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どんなにくすんでいても1

 


 窓の外は立夏の風が吹いていた。

 お出掛け日和、とニュースキャスターが言う。そこでようやくゴールデンウィークか、と腑に落ちた。


 特に予定もなければ、進んで誰かを誘う気にもならない。


 ゴミ箱に捨てたばかりの紙切れに視線を落とし、ため息をついた。なんとはなしにそれを拾い上げ、もう一度開いてみる。


 連休に入る前、下駄箱に入っていたものだ。小さなメモ帳にどこかの住所が書いてある。学校からさほど離れていない場所のようだった。



『帰れっつってんだろ!』



 自分の記憶の声が脳内で反響したのと、思わず顔をしかめたのは同時だった。その直後に酷く悲しげな表情を浮かべた彼女のことまで芋づる式に思い出してしまい、苦々しくなる。


 だからといって、別に後悔はしていなかった。自分が悪いとも思わなかった。

 土足で踏み込んできたのは向こうが先だ。こちらにも追い返す権利くらいあるだろう。


 周りの空気が、周囲の自分への対応が変わったのは、嫌でも分かった。まるで磁石の同極のように、近付けば何もしなくても離れていく。

 所詮その程度か。お前らも、――僕も。


 紙切れを握る。握り潰す。



「……くそ」



 魔が、差した。







 どの電車に乗って、どの駅で降りるか。

 どちらも普段学校へ行く際と変わらなかったため、迷うことはなかった。


 祝日というだけあって、街の景色はいつものそれと少し違う。浮かれた様子のカップルや親子連れを見かけて憂鬱になりながらも、メモ帳の住所を辿っていった。


 十分、いや十五分ほど歩いただろうか。恐らくこの辺りだろう、と歩幅は自然と狭くなる。


 ――福祉センター。

 その文字が目に入り、ああ、やっぱりそうか、と不思議なことに納得している自分がいた。この紙切れを手に取った時から、彼女なのではないかと思っていたのだ。彼女以外あり得ない、とまで。


 本当に彼女だろうか。あんなに腹が立っていたのに、それを確かめずにはいられなかった。興味本位といえばそれまでだけれど、まんまと誘われてしまったわけだ。その事実に、また性懲りもなく腹が立つ。


 しかし、苛立ちはすぐに消化されてしまった。



「……航先輩?」



 その声が聞こえて、反射的に振り返る。

 聞き間違えるはずも、見間違えるはずもない。そこにいたのは美波さんで、彼女の履いているスカートにも見覚えがあった。



『航先輩はどう思います? このスカート』



 いいんじゃない。適当にそう返して、僕には本当の色が見えていなかった。

 あの日、調子が悪かったわけじゃない。それを物語るように、いま改めて日の当たる場所で見た彼女のスカートは、やはりどれだけ目を瞠っても淡い黄色だった。


 結局買ったのか。まあ、別にどっちだっていいけれど。



「来てくれたんですね。……良かった」



 安堵の息を吐き、彼女が僅かに頬を緩める。


 と、それまでずっと黙り込んでいた、彼女の隣にいる男が口を開いた。



「……お前か」



 低く唸った彼は、僕と同じ高さの視線でこちらを威嚇してくる。途端、大股で距離を詰めてきたかと思えば、僕の胸倉を掴んで噛みつくように告げた。



「お前、清に『障害者』って言ったらしいな」


「は、」



 一体何を言っているのか、何を言われているのか。さすがに想定外で、咄嗟には理解できなかった。

 そんな僕に、男はなおも畳みかける。



「自分が何言ったのか分かってんのか。言っていいことと悪いことが――」


「ま、待ってお兄ちゃん!」



 お兄ちゃん。そう呼ばれた彼は、美波さんに服の裾を引っ張られたまま眉間に皺を寄せた。



「違うの! 航先輩が言ったのは、そういう意味じゃなくて……」


「じゃあどういう意味だよ」


「とにかく!」



 兄の剣幕に負けないくらいの声量で、彼女が場を制す。



「その手、離してよ。話は中で! ね!」



 不服そうではあったものの、妹に叱られた兄は投げやりに僕から手を離した。

 美波さんが恐る恐るといった様子でこちらを見上げ、「航先輩」と唇を動かす。



「うちの兄がすみません……あの、改めて、来てくれてありがとうございます」


「いや……僕は別に、」



 このまま帰るつもりだったんだけど、と続けようとした時、横から鋭い視線が突き刺さる。美波さんの兄――否、ボディーガードともいうべき存在が、僕を逃がさまいと決意に燃えていた。


 彼の腕が、今度はずしりと肩に回される。



「清が世話になってるみたいだな。ゆっくり話でもしようじゃねーか」



 ……ああ、本当に面倒なことになった。







 週に一度、来たいときに来る、というスタンスで活動している――らしい。

 福祉センターの集会室。そこが彼らの待ち合わせ場所だった。



「美波(じゅん)。あんたは?」



 部屋の片隅で向かい合う彼と僕を尻目に、小中学生が各々遊んでいる。その中に一人混じっている高校生は、美波さんだ。


 彼の問いに答えようとした刹那、「航だっけ?」と相手が首を傾げる。



「清の一つ上って聞いたけど」


「ああ……」


「ちなみに、俺の方が年上だから」



 純先輩って呼べよ、と押し付けてきた彼が足を組んだ。


 この美術サークルは「なないろ」というそうで、彼はサークル長なのだという。小学生から高校生までが所属していると美波さんも言っていたし、今さっきの彼の発言からして、純先輩(・・・)は高校三年で間違いなさそうだ。


 髪質も鼻の形も、確かに兄妹よく似ている。なんとなく、強引なところも。


 とりとめもなくそんなことを考えていると、彼は「で?」と声色を変えた。



「お前もここに入りたいってことでいいの」


「……は」


「だから来たんじゃねーの? 清に誘われたんだろ」



 誘われた――まあ、大きく括ればそうなるのかもしれない。彼女が託したメモ帳に書いてあったのはここの住所で、そもそもの発端は、彼女が僕に来て欲しいと言ってきたことだ。



「入るつもりはない」


「敬語」


「……です」



 間髪入れず指摘され、渋々付け足す。

 彼は頷いて、へえ、と間延びした反応を寄越した。



「清が毎日毎日言ってんだよ。めちゃくちゃ絵の上手い先輩がいるって」



 お前のことだろ、と確信めいたトーンで問われ、言葉に詰まる。



「天才くんはこんな活動に参加するほど暇じゃないってか? まあそれならそれで、俺は別に――」


「絵はもう描かない」



 思いのほか野太い声が出た。僅かに滲んだ焦りにも似た感情が、引き算のように冷静さを奪っていく。


 どうしてこうも僕に構うのだろう。彼もそうだし、美波さんもそうだ。

 僕は絵なんてどうだっていい。上手い下手も、単に事実がそこにあるだけで、上手いからなんだっていうんだ。僕にとってそんな事実は心底どうだっていい。



「それは、描きたくないって意味で合ってんのか?」



 二重瞼の比較的はっきりとした目が、こちらを捉える。先程までのやや殺伐とした空気は消え、彼からは労りの気配がした。



「……描けと言われたら描く。特別描きたいとは思わない」



 食事と一緒だ。腹が減ったから食べる。必要性があれば描く。腹が減ってもいないのに、描こうとは思わない。


 無感動に筆を取ったところで、描き上がるのは無機質なものだ。それなら写真の方が正確だし、鮮明で綺麗に決まっている。僕がわざわざ描く必要はない。



「まあ、別に無理強いするつもりはねえよ。俺らだって“楽しく”やりたいだけだからな」



 お前、生意気だし。

 そんな呟きが彼から聞こえた気がしたけれど、言及するのも面倒なのでやめておいた。



「ああ……こんな話してる場合じゃなかったな。俺が聞きたかったのはさっきの件だ」



 投げやりな口調から一変、顔の筋肉を引き締めるようにして、彼は途端に真面目腐った表情をつくる。妹と同じ長い睫毛が伏せられ、頬に翳りを落とした。



「清はお前のこと庇ってたけど、兄としては言葉の真意ってやつを確かめないわけにはいかない。それによっては、お前のこと本気で殴る」


「……そんなに警察沙汰にしたいなら、止めないけど」


「ばぁ――――か。そういう問題じゃねえよ。てか敬語使えって言ってんだろ、ほんっと可愛くないわお前」


「同じ学校でもないんだからいいだろ」


「年上はフツー敬うもんだっつの!」



 一喝した彼が、仕切り直しとでも言いたげに咳払いをする。束の間の脱線は終了したようだ。



「男性は5%、女性は0.2%」


「……は?」


「日本で色覚異常を持っている人の割合だ。正確にいうと、先天性の、だけどな」



 心臓が嫌な音を立てて鳴り始める。唐突に切り出された話題は、偶然にしては出来過ぎだった。

 かといって、彼に自分の事情を知られているわけがない。ついさっき、初めて会ったのだから。



「俺は色覚異常って(この)言い方、あんまり好きじゃないんだよ。最近は色覚多様性っていう呼び方もあるらしい。……まあ、」



 彼の視線が刺さる。



「――お前にとっては、呼び方が変わろうと『障害者』に変わりはないか?」



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