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悲しみは生きている2

 


 言うことすら憚られる単語を自分の口からスムーズに取り出せたのは、この三日間ずっと、そのことばかり考えていたからだ。


 水曜日、例の彼女たちから聞いた話は噂でも嘘でもない。そこから丸一日かけて情報収集した結果、その三年生の正体を突き止めた。三人組の女子生徒だった。



『え~? ああ、あのちっこい黒髪の一年でしょ。犬飼くんにしょっちゅう付いてって……』


『やっだ、いじめてないって! まあちょっとうざいなー、みたいなね?』


『教えてあげただけじゃん。あんたみたいなちんちくりん、犬飼くんが相手するわけないよって』



 ぞっとした。こんなことを清にも三対一で抜かしていたのかと思うと、気が遠くなる。いけしゃあしゃあと下品に口元を歪めて笑う彼女たちに、絶句した。



「……僕のせいだと思う。今まで人と適当に関わってきたから、そのツケが回ってきたんだ」



 まだ以前の自分の方が周囲へのケアはできていた。恨みを買うようなこともなかった。でも、そんなの本当の僕なんかじゃない。

 自分勝手で承認欲求の塊で、差し出された優しさを振り払う。それが僕だ。誰かを傷つけて、大切な人ひとりすら守れない、しょうもない人間だ。


 ノートを見せてくれたショータに、ちゃんと「ありがとう」と言えなかった。僕のことを好きだと言う子の、目すらまともに見ていなかった。

 粗雑に切り捨てたのは、先に糸を断ち切ったのは、僕の方だ。巡り巡っていま全て返ってきているのだ。



「知ってた」



 テーブルの木目を見つめていると、純が呟く。



「知ってたよ、全部。清の担任がさ、こないだうちに来たから」



 真っ直ぐと僕の目を見据えて、彼は至って冷静に告げた。気が付けばもうそこに軽さの混じった少年のような空気はなく、純は兄の顔をしていた。



「お前のせいって、何で?」


「……だって、」



 僕がもっとうまくやっていれば良かったのだ。清が一方的につきまとっているように見えたのは、僕が彼女をぞんざいに扱っていたからではないのか。彼女だけじゃない。他の人に対してもきちんと対応していれば、清がやっかまれるようなことはなかったんじゃないのか。



「僕がいい加減だったから……適当だったから、こうなったんだ」



 自分の中では最適解だと思っていたものの、一つ前と何ら変わりない言葉を並べている。

 純もそれを分かっているらしく、「あのな」と諭すような口調で問いかけた。



「さっきから適当適当って言ってるけど、じゃあお前は清と適当に関わってたのか」


「それは、」


「違ぇだろ。最初はともかく、今のお前を見てて適当だとは思わない。そんな適当野郎に、俺は妹もサークル長の座も絶っ対任せねーよ、ばか」



 ここにきて暴言を吐かれるとは思わず、面食らう。けれども、この数日間心臓の奥で燻っていた靄が、少しだけ晴れた気がした。



「お前は関係ねえから。いいか、背負うなよ。誰が何と言おうと、いじめた奴が100%悪い。今日清に会って謝るつもりだったんなら、今すぐ帰れ。お前が謝ることなんて一つもないんだよ」



 きっぱりと断言した純は、椅子に背中を預ける。異論は受け付けないと言わんばかりの態度だった。

 そうだとしても、と口走ってしまう。



「そいつらが100%悪くても、僕がちゃんとやってれば、そもそも清はいじめられなかったかもしれない」


「だから自分が悪いってか? ふざけんじゃねーよ。そんなのな、後からならいくらでも言えんだわ」



 俺だって思うよ。

 純はそう言った。テーブルの上で組まれた彼の両手が、自らの罪を打ち明けるかのように力んでいた。



「ああすれば良かったこうすれば良かったって、俺も思う。あの時どうして助けてやれなかったんだろう、もっとできることあったはずなのにって思うよ。思ってるよ。ずっと」


「……ずっと?」



 最後の単語が妙に引っ掛かり、彼に聞き返す。

 それまで淡々と喋っていた純が突然、唇を噛んで黙り込んだ。


 どこかで秒針が、止まることを知らずに動き続けている。静かなリビングの中、機械音が一秒ずつ正確に響いている。


 微かな空気の振動は、どうやら純の吐息が原因のようだった。



「清は……中学の頃いじめられて、完全に色の識別ができなくなった。先天的な二色覚に、心因性要因の後天的な色覚の変化が加わってな。いわゆる、全色盲ってやつだ」



 頭が真っ白なのに、目の前が真っ暗になっていく。そんな感覚に近かった。

 肺が重くて喉も詰まる。早く酸素を取り込んで頭を働かせなければいけない、言葉を理解しなければいけないのに、呼吸を躊躇してしまうほど張り詰めていた。



「青とか黄色とか、今まで見えてた色が分からなくなったんだと。どんどん見えなくなって、昔のテレビみたいだーって、言ってたよ。普通に泣いてたけどな」



 泣いていた、と語る彼は苦笑交じりで、今にも涙を零しそうで、不安定だった。視線も声も手も、頼りなく震えていた。



「あの時も今みたいに部屋にこもって塞ぎ込んでた。でも、急に元気になってな。戻ったって。空が青いって、喜んでたよ。どうしてだと思う?」


「どう、してって……」



 そんなことを聞かれても分かるわけがない。質問の意図を理解できず、戸惑った時だった。



「学校説明会だ。清はお前の絵を見て、治ったって言ったんだよ」



 喉の奥が熱い。指先から頭の隅々まで、血が巡っていく。僕を貫く純の濡れた瞳を、ただ見つめ返すことしかできなかった。



『航先輩の絵を初めて見た時、見えないはずの色が見えたんです』



 ああそうか――そういう、ことだったのか。やっぱり僕は、彼女のことを、まだ何も分かっていなかったのだ。


 最初は嘘をつくなと思った。少し経って、不思議なたとえをしているのだと思った。違う。彼女は最初からずっと、本当のことしか言っていなかった。


 見えない色、見えなかった色。それは人によって変わる。

 赤色盲である彼女が僕の絵を見て「赤が見えた」と言っているのだと、勝手に思い込んでいた。当時の彼女は全ての色を失っていて、僕の絵を見た後、本来見えるはずだった青や黄色などの色覚を取り戻したという意味だったのだ。



「心の状態で良くもなるし悪くもなる。お前のおかげで、清の目は元に戻った。このまま清が楽しく高校生活送れるなら、何も心配いらないって思ってた」


「ねえ。いま、清は」



 一つだけ、懸念事項があった。たった一つ、けれども一番、何よりも当たってほしくはない懸念だ。


 僕の問いたいことを察したのだろう。純は首を縦に振った。横に振って欲しかった。縦に、振ったのだ。



「見えてない。前と、同じだ。……多分、昔のことも思い出したんだろ」



 過去は、変わらないから、変えられないから過去なのだ。絶対に戻れないから、後悔して懐かしんで、時には蓋をしたくなる。

 消せない、消えない痛みだ。傷つかなければ分からない。傷つけなければ分からない。痛みとは、そういうものだ。



「そんな顔すんな。お前は気付かなくて当たり前だよ。清と会ってなかったし、そもそもこうなるなんて夢にも思わないだろ」



 だからな、と、純の言葉がそこで切れる。彼の白い頬が濡れていた。



「ばかなのはさ、俺なんだよ。清のことずっと見てたのに、これが初めてじゃないのに、何もしてやれなかった。どうせお前と喧嘩でもしたんだろって、本気で思ってたんだよ。ばかだろ、まじで。大馬鹿野郎だ」



 純の拳がテーブルを叩く。くそ、くそ。何度も、そうやるせない苛立ちをぶつけるように、鈍く低い音が繰り返される。



『こんな状態で航先輩の絵なんて、見たくなかった……』



 画用紙を裏返す前、怯えるように震えていた彼女の指先を思い出す。どことなく嚙み合わない空虚な瞳。配色に違和感を覚えた服装。

 君の世界が色を失ったのは、一体いつだったのだろう。明確に線引きできるほど唐突だったのか。それとも水が紙に染み込んでいくのと同様、徐々に褪せていったのか。


 分からないから、聞きたいし話したい。会いたい、という願望を歌にのせるシンガーソングライターの気持ちを、初めて理解できたような気がした。



「大馬鹿野郎」



 僕がその単語を拾うと同時、純の肩が僅かに揺れる。



「本人はそう言ってるけど。実際はどうなの」


「……お前、誰に言って」


「そこにいる妹だよ」



 彼が息を呑む。

 階段の後ろに隠れているであろう彼女に、僕はもう一度投げかけた。



「ねえ、どうなの。清」



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