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悲しみは生きている3

 


 静まり返る。長い沈黙だった。



「……気付いてたんですか、航先輩」



 陰から顔を出した彼女に、「気付いたのはついさっきだよ」と打ち明ける。視界の端で黒いものが縮こまるのが見えたのだ。



「ばかじゃない。お兄ちゃんは、ばかなんかじゃないよ」



 ただの慰めなどではないと、僕にだって感じられる声色だった。

 ばかじゃないもん。やや幼い口調でそう言い切った清が、珍しく怒っている。



「そんなこと言うなら、絶交だからね。世界一優しい私のお兄ちゃんのこと、悪く言ったら許さないんだからね」


「清……」


「ごめんって言ってくれなきゃ許さないもん。自分でばかって言うお兄ちゃんがばかだよ」



 結局俺、ばかじゃねーか。

 思わずといった様子で口元を緩めた純が呟く。



「ごめん。兄ちゃんが悪かった」


「……うん、いいよ」



 清は怒っているけれど、怒ってなんていなかった。酷く柔らかな表情で頷くから、きっとそうなのだと思う。



「お兄ちゃん、泣きすぎ」


「清、こういう時はあんまりふれずにそっとしとくもんだから」



 額に右手を当てて唸る純が、しっしっ、と左手で僕らを追い払う。



「お前ら、上で話してこい。俺は今からここでティッシュの山をつくる」


「泣く気満々じゃん」


「うるせえ」



 ず、と早速一枚ティッシュを引き抜いて鼻をかみだした純に、清と顔を見合わせる。



「……え、と……とりあえず、どうぞ」



 ぎこちなく促した彼女が階段を上るので、僕もその背中に後ろからついていくことにした。


 清の部屋は一番奥にあるらしい。「sayaka」とローマ字が印字されたプレートがドアにかかっていた。

 中は意外にも簡素なデザインの壁紙で、至る所にぬいぐるみが置いてある。



「すみません、まさか人を通すとは思ってなくて……あんまり片付いてないんですけど」



 正直な感想を述べるとするならば、部屋の主が言う通り、綺麗とは定義し難い状態であった。

 床には散らばった絵の具セットや鉛筆、まっさらな画用紙。伏せられた写真立てが何個か見受けられるのが、少し気になった。


 クッションの上に座っていいと許可が下りたので、腰を下ろしてさりげなく部屋を見回す。



「兄から聞きましたよね。その……色々と」



 彼女の言葉に頷き、僕はそれ以上なんと声を掛ければ良いのか、完全に行き詰ってしまった。話さなければいけないのは分かっている。話したい、とも思っていた。

 ただ、全く出てこない。彼女に言うべき適切な言葉が。



「航先輩が気にするようなことは、本当に一つもないです。ごめんなさい。迷惑かけてしまって……」



 どうして清が謝っているのだろう。僕には関係ないと、一向に突き放されているような気がしてならない。

 歯痒さを覚えながら、それでも自分に一体何ができるのかと問われれば、咄嗟に答えられる自信はなかった。


 タイムマシーンを使って過去に戻り、彼女が傷つく前に事を収める。辛い記憶だけ消すことのできる薬を開発して、彼女の笑顔を取り戻す。

 全部絵空事で、綺麗事だ。僕に彼女を守ることはできない。その事実だけが目の前に転がっている。



「本当に、気にしないで下さいね。前にこういうことがあって、その時の方がずっと苦しかったので。今回のは、大したことないんです。周りの人も助けてくれたし……」


「大したことないとか、言わないでくれる」



 へらへらと話し続ける清を遮った。存外低い声が出て、思わず顔をしかめる。



「前の方が辛いから今は辛くないなんて、そんなのは勝手な言い分だ。辛さの程度で分類されるいじめはこの世に存在しない。君が辛いなら、それが尺度だ」



 辛い時こそ笑え、とかいう人生の教訓は、踏みつけていい。笑って報われるのなら、今頃こうして苦しんでいる人は誰もいないだろう。



「許すな。君を馬鹿にした人間を、君だけは絶対に許すなよ。それは優しさだなんて言わないんだ」



 清が、ぎゅっと眉根を寄せる。



「……私、許さなくて、いいんですか?」



 縋るような質問だった。それはきっと肯定しか求めていなくて、だから――否、そうでなくとも、僕の答えは一切変わらないだろう。



「うん。許さなくていい」



 彼女の目を見て告げる。逸らさずに見つめる。

 ぽろぽろと、透明な雫が清の頬を伝って流れていった。純と全く同じように喉の奥で少しだけ唸って、嗚咽が漏れる。


 隠そうとも堪えようともせず、感情を剥き出しにして泣きじゃくる清に、安堵した。まだちゃんと、彼女の悲しみは生きている。


 窓の向こうで雨が降っているのを眺めながら、清の泣き声を聞いていた。

 僕にはそうすることしかできないのだ。慰め方も、励まし方も、よく分からない。


 ふと窓枠から視線を移して、本棚の二段目に伏せられたまま置いてある写真立てに目を向けたのと、彼女が鼻をすすりながら泣き止んだのは同時だった。



「一番、仲の良かった子なんです」



 僕の視線に気が付いたのだろう。清は唐突にそう言った。



「美術の授業で虹を描きました。テーマは空だったんですけど、私は虹が描きたくて。そうしたら、私の隣にいたその子が言ったんです」



 ――清の虹、おかしいよって。


 当時を思い出したのか、彼女の表情が陰る。



「虹が七色だっていうのは知ってました。でも私は、二色の虹しか見たことなくて……それ以外描きようがなかったんです」


「二色?」


「はい、黄色と青のグラデーションです。すごく綺麗に見えるんですよ」



 そうか、と腑に落ちる。

 虹は七色だというのが当たり前だし、実際に見かける回数が特別多いわけでもないから考えたことはなかったけれど、確かに僕もはっきりと虹を七色で見かけたことなんてないのかもしれない。


 何となく上の方は赤っぽくて、下にいくにつれて青っぽい。固定概念と先入観によって補正された「七色」だ。

 清の場合、赤が完全に見えないのだから、当然虹だってその影響を受ける。



「多分、怖かったんだと思います。見たことないものを隣で急に描きだして、その子からしたら、おかしい、どうかしてるって、感じたんじゃないかなって」



 知らないということは、怖いことだ。分からないから遠ざける。排除しようとする。

 誰だって最初はそうしてしまう。悪気なく、自分と違うものを攻撃して安心を得る。



「でも……それでも、私は友達でいたかった。分かり合えるって思ってました。……無理、だったんですけどね」



 立ち上がった清が、伏せられた写真立てを撫でる。慈しむような動作だった。恐らく、かつての友達との思い出がそこに閉じ込められているのだろう。


 破り捨てないのが彼女の優しさだ。友達だった(・・・)人を責めないのが彼女の生き方だ。

 そんな彼女を、僕は尊敬する。本当に凄いと思う。僕には絶対にできないことだ。



「君はすごいよ」



 記憶を撫でる彼女の手の平に、労いを込めて伝える。



「強くて、綺麗だ」



 届いているだろうか。ありふれた薄っぺらい言葉しか使いこなせない僕は、いま心の底から想っているのだと、受け取ってもらえるだろうか。



『航先輩のこと、もっとちゃんと知りたいと思ったんです。航先輩自身のことを、私が知りたかったんです』



 知りたいと思うことがそうなのだとしたら、僕も同じだ。彼女ほど真っ直ぐで眩しくはいられないかもしれないけれど、君を分かりたいし、知りたいと思う。



「そんなこと言うの、航先輩くらいです」



 照れくさそうに彼女が目尻を和ませる。

 やっぱり優しいですね、と。涙で潤んだ清の声が、耳朶を打った。



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