その空気に触れた瞬間、心のどこかが静かに震えた。
──好き、かもしれない。
まだ名前も性格も、どんな人かもわからない。でも、その“空気”に吸い寄せられるように、足が勝手に動いていた。
放課後、部活動見学が始まる時間。バドミントン部の体育館に、ひとりの一年生が顔を出す。廊下を歩く村田の姿を見つけて、彼女は小さく手を挙げた。
「村田先輩ですよね?」
「……あ、うん。ど、どした?」
不意に声をかけられて、村田は少しだけ目を丸くする。けれども、どこか慣れていない様子で、視線を逸らす。
「バドミントン、かっこよかったです」
その言葉に、村田は一瞬間を置いてから目を伏せた。
「……ありがと」
「部活、もう見学に行ってもいいですか?」
「えっ……あ、う、うん……た、たぶん……」
彼の返事は曖昧で、どこか戸惑っている。それでも藤城の笑顔は変わらない。
体育館では、すでに部員たちがラケットを手にウォーミングアップを始めていた。藤城はその様子を眺めながら、意識はつい村田の姿を追ってしまう。
「……また女の子かよ」
近くの男子部員が、こそこそと囁く。たしかに村田は目立つ存在だった。けれど、その言葉に少しだけ眉を寄せた藤城は、くるりと振り返って言った。
「ちゃんと見ていたくて、来ただけです」
村田はその言葉に反応するように、少し驚いた顔をした。そして困ったように小さく笑って、ぺこりと頭を下げた。
「……ありがと。じゃ、がんばってね」
それだけを言い残して、彼は体育館の奥へと消えていった。
仮面のような笑顔を張りつけたまま、藤城はその背中を静かに見送る。
──追いかけたら、嫌がるかな。
小さな声で呟いたその言葉は、体育館の床にそっと落ちた。
でも、心のどこかではもう決めていた。
この人のそばにいたい。
それがどんな形であっても。
まだ始まったばかりの春の空の下、彼女の“追いかける”日々が静かに始まっていた。