優しいってなんだ1
「航先輩、アドバイスを下さい!」
相変わらず、よく通る声だ。しかしそんなことを言っている場合ではない。
「……美波さん、教室にはあんまり来ないで欲しいって言ったんだけどな」
僕たちの横を通り過ぎていくクラスメートが、何だまたか、といった様子でこの光景に順応してしまっている。
彼女の態度は清々しいほど変わらなかった。それどころか、いっそ図々しくなっている気もする。
こちらも無愛想に受け流せれば良かったのだけれど、人目があるとそうもいかない。誰にでも優しい「僕」でありたかった。
「じゃあ航先輩が美術室に来て下さいよー。ちょっと顔出してくれるだけでいいんです」
そのちょっとが嫌なのだ。大体、なぜ僕が彼女の面倒をみることが前提になっているのか。
美術部に入った一年生は、まず最初にアクリル画に取り組む。上級生からの助言を受けながら行われるそれは、新体制となった部内でのコミュニケーションを円滑にするためのものでもあった。
「僕は部外者だから。他の先輩にみてもらうのがいいよ」
この主張は至極真っ当なはずだ。僕はもうそのコミュニティに属していない。
しかし彼女は先日のように「いーやーでーすー」と口を尖らせた。
「私は航先輩にみてもらいたいんですよ」
「どうして?」
「そんなの、当たり前です。一番すごいと思った人にアドバイスをもらいたいからに決まってるじゃないですか!」
駄目だ、先が思いやられる。
どうも彼女には理詰めが効かない。感情や衝動、直感でそのまま生きている印象を受けた。
「お願いします! 本当に、この通りです。絵が出来上がるまでの間でいいので!」
ぱん、と小気味いい音が鳴る。手を合わせて腰を折った彼女に、恐らくここ一ヶ月で一番大きいため息が漏れた。
「描き上がったらもう僕のとこには来ない?」
「えー……それはないと思いますけど、」
「ごめん。やっぱり他当たって」
「わわわ、嘘! 嘘です! 来ません、描くの終わったらもう!」
信用ならない。
僕が顔をしかめていると、彼女は更に言い募る。
「もし断られたら、いいって言ってくれるまで付きまといます」
「高卒の肩書はあった方が将来いいと思うよ」
「勝手に退学させないで下さいっ」
もう、と頬を膨らませる彼女に、果たして自分が「頼んでいる側」だという意識はあるのだろうか――いや、それは僕が言えたことではない。
これ以上、非生産的な口論をするつもりはなかった。ひとまず今は妥協しておく。
「絵をみるのはいいけど、部に顔は出さないよ。それでもいいなら――」
「いいです! ありがとうございます、お願いします!」
食い気味に迎え入れられ、その空気にやや気圧される。
じゃあそういうことで、と彼女の横をすり抜けようとした時、腕を引かれた。
「どこに行くんですか?」
「どこって、帰るんだけど」
「ええっ! 航先輩、話聞いてました? 私、今すぐにでもみてもらいたいくらいなんです」
そんなことは一ミリも言っていなかったような気がするのだけれども。
意図せず眉根に皺が寄った。それを解く前に、彼女が歯を見せて笑う。
「みてくれますよね? センパイ!」
……たかるにしても、相手を間違えたかもしれない。
先週食べたパンケーキを思い出し、宙を見つめながら見通しの立たない今後に憂鬱になった。
彼女に連れられ、普段使っている電車とは違うものに乗り、ある駅で降りた。
同じ駅で降りた学生はちらほらいたものの、基本的に人の流れは少ない。うちの学校の制服も見当たらないし、知り合いに出くわす心配はなさそうだ。
改札を抜けて駅から離れれば、閑静な住宅街が広がっていた。
「航先ぱーい! 早く早く! こっちです!」
周囲を観察しながら歩いていたせいか、彼女との間に随分と距離ができていたようだ。僕を急かすその声に、渋々歩幅を大きくする。
更に進んでいくと、住宅街の中に木々が生い茂る場所があった。どうやら公園のようだ。
「ここは?」
「こないだ電車で寝過ごしちゃった時に、さっきの駅で降りたんです。せっかくだからちょっと探索してみようと思って歩いてたら、この公園を見つけました」
静かで集中できるんです、と話を結んだ彼女が、躊躇なく中へ入っていく。
以前「変わった人」という評価を目の前にいる相手から受けたけれど、彼女も彼女だ。普通、知らない駅で降りて探索しようだなんて思わないだろう。
しかし当の本人は既にポジション取りを終えたらしい。ベンチに腰を下ろし、自身の隣を叩いて僕を手招きした。
「早速なんですけど、スケッチをみてもらいたくて……」
スケッチブックを取り出し、彼女がページをめくる。その中に挟んであった画用紙をこちらに寄越してきたので、受け取って視線を落とした。
――正直、がっかりした。
彼女の絵を見たのはこれが初めてだけれど、これだけしつこく助言を求めてくるということは、ある程度力量があるのではないかと思っていたのだ。
でも、全然、全く、上手くない。
特別下手というわけではないし、目も当てられないというほどではない。ただ、全体的に平面的というか、陰影がはっきりしていなかった。典型的な新入部員の、平凡なスケッチだ。
「……スケッチはこれが初めて?」
「あ――ええと、中学の美術の授業でしたことあります」
つまり、経験もなし。脳内で情報を書き足して、小さく息を吐く。
「はっきり言うけど、アドバイスできることはない」
「え、」
「まずは何でもいいから、目についたものをスケッチして。何回も繰り返して。とにかく描く。話はそれから」
今の彼女の状態では、個性も発現していない。美術部の先輩なら誰だってできそうな基本的なアドバイスを、一通り叩き込む必要がありそうだ。
まあ、それをわざわざ僕がしてやるつもりは毛頭ないけれど。
「わ、分かりました」
鉛筆片手に、彼女がこくこくと頷く。
「あの、航先輩」
「何」
「私がスケッチし終わるまで、ここにいてくれますか?」
神妙な面持ちで尋ねられ、若干拍子抜けした。散々強引に誘ってきたくせに今更だ。
それ以上に、帰るという選択肢が浮かんでいなかった自分自身にも戸惑っていた。
「今日はなに奢ってくれるの?」
「お金取るんですか!?」
「誠意を見せて欲しいだけだよ」
「ただ奢って欲しいだけじゃないですか……! 私分かってるんですからね!」
「いいから手を動かして」
むっとした顔で口を噤んだ彼女が、視線を正面に戻す。
それから程なくして描く対象を決めたのか、紙に鉛筆の先を滑らせた。
「筆圧強すぎ。鉛筆は軽く握る」
「う、はい」
「描き始めたら手は止めない。素早く」
「え、む、無理です! そんな上手く描けません」
「良し悪しなんてどうでもいい。慣れるためにひたすら描くんだよ」
これではいつになっても帰れなさそうだ。基礎もままならない彼女に、耐えかねて端的に指摘を残していく。
一つ目のスケッチは、すぐそばで咲いている小花だった。
それを描き終えて満足そうにしている彼女に「はい次」と促せば、愕然とした様子で僕を見つめてくる瞳に出会う。
「え、あの……もっとこう、これに対するアドバイスとか」
「基礎もなってないのに口のきき方は一人前だね」
「はい、すみませんでしたっ!」
その後も二回ほど対象を変えてスケッチを終え、彼女が僕の顔色を窺うように視線を寄越してきたので、仕方なく腰を上げた。
彼女のスケッチブックを覗き込み、握られていた鉛筆を掻っ攫う。
「え、わ、航先輩?」




