虹色の定義3
世界史は嫌いだ。
カタカナばかりで人名や国家名が覚えにくいとか、暗記が苦手だからとか、そんなありふれた理由である。黒板に書かれた文字は赤ではないので支障なく読めるし、もし読みづらい箇所があったとしても、クラスメートがノートを貸してくれる。
テスト最終日、最後の科目は世界史だった。
数学や国語などと違って、暗記科目は白黒はっきりしている。覚えていなければ解答欄は埋まらない。思い出せなければ諦めるしかない。
とっくのとうに全ての問題を解き終わり、僕が思案しているのはテストの内容ではなく、今朝届いた純からのメッセージだった。
『今日、清が北海道に行く。いつこっちに帰ってくるかは分からない。もしかしたら、帰ってこないかもしれない』
家から出る直前、そんな文字列が目に飛び込み、少なからず動揺した。学校へ向かう電車に揺られていると、返事を寄越さない僕に痺れを切らしたのか、純からのメッセージが追加で入った。
『午前中に荷物まとめて、昼には家を出るって言ってた。午後の便だ』
乗換駅、電車の時刻表。次々と送られてくる画像に、少しずつ実感がわいてくる。彼女は本当に、遠く離れた場所へ行くのだと。
『お前には言うなって清にずっと口止め食らってたから、俺が情報源だってチクるなよ。当日連絡で悪かった』
それを最後に、通知は鳴らなくなった。
学校に着く前、いつものように電源を切って、リュックにしまい込む。
教室へ入って朝のホームルームが始まり、そのままテストが行われた。
『昼には家を出るって言ってた』
時計の長針と短針が一番上で重なる。机の上には、既に解答を終えて裏返した世界史のテスト用紙がある。
どうせあと三十分もすれば帰りのホームルームが始まるだろう。全部終わって、その時に考えればいい話だ。
『もしかしたら、帰ってこないかもしれない』
何だ、帰ってこないって。一言も言わずに行くつもりなのか。しかも純からの連絡がなかったら、僕は一切知らないままだった。
全く、君はいつもそうだ。自分で勝手に決めて、強引で、今まで僕は散々振り回されてきたけれど――
「先生」
「どうした、犬飼」
僕が必ず君の言いなりになるだなんて思っているのなら、それは大きな間違いだ。
「具合が悪いので、保健室に行きます」
「一回出たらテスト中はもう教室に戻ってこれないぞ」
「大丈夫です」
椅子を引いて立ち上がる。財布とスマートフォンだけを持って、教室を飛び出した。
電源がつくまでの僅かな時間さえも惜しい。ようやく起動した画面をタップして、検索をかける。
ひとまず学校の最寄り駅から電車に乗り、車内で純が送ってくれた時刻表と検索画面を照らし合わせながら、最短ルートを探した。
間に合うだろうか。少しでも早い方がいいと思って学校を抜け出してきたけれど、清を捕まえられる保証はない。彼女に連絡を取ったとしても、はぐらかされて終わりだ。
焦る僕とは対照的に、空は気持ちの良い晴天だった。しかし五分もしないうちに雲が立ち込めてきたかと思えば、雨が降り始める。かなりの土砂降りだった。
電車を乗り換え、空港へのアクセスが可能な駅へ向かう。純の情報によると、清はそこから空港へ出ているバスに乗るとのことだった。
『私、航先輩に――』
あの時、彼女は何を言おうとしていたのだろう。僕が聞き返した後、見たこともないような寂しい表情で、何でもないと首を振った。
一体いつから今日のことを考えていた? 何回僕の前で作り笑いをした?
『私、犬飼先輩の絵を見て、この高校に来ようって決めたんです』
君は、僕に出会うべきだったんだろうか。僕が背負わせた傷を、君は何て言うだろう。
駅に着いた頃には雨足が弱まっていて助かった。傘を買っている余裕はない。
清が乗る予定のバスが発車するまでは十五分だ。何とか間に合った、と思わず大きなため息が漏れる。
駅構内地図でバス乗り場の場所を確認すると、僕がいるところとはちょうど反対側――つまり、どれだけ急いでも五分はかかる。
理解するよりも先に足を動かした。走る。とにかく走る。
何度も人にぶつかりそうになり、その度に怪訝そうな顔をされ、それでも絶対に止まるわけにはいかなかった。
苦しい。肺が痛い。こんな全力疾走は体育でしか、否、体育ですらしたことがない。後にも先にも、今日しかないだろう。
駅の出入り口が見える。そこを出て左に曲がれば、バス乗り場だ。
自動ドアを抜けて外に出る。
雨が、止んでいた。
「清!」
賭けだった。彼女が今日どんな服を着ているのかも、どんな髪型でいるのかも知らない。
目に入った黒髪の背中が彼女でありますようにと、願うことしかできないのだ。
だから。
「…………航先輩?」
まさかその声が後ろから聞こえるなんて、予測もしていなかった。
「どうして……先輩が、ここにいるんですか」
弾かれるようにして振り返る。
キャリーバックを引いた清の隣には、恐らく彼女の母親と思われる女性が一人いた。一目見てそう判断できるほどに清は母親似で、特に鼻筋から目元にかけてがそっくりだ。
「ああ……」
安堵と疲労でがくりと膝が折れる。途端に我慢していた咳がせり上がってきて、呼吸を整えるのがやっとだ。
返事もままならない僕に、清が慌てた様子で駆け寄ってきた。そのまましゃがみ込み、「大丈夫ですか」と顔を覗き込んでくる。
「もしかして――というか、やっぱり兄ですよね。それしかないですもん」
僕が頷いて意思表示だけすると、彼女は頬を膨らませた。
「もう、絶対に言わないでって言ったのに……」
そういえば純に「俺が情報源だと言うな」と釘を刺されていたような気もするが、多分それは気のせいだ。そう思うことにする。
酸素を取り込んで、少しずつ呼吸が戻ってきた。立ち上がる気力はまだないので、しゃがんだまま清に問いかける。
「何で、急に北海道?」
さすがに直接質問をされて、はぐらかすつもりはないらしい。彼女は困ったように眉尻を下げ、白状した。
「母方の祖父母が北海道にいるんです。もうすぐ夏休みですし、このまま休学して、しばらくそこで過ごすことにしました」
学校を休むようになってから、両親にはずっと勧められていたのだという。無理に通う必要はない、転校や休学も視野に入れていいから、と。
「航先輩に連れて行ってもらった山で、改めて自然っていいなと思いました。あの日、私たちだけは学校のみんなと全然違う場所にいて、それでもいいって言ってくれる大人の人がいて。これでもいいんだって、このままでも大丈夫なんだって、思えたんです」
その時に決めました、と清が凛とした声で告げる。
「正直、学校に戻るのには勇気が足りなくて……逃げるみたいで嫌だなって思ったし、かなり迷ったんですけど。でも、ちゃんと自分で変わりたいって思いました。航先輩に頼ってばかりじゃなくて、私は、私の道を自分でつくらなきゃいけないと思いました」
「……頼ってばかりって」
僕はそこまで彼女に何かをしてあげられた覚えはない。過大評価だ。
それなのに、清は真っ直ぐな瞳で話す。
「前に色が分からなくなった時、航先輩の絵のおかげで見えるようになりました。それが今までの私の原動力で、全てだったんです。これからの私は、自分で自分の世界を取り戻すきっかけを見つけようと思います」
迷いなど、ましてや揺らぎなど一切ない。彼女は既に決めたのだ。
柔らかさの中に強さを含んだ結論は、糧となって未来の彼女を必ず救うだろう。
「航先輩に会うと、決心が揺らいじゃいそうだったので。向こうに着いたら、ちゃんと言うつもりだったんですよ」
「それだと遅いでしょ」
「だって……!」
俯いた清が、だって、と小さく呟く。
「寂しいじゃないですか。航先輩の顔見て、ああやっぱり行きたくないなって、思っちゃうかもしれないじゃないですか。今だって思いそうです」
僕らの足元にあった水たまりに、波紋が広がる。彼女が俯いたのは涙を隠したいからだと気が付くのに、時間はかからなかった。
僕は、彼女の涙が見たいわけではない。慰め方も励まし方も分からないのだから。
笑っていて欲しいのだ。辛い時や悲しい時は不可抗力だけれど、せめて僕の前では、しょうもない「普通」や「当たり前」なんて気に留めず、笑っていて欲しい。それだけでいい。
「清」
水たまりの上。力なく垂れ下がる彼女の手を、その小指を攫った。
「必ず会いに行く。いつか、君が自分で自分を取り戻したら、その時は会いに行くから、教えて欲しい」
自分の小指をそっと絡めて、窘めるように彼女の小指を軽く引っ張る。
「約束しよう」
清が顔を上げた。透明な雫が彼女の頬を濡らしている。
「本当に、来てくれますか?」
「うん」
「絶対に?」
「絶対に」
僕も負けじと真っ直ぐ彼女を見つめる。
更に潤んだ清の瞳から、涙が一滴零れ落ちた。その震える唇が、ゆっくりと弧を描く。
「私、航先輩に――」
瞬間、彼女の背後。雨が上がった空に、大きな虹が現れた。
すっかり晴れ渡った青を、アーチ状の透き通った「なないろ」がグラデーションを携えながら、濃く染め上げていく。
「あなたに、出会えて良かった」
清が泣きながら、笑いながら、きらめいている。眩しくて、それでも優しい光だ。
綺麗だと思う。いつの間にか、くすんでいた僕の世界は、君を通して鮮やかに色付き始めた。
こんなにはっきりと虹が出ているのに僕には赤が見えないけれど、綺麗なことには変わりない。
大嫌いだった世界を、愛したいと思うよ。君がいる、この世界を。
「僕も、君に会えて良かった」
世界一綺麗だ。誰が何と言おうと、今ここで笑っている彼女が一番綺麗だ。
視界が滲む。目頭が熱くて、自分の頬に伝う温さに気が付いた時、僕は自分の目から涙が出ることを知った。綺麗で眩しくて涙が出ることなんて、知らなかった。
「航先輩、泣かないで下さい。私は、航先輩に笑っていて欲しいです」
自分もぐずぐずに泣きながら、清が懇願する。
今日はバスの時間があるから大人しく笑ってやるけれど、そんなのは僕だって同じだ、というのは悔しいから言わなかった。
清、僕は君が笑っていれば、それだけでもう何だっていい。
発車時刻のぎりぎりにようやく乗り込んだ彼女が、思い切り手を振るので、振り返す。
そのバスが見えなくなるのを待って踵を返すと、もうそこに虹はなかった。




