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203号室で、男が一人殺されていた。死因は恐らく、肥えた腹に刺さっているナイフによる失血死だ。倒れ方からして刺殺、と見るべきだろう。
ご遺体はこのペンションのオーナー。業界屈指のホテル経営者でもある。
「オヤジ!」
真っ先に二階へ向かった三十代中盤と思しき男が、ご遺体となってしまったオーナーに駆け寄った。俺がドラマや漫画の探偵なら、『中に入らないでください!』とか、『傍に寄らないで』って注意するんだろうけど、俺はしない。だって、今休暇中だもん。一応目を光らせているし、傍に寄らせるぐらいいいでしょ。
辺りを覗う。ドアの傍には腰を抜かす管理人の奥方、彼女に付き添う管理人。部屋の中にはオーナーの息子一人。んー、昨夜夕食を取った時にはもう少し人がいた気がするけどな。
他の宿泊客が部屋から出てきた。男性が二人、それぞれの部屋からお出ましだ。そうだな、大体これで数が揃ったはずだけど……。
いや、女が一人いた。多分だけど、オーナーの息子の妻だ。常に息子と一緒にいたからそうだろう。
あーあ、嫌だなあ。こんな時でも、少しだけ探偵魂が湧くんだから。俺は小さな溜め息をつくと、部屋の中にあるバスルームとトイレを探った。後ろから「あ、何を」と俺を止めにかかる管理人の声が届いたが、俺は調査をやめない。
最後、俺はクローゼットを開けた。
小さな悲鳴が聞こえた。中に、長い髪の女がしゃがみ込んでいた。オーナーの息子の妻だ。なぜこんなところに。
彼女の姿を見た俺の脳は、大まかな推測をした。憐みと軽蔑の色が交じる眼で彼女を見下ろす。
彼女は生まれたての鹿の様に立ち上がると、おずおずとクローゼットの中から出てきた。皆の眼が、様々な色に染まる。彼女は下着にオーナーのジャケットを纏って出てきたのだった。
「おまえ、なんで、そんなところに……」
息子の手がわなわなと震えた。
「これは、その」
彼女の弁解を待たずして、息子の手が女の頬を弾いた。慌てて止めに入った管理人が息子を羽交い絞めにするが、息子はなおも女に掴みかかろうとする。
「おまえ、何をやっていたんだ。言ってみろ!」
言わなくても分かるだろ。不倫だ。分かっていながらこんな人目がある場所で白状させようっていうんだから、サドだねえ。
女の目から涙が零れた。
「ふざけんじゃないわよ。私がいなきゃ、社長になんて、なれてなかったくせに」
おや、雲行きが怪しくなってきたぞ。
「どういうことだ!」
管理人に制されながらも、息子が声を散らす。女の目がキッとオーナーの息子に向いた。
「あなたみたいな人が、本当に自分の力で社長になれたと思ってるの? 今まであなたが上手くやってこられたのは、全部私のおかげよ!」
つまり、彼女が義理の父にあたるオーナーの相手をすることによって、息子は出世街道を歩めていた、というところのようだな。
「私は嫌だったのよ! でも、相手をしなきゃ、あなたに後を継がせないって。だから私」
彼女は唇を噛み、肩を震わせた。
「だから、旦那様を殺したの?」
奥方が彼女に近寄り、彼女の肩に手を添わせる。やにわに彼女は奥方の手を振りほどいた。
「私じゃないわ!」
でも、他の面々は彼女に厳しい目を向ける。夫のためとはいえ、義父と関係を持つ女の言うことなど信用できないといった心理の現れだろう。その目の数々に戦き、彼女はますます声を上げた。
「考えてみてよ! 殺したならすぐにその場から離れないとまずいでしょ? どこに殺した後、クローゼットに隠れる犯人がいるのよ」
それはそうだ。
「なら、なぜあなたは隠れていたの?」
奥方がまた尋ねる。優しい声色だが、誤魔化しを許さない厳しさが窺えるな。
「それは、その、……始める前に、人が来たから。そしたら義父は慌てて私をこんな格好のままクローゼットに押し込んで」
「誰かは見なかったの?」
「見なかったわ。義父が部屋のドアを開ける前に押し込まれたんだもの。このクローゼットの扉、結構大きな音がするし。だから、そっと開けてみることなんてできなかった」
確かに、このペンションのクローゼットはラッチが重い。だからこそ、開閉時に『パチン』と深みのある音が鳴って、心地いいんだけど。
「そして、お義父さんの声が聞こえて」
「どんな声かしら?」
「『何をする、やめろ』とか、そんなことを言っていたわ」
「おまえはオヤジが襲われているのが分かってて、ずっとそんなところに隠れていたのか」
容赦のない声だ。
「そんなっ。私はこんな格好だったのよ。それに随分争っていて、怖くて出ていけなかったの」
「だからって、一晩中クローゼットの中に隠れていなくても良かっただろ」
それは俺もそう思う。少しやり過ごして出ていけたと思うんだけど。
「出ていこうか悩んでいるうちに眠くなってしまって。奥さんの悲鳴で目が覚めたのよ」
俺は記憶を手繰り寄せた。昨夜の彼女はどんな様子だっただろうか?
昨晩の彼女は具合が悪そうに見えた。食事もほどほど、酒にも手を付けていなかった。
いや、テキーラを一杯だけ呷っていたな。でも欲しくて呑んだといった様子ではなかった。恐らくだが、その時には既に、オーナーに夜の約束をさせられていたのだろう。
ともあれ、体調が悪かったのなら、彼女がクローゼットで眠ってしまったのも不思議なことではない。ただ、外で何かあったかもしれないのに、そのまま寝てしまうのは少し豪快だと思うけどね。
男が強く空気を吐き出した。
「まったく、おまえが出ていっていれば、こんな騒ぎにならなかっただろ。オヤジは殺されていなかったかもしれない。犯人が誰なのか突き止められたかもしれない。全ておまえの失態だ」
「ヒドイ。この最低男!」
彼女が声を上げて泣き出した。
「なんでこんな人と結婚したんだろう……。金に目が眩んで、こんな人と結婚した私が馬鹿だった……」
んん、どっちもどっちの夫婦って気がするけどなあ。でも少し彼女が可哀想、かな。
オーナーの息子は管理人を振り解くと、彼女を慰める素振り一つ見せず、ご遺体の傍にしゃがみ込んだ。
「オヤジ、見ててくれ。敵は必ず取るから」
そうして、息子はまたもや彼女を罵りはじめた。
「オヤジはおまえとの結婚に反対していたんだ。『あれは性悪だ』って。それを押し切って結婚してやったっていうのに、恩を仇で返しやがって」
「いい加減にしないか!」
老年に近いと思われる男の怒号が飛んだ。遅れて部屋から出てきた内の一人の声だ。
「昭雄君。聡子さんが言ったことは本当だ。君は社長の器じゃない」
ほう、息子が昭雄、その妻が聡子ね。でもって、今語った老年に近い男は恐らく会社の人間じゃない。彼を下の名前で、『君』付けで呼びながら、タメ口で社長の器について語れるんだから。恐らく亡くなったオーナーと同等、もしくはそれより上の立場にある人間だ。
昭雄の鋭い視線が、男に刺さった。男は物ともしない。
「君も分かっていただろう。君の案が通ったことがあったかね」
「そうだ。君は常に、聡子さんに愚痴をこぼしていただろう」
先の男に加勢したのは、男とほぼ同じくらいの年齢の男だ。昭雄に意見できるということは、先の男と同じくらいの立場にある人間だな。
昭雄が目を見開いた。
「聡子が、話したんですか? もしかして、聡子はあなたたちとも関係を持っていたんですか?」
「馬鹿を言いなさい。君のお父さんから聞いたんだよ」
「霧島君と僕、君のお父さんは、大学時代からの付き合いだ。知っているだろう?」
「君のお父さんは、よく儂や月城君と呑んでは零していたんだ。『あいつは目先のことばかりだ』、『それを諭せば嫁に文句ばかり零す』と」
先の男が霧島、もう一人が月城か。それで三人の友情は大学時代から今でも続いていると。
「嘘だ!」
昭雄が声を散らした。
「いいや、君は知っていたはずだ。だから、お父さんを殺したんだろう?」
「違う! 俺は、オヤジを殺してなんか」
「殺したかどうかは今のところ分からないが、少なくとも君には動機がある。お父さんが死ねば、君は会社を今まで以上に好き放題できるはずだからね」
「それはそうかもしれないけど、どのみち俺は後を継いでいたんだ。オヤジをすぐ殺さなくても、いずれ手に入る地位を今すぐ手に入れる必要なんてないじゃないですか」
正論。でも、『今死んでもらわなくてはいけない何か』ってのはあったのかもしれないな。
「それを言ったら霧島さん、あなたにだって動機があるじゃないか」
「何?」
昭雄がこれでもかと言わんばかりに、霧島を指差す。
「オヤジと癒着して、献金や賄賂を受け取っていたでしょう」
「な、なにを言い出すんだ!」
この動揺、確実だな。献金、賄賂といった言葉から推測するに、霧島は政治家か。政治家にしては素直な人だ。
「でもオヤジは次の選挙費用の援助を渋っていた。今までオヤジの事業のため優遇してきたにも拘わらず、オヤジが出し惜しんだから腹を立てて殺したんだろ!」
「戯言はやめなさい!」
随分動揺しているな。動揺が殺した証拠にはならないが、動機はあり、だな。
「月城さん、あなたにだって動機がありますよね?」
昭雄の視線が、次は月城を刺す。
「いや」
月城は昭雄の視線に応えたまま、淡々と否定した。
「警視総監である立場を利用して、父や霧島さんの不正や事件を揉み消していたでしょう」
「揉み消さなければいけないようなことが、君のお父さんや霧島君に?」
安定しているな。大人しそうな顔をしているが、案外肝が据わっているのは月城の方か。
昭雄の視線が、相変わらず月城を刺した。
「ああ、そうだ。でも何らかの事由で、それらが明るみに出ようとした。そんなことになれば、来年に控えた勇退に傷が生じてしまう。だから殺したのではないですか?」
「馬鹿馬鹿しい」
月城が一蹴する。
「ならば、それを明るみに出そうとした人間を消すだろう。癒着していた人間を殺したところで、何の処置にもならないよ。そもそも、そういったものの根底すらないがね」
最後、念を押すように付け加えたが、恐らく月城はオーナーや霧島のために、自身の力を乱用していたのだろう。大学時代からの友人、というのは表向き。実際はもっとドロドロの闇が深い関係だ。
昭雄が鼻を鳴らした。
「明るみに出そうとしたのが、オヤジなら?」
「何?」
問いながらも、月城は流れのままに嘲声を漏らす。
「おいおい、君のお父さんと僕は共犯なのだろう? なら傷がつくのは君のお父さんだって同じことじゃないかな?」
「いや、オヤジはあなたと霧島さんの不正の証拠を握っていた。オヤジとあなた方がやってきた不正より大きな不正の証拠だ。オヤジがそのネタであなたや霧島さんを強請っていたのだとしたら?」
「だから、強請られるものがないと言っているだろう」
そうは言うが、月城の顔には険しさが漂っている。うんざりしている様子ではない。
これは、痛い所を突かれたんじゃないか? 仔細は分からないが、魔の連帯関係に綻びが生じたのは確かだと見て間違いなさそうだ。