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月に叢雲、花に風

being

作者: 水谷菜実


酩酊など覚えぬ身体になって如何許りかと、眼前の酒宴を眺めてふと思う。


彼れは元服前に母上から毒を盛られた故だと聞かされていたが、前当主を慕う老体たちが一線を退いた頃からぼんやりと疑念になることが増えた気がする。


しかして、障らぬ何とやらと云うことも当主になって幾許か経てば腹芸もできるようになるもの。

所詮、血の繋がりや義の繋がりなど薄氷一枚となんら変わらぬと割り切ってしまえば、胸を突くこともそうない。


臣下が旨そうに酒を舐める様をつぶさに見据えれば、百人百様。

人の在り方というのは早々変えられるものではない。一口呑んだあとの眉や瞳の動きを眺めることに楽しみを見出すことが酒宴での政宗であった。



月もようようと我が物顔で天上を照らす頃。戸をかたりと鳴らす悪戯に、於山の方は音を立てずに口角を上げた。


「公でございましょう?」


「さすが睦子だ」


声と同時に夜の冷えた空気を纏って政宗公が座敷に入ってくる。


「本日も上々の盛り上がりだったようで」


「そうだな。久片ぶりに疲れた」


今夜はお召しになるのだろうか。産後の肥立ちが良いとはいえ、私の身体も未だ産後の傷の醜さが癒えぬ頃。吉松丸を交えて日の高い内に面通ることはあれど、夜に政宗公が訪れるのは懐妊前である。思惑が読めない。


「そう構えるな。言ったろう。俺は疲れている。今夜は此処で休みたいだけだ」


そう溢してごろりと畳に転寝のように寛ぐ様は稚児のよう。齢も三十を超えて父の主で私も使えるべき御人なのだがどうにもたまに見せる所作の幼さに愛らしさを感じてしまう。


「左様で。ならば、私は隣の室を整えてもらいましょう。公はこちらでお休みくださいませ」


「それでは意味がないな」


「と、言いますと?」


「今晩は月が高い」


「……そうでございますね」


「俺はもう政をしたくないんだ」


そこまで言われてピンときた。これだけ明るければ恐らく諜報を担う黒脛巾組も比丘尼もこぞって報告のために公の元に馳せ参じるだろう。月が明るい夜は諜報に向かない。平時は公の指先となって動いている者を疎ましがるなど。

こういったことに室を使う殿方はいると聞き及んではいたが、まさか公が。



「意外だ、という貌をしている」


「いえ、そのようなことは」


「いいんだ。睦子は昔から考えていることが貌に出る。俺も俺自身に驚いているからな」



自らの腕を枕にした転寝からごろりと仰向けになった公は長くゆっくり息を吐いた。



「公、そのままでは風邪を召されます。お休みになるならせめて掛け布を」


「ここは良いな」


「え、」


「甘い香の香りもない、畳の青い匂いだけだ」



羞恥でカッと貌が熱くなる。輿入れを済ませ、あまつさえ長子がいる身でありながら、女としての嗜みである香を焚いていなかった。

こういったところが輿入れを遅くさせてしまった遠因だと自分を恥じる。



「睦子。勘違いするなよ。俺は良いと言ったんだ」


「はい……」


「気にしてるな」


「いえ、」


「はは、睦子のそういうところが好ましいのだ」


そう笑うと公は私の腕を引き、倒れ込む私を腕で抱えた。さわりと鼻を掠めたのは酒精だった。


「幼い頃からそうだ。考え過ぎで貌に出るのに、鋭いところがある。もう少し腹芸が上手ければ俺は手元に置かなかったろうに」


苦労をさせるな、と溢した言葉はほとんど息だった。

ゆっくり公の貌を見上げれば、悪夢を堪える様な稚児にも見える。


「なにぞ。気がかりでも」


室の一人である私なぞができることなどなにもありはしない。ただ、時折見せる公のかような目に声をかけずにはいられなかった。はじめて吉松丸を抱いた時もこの様な貌をされていた。


「なにも、……いや測れないほどにあるのかもしれないな」


そう確かめる様に溢す公は何かを見据える様な目に変わった。言葉を告げることはできず、公の袖をぎゅうと握ることで少しでも此処に留めておければと。


「睦子はこれからもこのまま在ってくれるか」


「はい」


夜の冷えた帳をそのままに声に乗せた公の問いかけに私は一寸たりとも刻をあけず答えていた。


「やはり睦子はいいな」


そう笑みを讃えて公は私を腕に抱き込み直した。そうと頬を寄せても赦されている。どうか、どうか今夜ばかりは月が落ちることが遅くなればいいと願いながら瞼を下ろした。



障子に刺さる日差しがぼんやり視界を照らす頃、腕に抱えた室を見れば長閑な寝顔が見える。


同衾すらせず元服前の様に畳に転がり朝を迎えてしまった。睦子は初子を産んでまだひととせも経っていないというのに、やってしまった。これではまたお喜多に小言を云われてしまう。


然りとて、久方ぶりのゆっくりとした夜を過ごした。情緒もなく侍女を呼ぶのは憚らぬもの。

誰ぞが呼びに来るまで転寝をしても良いではないかと政宗は開き直ることにした。


ぬるい空気に畳の匂いは随分薄まってしまっている。次にこの戸が開く頃には陸奥の守護者としての己しか居なくなっているのだろう。人に戻りたくなった折にまたこうしてこの室の戸を鳴らす。そうした自分を赦せていられるのは幾許かと、政宗はひとつ大きく息を吐いた。

1604〜1605年頃の伊達屋敷にて。

仙台城の着工あたりですね。豊臣の時代から営業上手な伊達藩ですが、歴史の流れ的にこの時の心労は凄まじいものだったと思います。

歌や酒宴、贈り物と伊達男の名を欲しいままにしていた頃ですが、当主になりたての頃は武才や人を使うのがうまかった政宗が、織田信長の晩年に近い年齢だと上へ下へと気を回してる伊達男時代に疲れないはずがなかったと思うのです。

ましてや戦国大名の中ではわかりやすく政略的な側室が多く、正室でさえ外交官としての腕が後世に残っている政宗です。近くの親戚も部下も信用ならない元服からアラサーを乗り越えたからこそ内内への自己プロデュースをしていたのではないかというのが、私の政宗像のひとつです。


そんな政宗が生活基盤の近くに長く置いていた側室の於山の方。武家の女でありながら初産が遅かった理由の文献は見つけられませんでした。そもそも史料になりえるものも見つけられなかったので、妄想を詰め込んだ結果です。

於山の方については何度も小説にしようとしているのですが、長めのプロットが書けないのでここに供養しておきます。

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