虹色の定義2
彼女が指さした先にあったのは、まさしく大きなブランコであった。少し飛び出したところに足場が作られており、後ろから前に揺れれば、空中で浮いているような構図になる。
「最近できたばかりみたいでね、若い人に結構人気だよ。今なら空いているから、乗ってきたらどうだい?」
「えーっ、乗ります、乗りたいです! 航先輩、行きましょう!」
ぐいぐいと服の袖を引っ張られ、連行されるような形で彼女と共にブランコへ近付いていく。近付けば近付くほど足場の高さを実感し、無意識のうちに歩幅が小さくなった。
「どうしたんですか?」
立ち止まった僕に、清が首を傾げる。
「いいから乗ってきなよ。僕はここで見てるから」
「あれれ、もしかして怖くなっちゃいました?」
「うるさい」
「冗談ですよー。じゃあ私、乗ってきます!」
なぜか敬礼をして気合十分な彼女は、一切躊躇することなくブランコに腰を下ろした。
「気の毒だけど、今日は見えないんじゃないかな」
前方に意識を向けていたので、いきなり背後から飛んできた声にやや驚く。
僕の横で足を止めた近江さんは、つとこちらに視線を寄越した。清がいる手前、先程は答えを濁していたのかもしれない。
「……そうですか」
別段落胆するということはない。もともと出現率は低く、珍しい現象だ。
たった一度、たまたま今日、ここに来てうまく見られるほど、都合よく空は微笑んでなんてくれない。
分かってはいても、わざわざ彼女を連れ出して、僕は一体何をしに来たのだろうと消化不良な部分があるのも事実だった。
「君たちはどうして、学校を休んでまでここに来たんだい」
清がブランコを漕いで、前から後ろ、後ろから前、と少しずつ振れ幅を大きくしていく。
「……彼女には今、色が見えていません」
彼の質問に、なるべく誠実に答えたかった。それが僕の今日ここへ来た意味であり、彼女への想いでもあるからだ。
「たくさんの景色を、彼女に見せたかったんです。どれかがきっかけで彼女の世界が取り戻されるなら、それに越したことはない。でも、たとえ戻らなかったとしても」
どれだけ褪せても、君がもし諦めてしまっても、僕だけは君の世界を守る。僕の世界を明け渡した日から、それはもう決定事項だったのかもしれない。
「そのままでいい。彼女の世界は絶対に綺麗で褪せないと伝えられるのは、僕だけだと思った」
虹色のキャンバスなんて存在しないのだ。きっと誰のキャンバスだって未完成で、でも僕らは、自分から見える世界を完璧だと信じ込んでいる。目に見えるものが、全てだから。
それなら清、君のキャンバスだって虹色でもいいんじゃないのか。虹色の定義も、完璧の定義も、誰かが決めつけるものではないと思うのだ。
君が「虹は二色だ」と言ったらそうだ。「虹は白い」と言ったらそれで違いない。
君だけではなくて、誰がそう言っても当たり前のように許容される世界を、僕はつくりたい。
「すごーい! たかーい! 航先輩、見てますかー?」
雲が溶けていく。青い空に吸い込まれるように、清の体が宙を舞う。ふわりと彼女の毛先に風が乗って、光が反射した。
眩しくて、ひたすらに青い。
シャッター音が耳のすぐそばで鳴ったのは、その時だった。
目を横に滑らせると、隣の彼が僕にカメラを向けている。
「ごめんね。あんまりいい顔をしているものだから」
そう詫びて、近江さんはゆっくりと腕を下ろした。彼の首にかけられたストラップが、名残惜しそうに弛む。
「カメラを、貸してもらってもいいですか」
僕の申し出に、近江さんが僅かに目を見開いた。それからすぐに穏やかな微笑を浮かべると、彼は手に持っていた高価な機器をすんなり僕に明け渡す。
軽く会釈をして受け取り、清の方へと足を向けた。
彼女がいま漕いでいるブランコの隣に、もう一つ。空いているブランコに座って、カメラを構える。
「あー、航先輩! えっ、何ですか? 何で撮ってるんですかー!?」
前へ、後ろへ揺れるたびに、清の声が遠ざかる。かなり全力で漕いでいたらしく、彼女は隣に来た僕を見て止まろうとするも、なかなかに時間がかかりそうだった。
「航先輩、あの! カメラ! 何で……」
「いいからそのまま漕いでて」
状況が把握できずに若干慌てている清を、ぱしゃりとカメラに収めた。ちょっと! と抗議じみた声が彼女から上がる。
それでも数回シャッターを切っていると、照れ臭さもあるのか、観念したように笑い始めた。
やっぱり清は、青空の下で笑っているのが一番似合う。
脚を曲げてからぐんと伸ばし、空中に飛び出していく。その一連の流れを何度も目に焼き付けた。
風が強く吹く。彼女の髪がなびく。もう一度、カメラを構えた。
「私、航先輩に――」
清が口を開いたのと、僕がシャッターを切ったのは同時だった。一段と風の勢いが増し、場の音を攫う。
「なに?」
やや声を張って、聞き取れなかった彼女の言葉を問いただす。
返事はなかった。
真っ直ぐ前だけを見て漕ぐのをやめた清が、ブランコに揺られている。数秒そうした後、彼女はこちらに顔を向け、「何でもないです」と述べた。
若い女の人たちが僕らの後ろで待っていることに気が付いたので、ブランコを降りて近江さんにカメラを返却する。
「いい写真は撮れたかい?」
持ち主に問いかけられ、正直に「分からないです」と応じた。
「でも、撮りたいものは撮りました」
近江さんが破顔する。
「それで十分だよ」
結局、白い虹は現れなかった。
僕らは近江さんの案内で林道を歩きながら、知らない植物や虫の名前をいくつも覚えて、帰りのバスに乗り込んだ。
行きと同様、流れていく緑色をぼんやりと眺めていると、左肩に突然重さを感じて心臓が跳ねる。首だけ動かして確認すれば、案の定、隣の清がすやすやと眠っていた。
「たくさん歩いて疲れたんだろうね。観光スポットとはいえ、山だから」
僕らの様子を観察していたらしい近江さんは、そう言って愉快そうに目を細める。
当人にそんなつもりはないのだろうけれど、彼の表情が僕を揶揄っているようで、いたたまれなかった。
「ああ、そうだ。今日君が撮った写真を送りたいんだけど、どうすればいいかな」
「……別に、大丈夫です」
「そんなこと言わずにさ。さっきデータを見たよ、いい写真だった」
近江さんの言葉には、一切の忖度もお世辞もない。そうする必要がないからだ。いい写真だった、という言葉にも、それ以外の意味なんて含まれていないのだろう。
仕方がないので、とりあえず電話番号を教えることにした。後で連絡するよ、と彼が嬉しそうに僕の番号を控える。
「それと、これはさっき僕が撮った写真なんだけど」
カメラを操作した近江さんは、こちらに液晶モニターの部分を向ける。
一瞬、自分の目を疑った。
「本当にいい顔をしているから、許可を取るより先にシャッターを切ってしまってね。申し訳ない」
写っていたのは、間違いなく僕だった。恐らく、清がブランコを乗っている時に突然横から近江さんに撮られたものだ。――画面の中の僕は、確かに、笑っていた。
「その子は君にとって、すごく大切なんだね」
『私の大切なものはあなただって――航先輩だって、どうしても残しておきたかった』
穏やかに、息を吸う。吐き出す。
左肩に伝わってくる温もりをしっかりと噛み締めて、僕は頷いた。
「はい。とても」




