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どんなにくすんでいても2

 


 頭を思い切り揺さぶられたような衝撃だった。否、彼の言葉を借りるなら、既に自分は殴られていた。

 思考がまとまらない。


 睨まれているわけでもなく、蔑まれているのとも違う。ただ純粋に問われているだけだ。まるで、答えのない道徳の問題を突きつけられているかのように。



「ただな、色の見え方が他の奴と違うっていうのは、案外珍しくねーよ。5%も、言い換えれば二十人に一人ってことだ。クラスに一人か二人はいるって計算になる」



 そう、確かに言われたことがあった。

 色覚異常は、それ自体は別段珍しいものじゃない。だからといって、先天性のそれが治るわけでもない、と。



「とか何とか言ったけど、これも俺の意見だな。……お前の話、聞いてやるよ」



 声を低めた彼が静かに、それでいて力強く、問いただしてくる。



「なあ、航。お前はどういうつもりで清に言った?」



 何の遮蔽物もなく真っ直ぐかち合った視線。収まったはずの苛立ちが下から這い上がってくる。


 どういうつもりで――そんなの、こっちのセリフだ。



「その言葉、あんたの妹にそのまま返すよ」



 先に「障害」と持ち出してきたのは彼女の方だ。なぜ僕が彼に責められなければならない?


 僕の態度が気に入らなかったのか、もしくは理解できなかったのか。彼は眉をひそめ、怪訝な顔つきで聞き返してくる。



「どういう意味だ?」


「二十人に一人――その『一人』が、今あんたの目の前にいるって話」



 わざわざ打ち明けるつもりはなかった。知られたところで、粗末な同情をされるだけだ。だから今まで周りには隠してきたというのに。


 彼が息を呑む気配がした。瞳のフィルムに僕の姿を焼きつけているかのように、じっと見つめて、瞬きでシャッターを切る。



「お前、まさか」



 今から彼に言われることの内容は大体予測できた。しかし、その予測を裏切る形で彼は告げたのだ。



「清と同じなのか?」



 見開かれた目は純粋な驚きを表している。そしてまた僕も、彼と似た心境であるのかもしれなかった。


 ――同じ、とは。どういうことだ。


 お互い黙り込んで落ちた沈黙に、彼は項垂れる。



「……そうか。そうだったのか」



 吐息交じりの独り言だった。少なくとも、僕はそう感じた。

 ゆっくりと顔を上げた彼が、幾分か柔らかい眼差しを覗かせる。



「悪かった。俺はてっきり、お前が清のことをからかったんだと思って」



 美波さんは僕のことをよく話していたようだ。恐らく彼女に怒鳴った日のことを、彼に相談でもしたのだろう。早とちりをした兄が、こうして殺気立っていたわけだ。



「さっきのお前が言ったこと……清がお前に『障害者』って言ったのは、本当なのか」



 正確には、僕に直接投げかけたというよりも、色覚異常を「障害」と捉えていると言った方が正しいかもしれない。


 僕は自分の見ている世界が、自分の目が嫌いだ。しかしそれを「障害」だと思ったことはなかった。どんなに汚れて最悪だったとしても、僕にとってはこの世界が全てであったし、この世界しか知らない。


 だから嫌だった。腹が立った。僕にとっての当たり前を、腫れ物のように扱われることが。



「……いや、」



 でも、僕だって彼女を知らなかった。彼女が同じ(・・)人間であったなんて、一体誰が思うだろう。


 いちごのパンケーキ、公園の木々、店先のスカート。

 彼女にはどれも鮮やかに見えているものだと信じて疑っていなかった。さぞ綺麗な世界の中で、愉快に生きているのだろうと決め込んでいた。


 彼女は自分のそれを、「障害」と言った。



「会話の中で出てきただけだ。僕に宛てたわけじゃない」



 もはや何に苛立っていたのかも、上手く説明できそうになかった。燃え上がった炎を無理やり鎮火させられたような消化不良感は否めないにしろ、怒りの感情は明らかに不適切だと言う他ない。


 そうか、とまた彼が頷いた。



「……生まれた時からなんだ。清は二色覚で、赤や緑を識別できない」


「二色覚?」


「ああ。まあ分かりやすく言えば、赤色盲だな」



 思わずオウム返しをした僕に、彼はあっさりと肯定する。


 赤、緑、青。光の三原色によって、この世界は織りなされている。

 人間の目にある網膜には、それぞれこの三色に対応する錐体という細胞があるのだ。しかし、何らかの理由で錐体に異常が起こると、色の弁別が難しくなることがある。


 それが色覚異常と呼ばれるものだ。



「色盲……」



 どの錐体に異常があるかによって、見えない色は変わる。

 僕の場合、緑の光を拾う錐体が十分に機能していないらしい。緑色弱だ。


 そしていま彼が言った彼女の状態は、赤色盲――つまり、赤の光を拾う錐体が機能していないということになる。



『航先輩、すっごく美味しいですよ、これ!』



 見えていなかった。彼女には、くすんでいるどころか、赤が見えていなかったのだ。


 光を取り込んだ瞳は、どんな景色を眺めていたのだろう。僕よりずっと色の少ない世界で、彼女はどんな風に僕を映していたのだろう。



「航。お前に頼みがある」



 彼の声に、ぐるぐると回っていた思考から目が覚めた。つと視線を移せば、随分と弱々しい表情の彼がいる。



「清の傍にいてやってくれないか。……俺も、もちろんあいつの力になりたいと思ってる。今までもそうしてきたつもりだ」



 そこにはもう、僕を戒める空気は残っていなかった。代わりに漂うのは、兄の慈愛だ。

 彼は拳をきつく握ると、腰から深く頭を下げた。



「頼む。俺には、清の見ている景色が分からない。絵も上手くない。俺がしてやれないこと、してやれなかったこと……お前ならできるはずなんだ」



 頼み。お願い。人に媚びること。

 全て同列だと思っていた。自分の利益のために、他人を利用する。それを悪だとは思わない。そうしなければ生きていけない、人間は弱い存在だ。


 だから僕はいくらでも利用した。自分に利があるように立ち回った。

 媚びて取り入って、時には這いつくばって。僕を見下してくる奴らを、逆に心の中で見下してやった。


 お前らは自分より弱い人間を蔑んで悦に入る。そんなお前らを、僕は蔑んでやる。

 汚い。醜い。見苦しい。自分で自分の穢さを自覚できないような人間に、僕を貶められてたまるか。



「それをして、僕に何のメリットがあるんだよ」



 彼も、彼女も、強引だ。媚び方をまるで分かっていない。

 遠慮もなければ可愛げもない。人に頼み事をする時は、もっと計算高くいなければ。



「……メリットは、ない」



 短く答えた彼が、顔を上げる。



「これは俺の勝手な、お前への頼み事だ。本当に清のためになるのかも分からない。正直、お前のことはまだ好きになれない」



 可愛くないしな、と再度感想を述べられ、少々不快だ。愛想を振りまいたつもりは確かに一ミリもないけれど、そう言われると何となく気に食わない。



「だから、引き受けるか断るかは好きにすればいい。ただ、清は――俺の妹は、それとは関係なしに、お前についてまわると思う。追い払うかどうかも、お前の自由だ」



 理不尽だと思う。ここで僕が断ったとて、状況はさして変わらない。

 頼んでいるのはそっちだろう。どうして僕が困らなければならないんだ。どうして、僕に主導権がないんだ。


 どうしてこの兄妹は、こうも忖度なしに僕の世界に踏み込んでくるんだ。



「あーっ! こら、また散らかして! ちゃんと片付けなさい!」



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