優しいってなんだ3
「最近あの子来ないよな。ほら、黒髪清楚系の」
授業の合間の休み時間に、ショータが突然こちらを向いた。
本当にいきなりで心臓に悪かったのと、あまり触れたくない話題だったのとが合わさり、僕は曖昧な返事しかできない。
「ああ……そうかもね」
「だってこないだまで毎日来てただろ? センパイセンパイって、可愛かったなあ」
あれのどこが可愛いんだ、鬱陶しいだけじゃないか。胸中で反論しながら静かに目を伏せる。
隣の席の田中さんが口を挟んできた。
「んー、でも確かにちょっとしつこかったよね。犬飼くんが困ってるって分からないかなー」
彼女の意見には概ね賛成だ。けれども、他の人の口から美波さんへの批判が出てくるのは何となく気に入らなかった。
『お客様……そちら色違いですけれど、よろしいですか?』
あれから美波さんとは一度も顔を合わせていない。
というより、今までがおかしかったのだ。急に「アドバイスが欲しい」と詰め寄ってきて、こちらの都合も聞かずに連れ回して。挙句の果てに、僕にそういう事情があると知ったら、ぱたりと姿を現さなくなった。
まあ、あれだけ称賛していた人間がこの有り様だったら、これ以上アドバイスなんてされたところで価値はないということか。何とも分かりやすい手の平返しだ。
もう無理やりどこかへ引っ張られることもないし、ゆっくりと自分の時間を過ごせる。非常に清々していた。
ただ一つ懸念点があるとするならば、美波さんの口の堅さだ。
僕が色覚異常であることは、誰にも打ち明けていない。口止めするのを忘れてしまったけれど、果たして彼女はこの事実を周囲に話すだろうか。
『僕がこういう人間だって、周りに言いたいなら言えばいいよ』
『ええ……? 言いませんよ。わざわざそんなこと』
知っていた。分かっていた。この短い時間で何を、という話かもしれない。それでも、美波さんはきっと言わないと、自分の中で確信していた。
だったら僕は一体、何をこんなに苛ついているのだろう。
彼女なら「そんなこと」で片付けて、またしつこく話しかけてくると思った? それは僕の勝手な憶測であって、彼女の変わり身を責める理由にはなり得ないんじゃないのか?
「おい、航」
固く組んだ自身の両手を見つめて思案に耽っていると、ショータが顔を覗き込んでくる。
「噂をすればだよ。あの子、お前に会いにきたんじゃねーの?」
彼の視線が顎と共に、くいっと動く。
それにつられるようにして顔を上げれば、教室の入り口には確かに美波さんの姿があった。
休み時間――いや、もう昼休みだったようだ。どうりで周りは騒がしいし、廊下も人通りが多いわけである。
ちょっと前までは僕を見るなり大声で呼んできたくせに、今日の彼女は随分と大人しい。気遣わしげに震えている瞳が弱くて、とことん癪に障った。
だから嫌だったんだ。誰にも知られたくなかったんだ。心配そうな顔をすることが正解だとでも思っているのか。本人が欲していない同情を押し付けるのが善だと本当に思っているのか。
そうやって無意識に人を見下して満足か?
「どうしたの? 美波さん」
仕方なく僕の方から歩み寄ってやると、彼女の肩が小さく跳ねる。こちらに向けられた視線からは相変わらず心配の色が宿っていたものの、どこか怯えているような空気が含まれていた。
何でそんな顔をするんだ。僕がせっかく愛想良く話しかけてやっているのに。
「あの……」
美波さんが唇を軽く噛んだ。胸元で握り締められている彼女の拳に、一層力がこもる。
「航先輩。今日の放課後は、時間ありますか?」
は? と、声が出るかと思った。いや、出ていたかもしれない。
今さら許可取りなんかして、どういうつもりだ。「弱い者」には優しくしてやらないと――そんな情がわいたのだろうか。
まあ、考えるだけ無駄だ。
僕はしっかりと口角を上げて美波さんに笑いかける。
「またスケッチの練習? 熱心だね。いいよ、どうせ暇だし」
「違うんです」
彼女が明確に、自分の意思で僕の言葉を遮った。そして続ける。
「航先輩に、一緒に来て欲しいところがあります。……実は、近くの福祉センターでサークル活動をしていて……美術サークルなんですけど、」
目の前の白い喉が、空気を取り込んだ拍子に揺れる。
「小学生から高校生まで、みんなで楽しくやってるんです。年齢とか上手い下手とか……事情とか、関係なく」
それで、と急くように紡いだ彼女は、次の瞬間。
「航先輩と同じような子もいます。その子は、自分の障害も前向きに捉えて――」
「障害者扱いすんなよ!!」
衝動だった。荒々しく落ちた自分の怒号が、のどかな教室を塗り替えていく。
息を吐いた。必死に吐いた。そうしないと、今にも彼女の胸倉を掴みかねない。
視界が僅かに霞む。驚きと動揺でゆらゆらと定まらない彼女の瞳が憎かった。
心配? 同情? 笑わせる。
馬鹿にされるのも侮辱されるのも御免だが、偽善の皮を被って丁寧にいたぶってくる奴が一番嫌いだ。勝手に自分の尺度で物事を決めて、それが正しいと疑わない。
そういう人間に限って、自分が他者を傷つけているという自覚がないのだ。笑顔で、いっそ穏やかに手を下す。自覚がないからこそ、良かれと思って何度も、何度も。
自分より「劣っている者」を救うことに意義を見出す。正義だと謳う。
そしていつしか、弱者を「自分をよく見せるためのツール」として利用するようになる。
「……帰れよ」
未だにこちらを凝視したまま固まる彼女に、短く言い捨てた。
「え、」
「いつまでそこにいんだよ。早く帰れ」
煩わしい。邪魔だ。気分が悪い。
狭い胸中で黒々とした感情が渦を巻く。その勢いのまま彼女を睨みつければ、相手は目をこれでもかと見開いた。
「航先輩……」
「帰れっつってんだろ!」
駄目押しで吐き捨てると、ようやく彼女が一歩あとずさる。
「……ごめんなさい」
それが合図だったかのように、踵を返して小さい背中が去っていく。
静寂が広がっていた。遠巻きからこちらを窺ってこそこそと小声で話す人がいれば、関わりたくないと言いたげに分かりやすく視線を逸らしている人もいる。
……もう、なんとでも思えばいい。
自分が守り築いてきたものは、いとも簡単に壊れてしまったのだから。




