虹色の定義1
その日はよく晴れていた。正確には、晴れていた日を選んだ、と言った方が正しい。
とにかく、時刻は午前七時。僕と清はバスの中で揺られていた。
「あのー、航先輩」
窓側の席に座っている彼女が、流れていく外の景色に目を滑らせながら口を開く。
「そろそろ教えてくれませんか……? 私たち、どこに向かってるんです?」
バスは林道を上っていき、周りは緑一色だ。乗り込んでから既に一時間は経過している。
昨日の時点で、早朝に出かける旨を清に話した。僕の一方的で半ば強制的な提案だ。彼女だって普段強引なのだから、これでおあいこだろう。
「見て分かんない? 山だよ」
「や、山って……いや、確かにそんな感じはしてましたけど、まさか本当に行くんですか?」
「ここまで来て嘘つく方がおかしいでしょ」
とはいっても、別に登山をしに来たわけではない。山岳観光だ。多少険しい道を上り下りすることはあるけれど、飛び抜けてハードな体験を強いられる、ということはもちろん皆無である。
「それはそうですけど……でも、どうして山に?」
彼女が怪訝な面持ちで尋ねてきた時だった。
「君たち、二人で来たのかい?」
通路を挟んで隣。こちらに顔を向け、一人の熟年男性が僕ら宛てに話しかけてくる。
彼の服装はアウトドアシャツにロングパンツと、明らかに登山を目的としたものだった。
「はい、まあ……そうですけど」
やや身を乗り出し、背中に清を隠す。
何となく怪しい、と思ってしまったのがバレたのか、相手は僕の反応を見て「ああごめんね」と気さくに笑った。
「変質者じゃないから。ただのお節介なおじさんだよ。もし山に登るんだったら、随分軽装だから危ないなと思ってね」
彼は近くに住む元サラリーマンで、定年退職後、登山を趣味にしているとのことだった。今日もいつものようにこのバスへ乗車したところ、珍しい顔を見つけたので声を掛けたのだという。
「見慣れない子たちがいるなと思ったもんでね。平日の朝っぱらからなんて、この時間は学校じゃないのかい? あれ、もう今って夏休みなのかな」
「ご心配ありがとうございます。登山はしないので大丈夫です」
ひとまずそう答えて、僕は「それと」と付け加える。
「学校はさぼりました」
あまりにも平坦に言い捨てたからか、相手はきょとんとしたまま黙り込んだ。それから突然、相好を崩す。
「……ははっ、そうか、そうかそうか! うん、そういう時もあるなあ。歯切れが良くて素晴らしい」
うん、うん、と僕の返答を咀嚼するように何度か頷いて、彼が眼鏡を押し上げた。
今日は正真正銘ただの平日、それも月曜日だし、僕らは正々堂々と学校を休んだのである。
清は一度欠席して以来登校していないので、今さら一日行かなかったくらいでどうってことはない、と語っていた。僕に至ってはテストが迫っているのにも関わらず、仮病という手段を打って出る始末である。
「自然はいいよ。雄大な山を見ると、自分はちっぽけな存在なんだって実感するね。それこそ、学校をさぼったとか、そんなこともちっぽけだ。自然の前では、人間はみんな平等に無力なんだよ」
「無力、ですか?」
それまで会話に参加していなかった清が口を挟む。
「無力だね。それが悪いって言っているんじゃない。僕らがどんなに喚いても変わらない歴史があるっていうことだよ。人間は自然に勝てない。昔から、自然災害では多くの人が犠牲になってきただろう?」
「そうですね……」
「一生はすぐに終わるよ。僕もこの歳になるのは、あっという間だった」
目を細めた彼は、「おっといけない」と砕けた口調になる。
「こんなおじさんの話ばかりしていてもつまらないね。君たちは山に登らないって言っていたけど、ここに何しに来たんだい?」
人生の先輩である登山者と、すぐ隣にいる清からの視線が両方僕に向けられていた。さすがに誤魔化すような空気ではないので、観念して述べる。
「虹を、見に来たんです」
「虹?」
左から、右から。同じ単語を聞き返され、僕は首を縦に振った。
「白い虹です。白虹を見に来ました」
言い切ったと同時、沈黙が落ちる。それを破ったのは、清の気の抜けた声だった。
「はっこう……? って、何ですか?」
「それは、霧虹のことかな」
「えっ、おじさん知ってるんですか!?」
おじさんと呼ぶのは失礼なのではないだろうか。彼女に代わって咄嗟に「お名前は?」と問えば、彼は近江と名乗った。
「近江さん、霧虹って何ですか?」
「虹の一種だよ。普通の虹は雨粒に太陽の光が当たって見えるけど、霧虹は霧粒に光が当たることで見えるんだ。雨粒よりも細かいから、光の屈折が分散されて色が混ざり合う。それが白く見えて、白虹とも呼ばれているね」
「へええ……」
物知りですね、と感嘆のため息をついた清に、近江さんは自身のリュックからカメラを取り出す。
「実はね、一度見たことがあるんだ。その時にこの現象は一体何なんだって調べて、写真も撮ったはずなんだけど……いつだったかな」
データを遡っているらしい。彼は独り言を呟きながら首を捻っていたけれど、まあいいや、と顔を上げた。
「しっかし、これは物凄くレアな虹だ。条件が揃わないとなかなかお目にかかれない」
通常の虹ですら、見かけるとラッキー扱いだ。白虹は更に珍しくシビアなものだということは、事前情報で知っていた。
霧虹というくらいであるため、もちろん霧が出ていないと話にならない。そして太陽の光が射すことも必要だ。山ではその条件が比較的揃いやすいという記事を見て、今日の山岳観光を思いついたのである。
「航先輩、あの……もしかして」
清がゆっくりと僕を見上げた。彼女が言わんとしていることは、何となく分かる。
『私は、二色の虹しか見たことなくて……』
他でもなく、彼女のためだった。清の話を聞かなければ、こんなことをしようだなんて思わなかっただろう。僕の今の原動力は、間違いなく彼女である。それは否定できないのだ。
「虹なんて何色でもいい。七色だろうが二色だろうが――ましてや一色でもいい。君が見た虹は、これから見る景色は、何もおかしくないんだ」
僕は彼女と同じ景色を見たかった。たとえどんなファインダー越しだったとしても、変わらずに見えるものはあるはずだった。そういう共通項を見つけていきたかった。彼女のためなら、彼女といるなら、それが可能だと思えたのだ。
「まもなく終点、終点です。お忘れ物のないよう――」
バスのアナウンスが流れる。
口を噤んだ僕に、近江さんはぽつりと零した。
「いいね。何だかすごく感動したよ」
バスが止まる。到着のアナウンスが鼓膜を揺らす。
「ねえ。もし良かったら、僕もついて行っていいかな」
「え?」
思わず彼の顔を見やった。カメラを抱えた近江さんが、真剣な眼差しで緩やかに微笑む。
「登山が趣味っていうのは嘘じゃないんだけどね、こっちの方が本命なんだ。君たちといたらいい写真が撮れそうな気がする」
返答に困っていると、清が「いいですよ!」と自身の胸の前で拳を握った。
とんとん拍子で進む話の展開に困惑は拭えないものの、彼女が気にならないのであればそれでいいかと自分の中で結論付け、僕も追随する。
「僕らは別に構わないです。お好きにどうぞ」
「ありがとう。さて、じゃあ降りようか」
乗客が次々とバスを降車していく。その流れに逆らうことなく外に出れば、相変わらず周囲一帯は針葉樹の緑が広がっていた。
「空気が澄んでますね!」
長時間の移動を終えた解放感からか、清は体を伸ばしながら満足げだ。
近江さんは片目を瞑って空を見上げていた。白虹の条件を品定めしているのだろう。
「今日は見えそうですか」
「いやあ……どうかな。これに関しては運も必要だからね。とりあえず、もう少し奥に行ってみよう」
大抵の観光客はこのまま奥の山頂へと向かうようだった。近江さんの後に続いて、傾斜を進んでいく。
観光スポットになっていることもあり、道自体は非常に丁寧に整備されていた。途中の分かれ道で本格的に登山を目的とする集団が逸れていき、比較的軽装な人たちが残る。
「わ、すごい」
十五分ほど歩くと、かなり見晴らしの良い開けた場所についた。遠くに山脈が見える。雄大な景色を背景に写真撮影に励む人の姿が見受けられた。
「虹は……ないですね」
「うーんそうだね、いま見る限りだと。まあもう少し待ってみようか。ほら、いい眺めだ」
近江さんが両腕を目一杯広げて、肺に空気を取り込むように息を吸う。隣に立ってそれを真似しようとした清が、「あっ」と声を上げた。
「あのブランコ何ですか? 楽しそう!」




